ダビデ像の裸体はワイセツか?

 少し前のことだと思いますが、「裸のダビデ像ワイセツである。」あるいは「そのダビデ像はポルノである。」と訴えた人がいるという事件がありました。そのワイセツという根拠は、それが男性の裸を表現している像であること、すなわち、男性の性器もあらわになっていることにあったようです。ワイセツということは、その像が一般大衆の目にさらされていて、不快に思う人が多くて、公序良俗を汚(けが)している。と、そのように主張されているというわけです。
 そういえば、こんなことも過去にはありました。学校の授業で、女性の裸像の美術作品のスライドを見た某女子学生が、それをワイセツだと訴えたという事件です。確かに、異性の裸像を写真や美術作品で見て、私は何も感じないのかというと、そんなことはありません。しかし、そのような男女の裸像を美術作品やその写真で見て、即ワイセツかつ有害(つまり、目の毒)だと判断してしまうのは、ちょっと変な感じがします。ひょっとしたらば、その人は、対象をよく見ないで、「ワイセツだ。」と言い放って、顔を背けているだけなのかもしれません。あるいは、その裸像を見ているうちに、何だかムラムラしてどうにもならなかったのかもしれません。それとも、何らかの性的虐待を受けた過去がその人にあって、心に負った傷から即座に拒絶反応を示したのかもしれません。
 しかしながら、いずれにしても、私は美術作品の裸像をワイセツだとは思いません。美術作品であるならば、美術館やギャラリー展示室などの適切な場所で見る分には、全然問題ないと思います。自然科学博物館で骨やミイラなどの展示物を観るのと、大体同じことです。時と場所をわきまえれば、ワイセツでも何でもありません。
 それよりも、「ワイセツだ。」「ポルノだ。」と主張する人の側に関心が向きます。あの裸像から、生身の人間の男性性器を想像できるなんて、すごい豊かな想像力だと思いました。私は男性で、毎日あれを見る機会がありますが、裸のダビデ像のあれとは、少し違うと思っています。つまり、それをワイセツあるいはポルノだと言い切るには、実際には、それ相当の個人的見解がないとできないと思います。
 現代人は、価値観の多様化を認める社会に生きています。裸のダビデ像を見て「ワイセツだ。」と誰かが言ったとしても、「それは間違いだ。」とムキになることはありません。誰かがそのように断言して、他者を訴えたとしても、それは間違えではありません。それは、その人の自由であり、個人的な意見としては認められるべきです。ただし、そこから一歩進んで、「ダビデの裸像はワイセツだから、公に禁止するべきだ。」とか「女性の裸像の美術作品は、ワイセツでエッチだから、見てはダメです。」などと、他人に強要することはできないと思います。「他人も自身と同じ意見でなくてはならない。」とか「そうじゃなければ、世の中みんなが幸せになれない。」などと考えるのは、おかしなことです。それほど今の世の中は、各人の多様性に満ちています。それが良かろうと悪かろうと、ある意味でそれは仕方のないことです。自身の独自の見解を容認してもらいたいならば、それとは正反対の、まったく違う見解も認めるべきなのかもしれません。
 したがって、どう自己主張するのかは個人の自由ですが、その主張を他人に強要できるかと言うと、それはまた別の問題と言えましょう。『価値観の押しつけ』とか『押しつけられた価値観』と呼ばれるものがあるようです。「価値観を押し付けられる」などと言うと、ネガティブな表現に感じられるかもしれません。しかし、実際には、誰もそれほど気にかけてはいないようです。ほとんど無意識のうちに、他者に何かを押しつけて、かつ、受け入れられているようです。何かを押しつけられてはいるものの、それがあるからこそ、人間同士が何らかのやりとりができるわけで、必ずしも悪いこととは言えません。
 しかし、最悪の場合は、喧嘩であり、戦争になってしまいますから、慎重を期する必要があります。この問題に関しては、もう少し詳しく別のブログ記事で改めて述べてみることに致しましょう。