有権者諸君、狂いたまえ。

 いきなりの話題変更で申しわけありませんが、このごろの選挙の投票率低下に対して言っておきたいことがあります。今回のタイトルは、あの吉田松陰さんの言葉をもじって作ってみました。
 申しわけありませんが、私はNHK総合テレビの『花燃ゆ』を毎週観ていません。今回たまたま、テレビで見かけました。ところが、それは彼が井伊直弼さんに酷いことを言って斬首されるシーンでした。井伊直弼さんだって日本の国のことを考えていたはずなのに、「吉田松陰さん、その言い方はないだろう!」と、ドラマ全体を観ていなかった私は、思わずテレビに向かって叫んでしまいました。(フィクションなのですから、そんなに熱くならなくてもよかったのに、と後で私は思いました。)
 吉田松陰さんといえば、江戸であの松代藩士だった佐久間象山さん(私の母の実家のある長野県松代では、この人はかなり有名です。)に師事していたと言われます。ネットで見ても、クレイジーな人だったという意見がある一方で、情熱家で門下生たちのやる気を引き出したという評価もありました。
 そこで、もしもそんなタイプの人が、近年の選挙の投票率低下を知ったら、こう言うのではないかと私は想像してみたわけです。ここからは、選挙に関する私の勝手な意見を述べさせていただきます。もしも耳障りでしたら、聞いてないふりをして頂いて結構です。私としても、この問題をそれほど深刻に思ってはいないからです。気楽に受け流してもらえれば幸いです。
 一般的に言って、私たちは選挙でどの候補者に投票して良いかと迷います。なぜならば、私たちのニーズに応えてくれる、完璧な候補者がいないからです。候補者は、誰もが「あなたの清き一票をお願いします。」といった類のことを公言します。しかし、私たちはそれゆえに、どの候補者を当選させていいのかを迷い続けるのです。
 私たち有権者は、この『清き一票』という言葉に、大人としての自覚と責任を感じて、絶えず迷い悩まされ続けてきました。結局、自ら判断できなくて、投票を放棄してしまいます。そして、誰にも投票しないことによって、自らの『正しい』意思表示をしたと考えます。大人として、個人として、日本国民の一人として、責任ある判断をしたと思い込んでしまうのです。つまり、『誰にも投票しない』ということは、(変な例えで申しわけありませんが)『誰のものにもならないアイドル』のようなもので、一番この世で公平なことだと考えてしまうのです。これこそ、理想的な『清き一票』であるというわけです。
 このように、私たち有権者は『清き一票』という言葉に、これまで一人残らず振り回されてきました。ちょっと考えてみればわかることですが、選挙に投票される一票ごときに『清い』も『清くない』もないのです。選挙は、選挙管理委員会によって運営されるものであって、その運営責任が私たち有権者に直接のしかかってくるものではないのです。また、何度も言わせてもらいますが、どの候補者に投票しようと、どの政党に投票しようと、そのことに対して私たち有権者は何の責任も問われません。選挙が、秘密投票というシステムを採用しているのはそのためです。従って、誰かに○○党に投票するようにお願いされても、私自身の考えで××党に投票することは罪とはなりません。それで、○○党に入れてくれましたか、と頼まれた人に後で聞かれても、「はい。○○党に入れましたよ。」と言っておけば、人間関係に角が立つことはありません。
 よく選挙で選ばれた国会議員さんたちは「国会内は、数の論理だ。(多数派に力がある。)」とおっしゃられます。けれども、選挙自体が『数の論理』で成り立っています。そのことを、私たち有権者はわかってはいるものの、良くは思っていません。そこで私たち有権者は、「自分が投票しなければ、みんなが投票しなくなるだろう。(選挙なんて無能なシステムだから、無効にしてしまえ!)」という不思議な理屈を考えるようになるのです。
 しかし、ここで立ち止まって、よく考えてみてください。一万人の有権者がいる地域(あるいは、選挙区)があるとします。ものすごく極端な話をしましょう。9千9百9十9人の有権者が無投票で、たった一人の有権者が、一人の候補者に投票したとします。すると、たった一人の有権者の意向が、9千9百9十9人の有権者の意向をくつがえしてしまうことになるのです。確かに、これは極端な例であり、何の説明にもなっていないと言われるかもしれません。だけど、小中学校の義務教育の頃を思い出してください。あの頃の学級委員の選出で、誰も立候補者がいなかった時のことです。誰か一人の推薦で、一人の学級委員が決まってしまうことがあったはずです。よって、それはあり得ることなのかもしれません。
 これまで選挙というと、候補者対候補者、もしくは、候補者対有権者の争い、と世間一般では考えられていたと思います。しかし、上に述べた極端な例から考えてみると、そうではなかったと考えられます。つまり、選挙の本質は、有権者有権者の争いにあると考えられます。私たち有権者のほとんどは「自分が投票しなければ、みんなが投票しなくなるだろう。」などと考えてしまいがちです。そうなれば、候補者たちに公平に私たちの意向が反映され、分配されるだろうと考えることでしょう。ところが、現実はそう上手くはいきません。意見の違う他人は、最低一人は必ずいるものです。選挙で投票しない有権者は、選挙に投票する有権者の意向に従わなければならないのです。それが、意見の違う他人であれば、こちらが彼の信条や意向に無条件に従わなければならないわけです。自身の意向を選挙で表明しない有権者が損であることは、明らかだと私は思います。
 候補者のアピールが完璧でないことに気を取られていると、そういう事態に陥ってしまうのです。どうするべきか考える必要があります。実は、選挙の候補者が人間である限り、そのアピールが完璧でないことは仕方がないことなのです。要するに、物事の考えようなのだと思います。その主張が完全無欠で非の打ちどころが無いアンドロイドのような立候補者が仮にいたとして、私たち有権者は安心して彼に投票するとは思えません。そのような者に、私たちの生活が不当に支配・規制・統治されたら大変なことになります。
 従って、私たち有権者は、候補者に理想を押しつけ過ぎないことが必要です。かつ、意見の違う有権者が必ずいることを意識していることが必要です。私たち有権者一人一人が、地元や自国のことに関してそれなりのビジョンを持っているとするならば、こう意思決定すべきです。単純に考えて、私たちのビジョンを妨げる候補者に対抗できる候補者に投票するべきです。私たち有権者は、この地域や国の支配者ではないのですから、個人としてできることは限られています。選挙の投票に参加すれば、いやでもそのことを思い知ることでしょう。「それでは意味がない。」と言う人は、結局現状から逃避して目をそむけていると、私は思います。