何をどうやって『尊重』するのか?

 今回は、日常的でありふれていることに関して、なるべく理屈っぽく考え述べてみることに致しましょう。「他人の意見を尊重する」とか「個人を尊重する」と、よく言われます。日本国憲法の第十三条には、「すべての国民は個人として尊重される。」とあります。そこで、『尊重』という言葉の意味するところを普通に考えてみると、なかなか容易ではありません。私の持っている古い国語辞典で、尊重という言葉を引くと、「とうとび、おもんずること。」という、まるで循環論法に陥るようなことが書いてあります。同様にして、『尊厳』という言葉を調べると、「とうとく、おごそかなこと。」などと書かれています。それでは、その実態がよくわからないので、インターネットでいろいろ調べてまとめてみることにしました。「価値あるものとして、大切に扱うこと。」という解釈が、私にはしっくりと来ました。
 もちろん、「価値があると感じられないと、大切に扱えない。」ということになると思います。けれども、『尊厳』とか『尊重』という言葉には、何か抑圧的なものを感じてしまいます。私としては、素直に従えない気持ちです。つまり、「少数意見を尊重する」「他人の意見を尊重する」「個人を尊重する」あるいは「弱者の立場を尊重する」などと言われて、そうしなければいけない、と他人から強要されても、「場合によっては、そのようなことに素直に従えないこともある。」というのが私の正直な見解です。かえって、通常それが容易でないからこそ、そのような主張に意味がある、とも考えられます。
 また、子供あるいは被害者などの弱者の立場を尊重する場合、余りに気を使いすぎて、過保護的になってしまうことも、よくあることです。難しいところですが、相手の立場をよく理解して、適切に判断することがよいと思います。(無理かもしれませんが)なるべく感情的にならずに、冷静に対処したいものです。
 そして、このような問題に関して、どうしても外すことができないポイントは、『組織』についての考え方です。人間社会的には、コミュニティ(共同体)とかいう言葉で一般的に知られています。しかし、本当は、いかなる場合でも、外せない言葉であり、考え方です。特に、現代の若い世代の人たちには、(もちろん彼らに直接責任はありませんが)欠けていると思います。あまりに、個人の気持ちや主張を重視しすぎるような感じがします。学校や会社の中で、人間的に揉(も)まれてこそ、それは治ってくると思います。しかし、その前に悪の道に染まったり、自殺をしてしまうなどの脆弱な面も彼らには診られます。(それもまた、実は、若者自身の責任ではなく、大人の側の責任です。)日本人の生き辛さの原因も、おおかたそこにあるのかもしれません。
 『組織』といっても、学校や会社だけではありません。私たちがつどう集団もしくはコミュニケーションの場や、各種の団体もそうです。そしてまた、国家という大きな組織、すなわち、アメリカ・ロシア・中国などの大国の政治的組織から、『家族の絆』とも呼ばれる、各家庭という小さな組織まで、人間が形作り、そこに帰属する組織というものはピンからキリまであります。私たち一人一人の『個』でさえも、「健康を維持する」という観点からすれば、そのおのおのが『組織』であることは明らかです。言うまでもなく、そのような『個人』が、それぞれの『細胞の組織』であることは、自然科学的にも明らかなことです。私たちが「健康を維持する」ということは、私たち自身を形作る細胞組織を守ることに他(ほか)なりません。
 したがって、私は、現代の若い世代の人々への教育には、『個人』と『組織』の両方を意識させる教育が必要であることを提唱したいと思いました。『個人』に偏重しても、『組織』に偏重しても、私たち一人一人は生きていけません。『個人』および『組織』に対する意識のバランスが、これまでの私たちの生き辛さを多少でも解消してくれることを期待して、今回の話を閉じたいと思います。