ざっくりとした仮説

 結局のところ、人間の心とか、意志や意識って一体何なのか。私自身の感情や体調が弛(たゆ)みなく変化する中で、そのようなことをどうしても知りたいと思っていました。脳と心の関係を考える場合、「物質的な脳の内部をいくら解剖してみても、心は見つからない。」という事実は、現代人の誰もが認めるところです。
 人間の心や意志や意識などが物質でないとすると、次のように考えられると私は思いました。いわゆる『物』ではないから、数量的に計測できないのは明らかです。それらの実体は、脳波パルスや神経パルスのやりとりのようです。そのことを、何となく心や意志や意識として、私たちは意識(あるいは自覚)できるだけです。そのような意識(あるいは自覚)でさえ、本当はあやふやなものなのかもしれません。つまり、そのように、あやふやに感じているだけなのが、私たちの心であり意識の正体なのかもしれません。私は、私自身がいつもそのように感じているために、そのようなことはそれ以上考えてもムダだと言いわけして、これまで生きてきたような気がします。
 以前私は、2016年12月23日に『心を科学するのは意味がある』というブログ記事を書きました。また、今年のブログ記事では、茂木健一郎さんの著書『脳と仮想』(新潮文庫)を時々読んでいると述べました。それらのブログ記事を書いていた時に考えたことは、心や意志や意識などには『物』としてのはっきりした形が無いのではないか、という一種、当たり前の憶測でした。ならば、それらが、高度で神秘的かつ特別な『もの』なのか、というとそうでもありません。
 以下のように、具体的な例で考えてみるといいかもしれません。例えば、テレビやラジオやスマートフォンなどを、視聴している時を考えてみましょう。時に、電波や交流電流は波状のものだと、学校の授業などで教わったはずです。けれども、日常の生活では、電波や交流電流を直接『波』として見ているわけではありません。脳内パルスのやりとりなんかも、そうです。それらは、科学技術的に計測されて、その存在を確かめられます。また、数量的に計測することもできます。しかし、私たちは、普段それらをじかに目や耳で理解しているわけではありません。実際は、それらの働きが引き起こす結果を、見聞きしているだけです。私たちが実感しているのは何らかを視聴した結果であって、それによって電波や交流電流などがあることを間接的に理解しています。
 したがって、同じように考えてみて、私たち自身の心や意志や意識といったものも、『物質的な脳の、その働きが引き起こす結果』として考えてみるといいと思いました。「脳の働き、すなわち、脳内パルスのやりとりによって生じる」という、これは、ざっくりとした仮説ですが、妙に説得力があると思いました。道理で、心や意志や意識などの実体が、日常では直接目に見えていないはずです。
 もちろん、世の中には他人の心理を察することが得意な人がいます。でも、その一方で、私自身は、若い頃から相手の人間の心がわからなくてしばしば苦しみました。すなわち、対人関係がうまくいかなくて辛い思いを数多くしました。だから、人間の心や意志や意識が、はっきりと形ある物ではなくて、脳の働きで生み出される『断続的で、あやふやなもの』であると知ることは、救いに思えました。心や意志や意識などを、堅苦しくイメージするのではなくて、もっと柔軟性をもって考えていいんだ、と私は気づきました。
 すると、私自身の『死』についても、これまでとは少し異なるイメージで考えるようになりました。これまでの私は、自身の死について恐怖心しか抱いていませんでした。私が死んだら、私の心や意志や意識はどうなってしまうのか、その答えがわからなくて恐怖していたのです。ところが、「そもそも物質である脳が生み出す、その働きが、人間の心や意識の正体だ。」と考えると、人間の死というものの側面が根本的にわかってきたと思いました。すなわち、私自身が死ぬということは、私自身の全ての意識がなくなるということなのだと思いました。私自身の脳の働きがなくなる(すなわち、脳や神経内のパルスのやりとりがなくなる)と、私自身の心もなくなるということなのです。
 よく死後の世界とか、三途の川を渡るというイメージが語られますが、私の解釈はこうです。それはまだ、脳の働きがわずかに残っているうちにみる、あやふやな夢のようなものなのでしょう。そうした死亡直後の状態を考慮して、『通夜』の風習があるのかもしれません。一夜を明かして、死者が再び目覚めないことを確認します。その通夜の儀式によって、死者と遺族とが折り合いをつける、最初の関係が始まる、と考えることもできます。
 そんなふうに、私は、自他の人間の死について、とりとめのないことを考えていました。すると、これまでの恐怖心とは別に、少し安心感が生まれてきました。それは、宗教の力によるものではなく、自然科学的な考察によるものです。当たり前と言ってしまえば、当たり前のことです。何の目新しい奇抜な発想でもありません。けれども、そうあることが、大きいことだと思いました。
 もちろん、そのような自然科学的な考察が、寿命をの伸ばしたり、私自身の生命を救うものでないことは、十分わかっています。しかし、無知が引き起こす恐怖心というものは、よくよく考えてみれば、馬鹿馬鹿しくて意味の無いことです。上に述べたように、人間の心や意識についてのざっくりした仮説から出発して、少しでも私自身の人生の謎に答えを出してみる。そのこと自体は、決してムダではありません。それどころか、大きな意義があると思いました。