国語力のすすめ

 最近、日本人の文章読解力は落ちてきていると、言われています。テレビやネットなどのメディアから、最新で高度な情報を迅速かつ大量に取り入れなければならないことに追われて、無理を通してしまっているようです。よく考えて判断すべきところを、感情に任せて即断してしまい、後で取り返しのつかない失敗をしてしまうことも少なくありません。どうしてそんなことになってしまったのか、ということにさえ後になって思い当らないくらい重症化してしまうことも多いようです。
 そのうち近いうちに世界がグロ―バル化して、みんなスタンダードな(つまり、標準的な)考え方や思いになるから、ある程度それは曖昧(あいまい)な意識のままでも大丈夫だと、多くの日本人の皆様は思っているかもしれません。がしかし、現実はそんなに甘くないと思います。社会の多様化とよく言われますが、自他の考え方の違いがわからなければ、互いにいがみ合い憎しみ合うことは避けられません。日本人がいくら相手と仲良くしたいと思っても、難癖(なんくせ)をつけられて罵倒されるのが落ちです。そうならないために、母国語の勉強をしっかりやっておくべきです。昨今の小中学生にはプログラミングも英語も重要かもしれませんが、国語力がしっかりしていないと、将来日本人は、日常的にも国際的にも惨(みじ)めな経験ばかりすることになってしまうかもしれません。
 と申している私自身も、かつては国語の読解力を曲解していました。小学生の頃から、漢字テストはまずまずの点数でした。しかし、本を読むことが苦手で、どうやって国語を勉強していいのかわかりませんでした。テレビドラマを観たり、日記を書いたりするのは好きでしたが、そのままでは国語の文章題が苦手になりそうな気配がちらほら現れつつありました。そこで、読解力を扱った国語ドリルを本屋さんから買ってきて、自分一人で解(と)いてみました。
 例えば、物語の文章を読んだ後で、次のような設問に答えます。「この物語の主人公は誰ですか。」とか「主人公は、どこへ行こうと決心しましたか。」とか「道の途中で出会った3つの動物は何ですか。」とか「主人公が3つの動物に与えたものは何ですか。」とか「主人公と3つの動物が一緒になってこらしめたのは誰ですか。」というような設問があったとします。当時の私は、これらの設問を見て、「何だ。物語の文章を暗記していれば、それらの設問に全て答えられるじゃん。」と思いました。国語の読解力なんて、文章を暗記できれば全ての設問に正解できると、曲解してしまったのです。少なくとも、読解力というものを「いいじゃん。」「すげえじゃん。」と思っていませんでした。
 その結果、中学一年の中間テストで国語は38点というヒドい結果を私は出してしまいました。そんな失意の中で、私はそんな国語の授業で宮沢賢治さんの『オッペルと象』という作品に出会いました。その作品を授業で勉強していくうちに、オッペルという人間のズルさやワルさや頭の良さに心を動かされながらも、それを脇で眺めていた語り手の冷ややかな見方に文章の面白さを感じました。悪い成績を出しながらも、私が国語を嫌いにならなかったのは、宮沢賢治さんのその作品を読んで理解できたからだと思います。
 それから後に、太宰治さんの『走れメロス』やヘルマンヘッセさんの『少年の日の思い出』とか安岡章太郎さんの『サーカスの馬』とか芥川龍之介さんの『羅生門』とか森鴎外さんの『舞姫』とかの、特徴的で面白い作品に国語の教科書で出会うことになります。どの文学作品も、勧善懲悪とは程遠い、人間の欲望や弱さや身勝手さや不幸を描いていて、思春期の私にとっては涙が出るほど面白かったのです。
 私の考えの押しつけになってしまうとマズいので、ここでやめておきます。ここで、一番問題なのは、どうしたら国語の力を日本人一人一人が伸ばせるかという問題です。その答えもまた、中学一年の国語の教科書(西尾実さん監修)に記載されていました。私は、高校を卒業してからやっと、その教科書中のとある文章に気がつきました。その文章は、本書を編纂した人が創作した対話文でした。先生と生徒との対話形式によるその文章によると、生徒の一人が「どうやったら国語の読み・書き・聞き・話す力を伸ばすことができますか。」と先生に質問します。すると、先生は「これをやれば、すぐに上達するという方法は無いなあ。各人が、読み・書き・聞き・話すたびに、少しだけでも上手くなろうという意識をもって、少しずつ地道に日常生活の中で努力していくことが大切だよ。」などという話をしてくれます。また、読み・書きの力がある程度できていないと、聞き・話す力も上達しません。両者には、つながりがあります。バランスが重要です。
 食べ物は、少しずつ栄養を摂らないと、体内に十分吸収されません。それと同じように、文章の読解力を含む国語力を身につけるには、少しずつ、少しでも上手くなろうと意識して、読んでみる、書いてみる、聞いてみる、話してみることによって、少しずつ上達していくことが大切なのです。これからも、私たち日本人にとって、国語力を身に着けていくことは、人間として生きていくために必須であると言えましょう。このことに、どんなに時間が費やされようとも、決してムダではないということを、重ねて申し上げます。