オリンピック大会組織委員会のM会長の問題で、ボランティアが少なからず参加を辞退したというニュースを最近聞きました。そのこと自体は、それほど奇異なことではなくて当然のことだと、私たち日本人の誰もが感じたことでしょう。しかし、ちょっと待ってください。一体いつの時代のことを言っているのかと、本当は不思議に思わないといけない、ということを私は警告いたします。
ボランティア(volunteer)とは、そもそも志願者や有志のことであり、自主的・自発的に自由意思で行為を進んで行う人です。M会長の問題で自発的に、オリンピック大会参加を辞退すること自体は問題ありません。しかし、M会長が個人的に気に入らないからとか、オリンピック大会組織委員会のもたもたが気に入らないからとかの理由で、参加を辞退するのはけしからんと思います。「あなたがたは、M会長や大会組織委員会にご奉公するためにボランティアを引き受けたのか。」と、私が外国人であったならば問いかけると思います。また、もしも私が、大会ボランティアの一人としてメディアにインタビューを受けたとしたならば、こう申し上げます。「トップの会長が誰であろうと、大会組織委員会がどうあろうと、私が大会を支えるボランティアの一人としてしたいと思うことに変わりはありません。皆さん頑張っていきましょう。」しかしながら、私がテレビのニュース情報番組を観たかぎりでは、そんなことを言う日本人は一人も見当たりませんでした。ボランティアの精神はどこへ行ってしまったのでしょうか。トップがいないと何にもできないのでしょうか。自主性のかけらもないということに、私は怒りを覚えます。日本人は、世界に向けてよくもこう恥さらしなのかとつくづく思います。
ここで、一つの寓話(ぐうわ)を紹介いたしましょう。第二次大戦中、旧日本軍は、とある南の国の戦場でアメリカ軍と交戦状態に入りました。当初は両軍とも物資の差はありませんでしたが、あることが原因で日本軍は総崩れとなりました。もっとも、当時の日本兵は皆よく訓練されていて秩序正しくて、アメリカ兵との戦力の差はほとんどありませんでした。特に団結力にいたっては、アメリカ兵の数段上を行っていて、死傷者も逃亡兵も当初は少なかったのです。
ところが、日本軍側で陣頭指揮を執(と)っていた一人の上官が、アメリカ兵の銃弾に倒れたことをきっかけにして、戦場の状況は一変してしまいました。上官を失った下士官以下の日本兵たちは、各人どうしたらいいかわからなくなって、混乱をきたした中で散り散りばらばらとなってしまいました。それを見て勝機をつかんだと確信したアメリカ軍は「敵の上官を狙え。」と兵士たちに口ぐちに伝えて、日本兵の上官ばかりに銃火を集中させる作戦に出ました。その戦場において、アメリカ軍のこの作戦は面白いように何度も成功を収めました。
やがて、陣頭指揮の上官を狙われてばかりいることに、日本軍側も気づきました。日本軍も同じ作戦に出て、アメリカ軍に報復しました。アメリカ兵たちの中で陣頭指揮を執っている上官だけを、狙い撃ちにしたのです。ところが、戦場のアメリカ軍を混乱させることはできず、そのもくろみは何度やっても失敗に終わりました。結局日本軍は撤退を余儀なくされて、歴史的な敗走と敗退を以後繰り返すこととなりました。
『自由の国』アメリカの兵士たちが、陣頭指揮の上官を失いつつも、なぜ散り散りばらばらになって敗走しなかったのか、ということに大きな教訓がありました。彼らは、戦闘中に上官を失っても、生き残った者たちの中から、上官の代わりをする者がすぐに現れて、戦闘が続けられたのです。たとえその者が戦場で倒れても、また別の者がすぐに現れて、代わって陣頭指揮を執っていたのです。日本兵がいくらアメリカ兵の上官ばかりを狙っても、次から次へと上官の代わりをする者が自主的に現れて、いっこうに戦果が上がりませんでした。
日本の兵士たちは、上官の言うことをよく聞いて、よく従っていました。それが日本人の長所でもありました。しかし、その分、その上官がいなくなると、自分自身で物事を考え判断することができず、自主的に行動することができませんでした。それが日本人の短所でもありました。戦場での日本兵たちは、ひとたび上官を失うと、一人でどうしていいのかわからなくなって、混迷する集団の中で散り散りばらばらになってしまったのです。
したがって、一人一人が自主的に考え行動をする『民主主義の国』アメリカ合衆国の精神は、戦中戦後の日本人にとっては、その経済力を背景とした物量作戦と同じくらいに脅威でした。戦後日本がアメリカのような民主主義国になろうとしたのは、当時のアメリカに国家的に強制されたからというよりも、民主主義の精神とそのシステムが生み出す人的パワーに怖れを抱いたからに他ならなかったのです。
だから、民主主義の精神をなめてはいけません。多様性を認める社会も、民主主義の精神があってのことです。そのために、一人一人が『主人公』としての自覚をもって自主的に考え行動するのだと思います。そして、その結果が、みんなの協力や共生という形として現れるのだと思います。そう考えてみれば、トップの会長が誰だとか、大会組織委員会がどうだとか、ということは小さいことです。何年かかってもいいですから、いつか日本国民に、自主的・自発的な真のボランティア精神が根づくことを私は願っています。