選挙で後押しできること

 選挙の投票などと言うと、あまり馴染みのない候補者たちの公約や経歴や信条を理解して、その中に賛同できる人がいるかいないかと、思い惑う人が多いと思います。結局、そのような人が都合よく見つからないから、投票しない、という人も少なくないようです。そんな懸念をおぼえつつも、つい先日も、統一地方選がありました。そんな懸念を気にしつつも、私も、最寄りの投票所へ行ってきました。
 前日、若者の投票を街頭で呼びかけている大学生の姿をテレビのニュースで見かけました。でも、何だか説得力に乏しいような感じが、私にはしました。多くの若者たちが投票して、自分たちの思い通りの社会にしていこうというのは、虫が良すぎる気がしました。若い有権者は、政治権力に指一本でも関わることへの重みや怖さをもっと感じて欲しいものです。
 そのようなことを、今回私が考えるようになったのは、青木島遊園地の問題をテレビのニュースで知ったことがきっかけでした。実は、私の親戚が長野県長野市青木島に住んでいて、20年前にそのお宅にお邪魔したことがありました。その頃の記憶では、そこは確かにのどかな盆地の中の平地でした。私の親戚のオジサンは、植木屋を営んでいました。そのオジサンから、1アールの田んぼと1アールの野菜畑を見せられて、先祖代々から守っている農地(すなわち、財産)だ、と聞かされました。つまり、その地域では、このような猫の額のような、小規模農地を所有している地権者が多数いらっしゃいました。
 長野県での就農を考えていた当時の私は、長野市青木島でそのような状況を知って、そこでの就農は断念しました。1アールの田んぼと畑では、農業だけで生計を立てていくことは不可能でした。また、それらの小規模農地が、都市経済の発展によって、数多くの住宅に変わっていくのは時間の問題でした。そのことに、20年前の私は気づいていました。住宅が増えれば、その地域に住む人の数も増えます。のどかな田園風景が、いつの間にか、にぎやかな街の喧騒に飲み込まれていくのは、人の世の常です。
 ですから、昨今の青木島遊園地の廃止問題は、私にとっては無関心ではいられませんでした。増えゆく子育て世代の住民たちにとって、長野市職員や長野市長の態度や姿勢が、余りにもぎこちなく思えました。また、長野市議会にいたっては、この問題でSNSを利用した市議の一人に対して、懲罰委員会を開くという事態になりました。一人の市議の政治活動に、市議会が懲罰を与えるという、そういうこともあるのだなと、私はここで学びました。行政の側に立つ、自治体の職員にしても、市長にしても、市議会にしても、政治権力に携わる人たちは、その権力を行使することへの重み・責任・怖さをわきまえていないといけません。職員に採用されたから、市長や議員に選挙で当選したから、喜びを爆発させる、その気持ちはわかります。けれども、その喜び以上に、民衆から政治権力をまかされる重圧があることを、それらの人たちは忘れてはならないのです。
 そんなふうに思ってみれば、今回の選挙で落選した人たちも、それほど落胆しなくていいと思います。職員や議員になっても、自由に政治活動ができるわけではなく、その組織のルールに合わなければ、懲戒処分を受けたり懲罰にかけられてしまうのです。したがって、選挙における当選か落選かの違いに、雲泥の差はありません。政治権力を扱える組織に入るか入らないかの違いでしかないのです。
 それはともかく、有権者の一人として、今回の長野県議会議員選挙をどのように私は考えていたのかを述べておきましょう。先の、青木島遊園地の問題があったせいなのか、地元の候補者の選挙運動には少し変化が感じられました。『子育て世代』とか『子育て支援』とかという言葉を、選挙運動期間中にほとんど私は聞いていません。選挙カーで「子育て世代」と言いかけて、口をつぐんでしまうウグイス嬢さんもいました。今回の選挙では、これらの言葉は神経質に扱われ、あたかも禁句に近いもののようでした。
 私はよく憶えています。長野県市長選挙長野市議会選挙で『子育て支援』を公約にかかげて当選した人たちがいらっしゃったと思います。その人たちが、青木島遊園地の問題では『子育て世代』の側に立っていないのは、いかなる言いわけがあろうとも公約違反です。みんな忘れているのでしょう。なぜ、その人たちは、懲罰を受けないのか、私は理解に苦しみます。
 だから、今回の選挙では、私の地元では、『子育て支援』を公約に掲げる候補者が少なかったようです。それは、立候補者の良心のあらわれなのかもしれません。とはいえ、私の考えは、もっと自由でした。そのような状況の中で、あえて『子育て世代』や『子育て支援』を口にする候補者に注目しました。
 「それらの言葉を口にしたならば、青木島遊園地問題のこともあって、県民の支持を失って落選するかもしれない。」などという不安を振り切って、それらの言葉を口にした候補者は、本当に度胸がすわっていると思いました。そのような突破力のある人こそ、今の長野県議会議員にふさわしいと、私は思ったのです。もしも、その力が悪い方向に働いて、大衆に迷惑をかけたならば、懲罰委員会にかけられることでしょう。その時は、潔く議員を辞めてしまえばよいのです。「議員死すとも、正義は死なず。」の意気は、必ず後世に評価されることでしょう。
 事実、その候補者は、今回の選挙で当選して、長野県議会議員の一人となりました。また、今回の長野県議会議員選挙では、女性候補者の当選も過去最高でした。「日本の政治には、女性が打ち破らなければならない、壁や天井がある。」みたいなことを小池東京都知事がかつておっしゃっていました。私は、他国のように強制的な目標などの規制がないにもかかわらず、若い人や女性が一人でも多く議員になってくれることを歓迎する立場をとっています。彼らにこそ、政治権力の重さや怖さを実感してもらいたいと思うからです。確かに、選挙の投票数は、年を追うごとに減少傾向にあります。でも、それでも、「観ている人は、観ている。」ものです。立候補者も有権者も、臆することなく選挙に関心を持って臨むことを望みます。
 そもそものことを述べて、今回のブログ記事の最後といたしましょう。なぜ『子育て世代』を『子育て支援』することに意味があるのでしょうか。それは、つまり、その支援が、政治的に正しいからです。この国で一番働いて一番税金を納めている世代が『子育て世代』である、ということに異論がある人は少ないと思います。確かに、地方自治体にとっては、大きな税収源と言えます。どの自治体も、そのような移入移住者が増えて、他の自治体との競争に勝つことを願っています。あるいは、その競争ムードを嫌がって、国が何とかしてほしいと嘆願している自治体もあります。
 当然、子育て世代以外の世代、すなわち、子育て支援を必要としない人々にとっては、「何で子育て世代ばかりを優遇するのだ。」とか「もっと別に大切なことがあるじゃないか。」という意見に流れやすいものです。しかし、一番働いている現役世代が、国に税金を納めているということは、誰にとっても無視のできない事実です。そのような世代が行政サービスの優遇を受けていないとしたならば、それは大問題です。この国で一番働いている世代が、この国の『国益』を生み出していると考えることは、幻想なのでしょうか。と私は、世に問いたいと思います。
 とするならば、なぜ若者に選挙に参加して、政治的権力の一端を担って欲しいと考えるのか、ということの意味もわかってくると思います。若者は、かつての『働き盛りの世代』の生み育てた結晶です。つまり、その若者自体がこの国の『国益』(つまり、人的資源)なのです。だから、闇バイトで悪いことをした若者を、そこから救いだして更生させることが、国益にかなっていると言えます。だからこそ、この国の若者が一人でも将来に夢を持てるようになることは、この国の大きな『国益』にかなっていると言えるのです。ただし、そのような難問に対処するには、大きな力が必要です。国家権力や政治権力がそっちに向いていることは、民主主義国じゃないとできない大切なことだと思います。
 だから、未だに奥さんも子供もいない私は、『子育て支援』を訴える『子育て世代』の立候補者に、一票を入れました。私自身の利益を求める『自助』ではなくて、立場の違う誰か他の人への『公助』となるように、我が一票を投じました。このような選挙への参加方法があることを、一人でも多くの人たちに知ってもらいたくて、今回の記事を書きました。