コロナ禍に読む小説『正義派』について

 この小説は、志賀直哉さんという小説家によって大正1年9月に執筆されたと言われています。新潮文庫の『清兵衛と瓢箪・網走まで』(昭和43年9月15日初版発行、平成23年9月15日70刷改版)に収められた短編集の一作品として読まれてきました。令和3年の今年の秋で、志賀直哉さんの没後50年となります。そんなこともあって、今回は私がこの小説を読んで考えたことを書いてみたいと思います。
 まず新潮文庫の本書巻末解説(国文学者の高田瑞穂氏、昭和43年9月著)から引用します。「…『正義派』は、「興奮と努力と」をもって正義を支えた人間が、そのために味わわなければならなかった「物足らない感じ」の表現である。…」とあります。この小説では、人が「良かれ」と思ってやったことが十分に報われるとは限らない、という現実が読み取れます。後の『小僧の神様』に通ずるテーマですが、誰しもが経験するような苦悩が描かれています。そのような、道徳的に正しいことをしたのに、それに見合った実感が得られないということは、現代に生きる私たちでもよくあることだと思います。
 最近話題の『自粛警察』のメカニズムを知りたいと思って、私はこの『正義派』という小説を読み返してみました。正義を振りかざした者は、その熱が冷めた時に、自身の立場を悪くしたことに初めて気がつきます。だからこそ、際限なく、その見返りが欲しくなるのかもしれません。そしてまた、他人に対する不安や不満、すなわち、自身の満たされない心とも向き合わなければならなくなります。
 正義感から事故の証言をした当初は、仕事をクビになることすら何とも思っていなかったのですが、「段々に愉快な興奮の冷めていく不快」感や「報わるべきものの報われない不満」によって、今の仕事をクビになっちゃうかもと彼ら3人の線路工夫は思うようになります。彼らが期待していたほどに、周囲の人々が注目してくれなかったことに、悲哀が感じられました。つまり、『正義派』の彼らにとって、世間の日常的な平穏は、多分に事なかれ主義に見えたのかもしれません。………
 さらに私は勝手な想像をしてみました。彼ら3人の線路工夫のうちの「眉間(みけん)に小さな瘤(こぶ)のある若者」とは誰かということです。志賀直哉さんの顔写真を見た人にはわかると思いますが、その作中人物は志賀直哉さんの分身ではないかと、私は思っています。作者は、芝居や映画を観るのが趣味だったと、ネットのウィキペディアなどには書かれています。普通は見逃してしまいがちな仕掛けですが、この作品の面白さの一つかもしれません。その若者の言動に注意して読んでみると、この小説の作者の『正義』に対する考え方がわかって、興味深いと私は思いました。
 冷静に考えてみますと、昨今の『自粛警察』もそうですが、「何が正しくて正しくないのか」に絶対はないはずなのです。にもかかわらず、『正義』を主張してみたくなるのが、日々不安や不満を抱える私たちの『弱さ』なのかもしれません。けれども、決して、我慢をして黙っていろ、というわけではありません。何を主張しても本当はいいのです。その主張に固執して、無理に『正義』を振りかざさなければいいのです。多様性を社会が受け入れるということは、一つの『正義』にとらわれない、すなわち、一つの『正義』を全てとしないということだと思います。

『肩の力を抜いて』

 人は、やり慣れていないことをやらなければならないと思うと、やりづらくなるものです。たとえば、私はインフルエンザ・ワクチンをこのかた一度も接種したことがありません。何度も『かかって直す』方式で、その治癒のコツを身につけてしまいました。かぜコロナウィルスも、インフルエンザ・ウィルスも、その存在さえ知りませんでした。けれども、かぜ薬の効き目よりも、その日のうちに早目に床について体を安静にする、自然治癒のほうが効き目があると知ってしまって、それが習慣になってしまいました。
 だから、そうだからといって、ワクチン接種に私が不慣れかというと、そうも決めつけられません。小学生の頃に、ツベルクリン反応を診るための皮下注射や、日本脳炎の予防注射などの集団接種をした時の記憶があります。接種直後に体調が悪くなった同級生が一人か二人、保健室に連れて行かれたことまで今でもよく憶えています。それに私は二十歳前後に二年間ほどひどい鼻アレルギーにかかって、2、3週間おきに、東京の慈恵医大病院へ行って、筋肉注射を打ってもらっていました。症状に応じて毎回15~25ミリリットルの、鼻アレルギーを緩和させる薬剤を注射で打っていました。
 問診したお医者さんが「今日は注射を打っときましょう。」と私の目の前で、注射器に薬を入れて準備します。私が左腕から服を脱いで肩を出すと、「肩の力を抜いて」と必ず言われました。「筋肉が固くなっていると、針が刺さらなかったり、刺さっても中で折れてしまって危険だよ。」と、私はいつもそのお医者さんから注意されていました。幸い、注射針が刺さらなかったり、折れたりしたことは一度もありませんでした。
 そのお医者さんからは「注射を打った箇所を揉まないこと。」とも言われました。私の経験では、痛い注射というイメージは全くありませんでした。当たり前かもしれませんが、静脈注射(今で言う点滴)よりもずっと簡単でした。筋肉注射というと、特別なものと思ってしまう日本人の方々が多いと思いようですが、そんなことはありません。全く慣れの問題だと思います。したがって、私の場合は、そのように鼻アレルギーを抑えるための筋肉注射をしていた経験があるため、それに不慣れだという問題はありません。今回のワクチン接種は、それを希望してみたいところです。
 なお、効き目の問題も考えておきましょう。私個人の考えとしては、ワクチン接種と集団免疫は結びつけないことにしています。それは、社会的な課題であり、私が個人的にああだこうだと考えられるわけではないからです。今回日本で予定されているワクチン接種は、これまでにはないチャンスだから、効き目云々(うんぬん)よりも何よりも、順番が来たら自分の体で試してみようと、軽く私は思いました。もちろん、接種をするしないは基本的に個人の自由だと思います。そんなつまらないことで、変な格差や差別が社会的に起こらないことを願っています。

日本人のボランティア精神に対して批判する

 オリンピック大会組織委員会のM会長の問題で、ボランティアが少なからず参加を辞退したというニュースを最近聞きました。そのこと自体は、それほど奇異なことではなくて当然のことだと、私たち日本人の誰もが感じたことでしょう。しかし、ちょっと待ってください。一体いつの時代のことを言っているのかと、本当は不思議に思わないといけない、ということを私は警告いたします。
 ボランティア(volunteer)とは、そもそも志願者や有志のことであり、自主的・自発的に自由意思で行為を進んで行う人です。M会長の問題で自発的に、オリンピック大会参加を辞退すること自体は問題ありません。しかし、M会長が個人的に気に入らないからとか、オリンピック大会組織委員会のもたもたが気に入らないからとかの理由で、参加を辞退するのはけしからんと思います。「あなたがたは、M会長や大会組織委員会にご奉公するためにボランティアを引き受けたのか。」と、私が外国人であったならば問いかけると思います。また、もしも私が、大会ボランティアの一人としてメディアにインタビューを受けたとしたならば、こう申し上げます。「トップの会長が誰であろうと、大会組織委員会がどうあろうと、私が大会を支えるボランティアの一人としてしたいと思うことに変わりはありません。皆さん頑張っていきましょう。」しかしながら、私がテレビのニュース情報番組を観たかぎりでは、そんなことを言う日本人は一人も見当たりませんでした。ボランティアの精神はどこへ行ってしまったのでしょうか。トップがいないと何にもできないのでしょうか。自主性のかけらもないということに、私は怒りを覚えます。日本人は、世界に向けてよくもこう恥さらしなのかとつくづく思います。
 ここで、一つの寓話(ぐうわ)を紹介いたしましょう。第二次大戦中、旧日本軍は、とある南の国の戦場でアメリカ軍と交戦状態に入りました。当初は両軍とも物資の差はありませんでしたが、あることが原因で日本軍は総崩れとなりました。もっとも、当時の日本兵は皆よく訓練されていて秩序正しくて、アメリカ兵との戦力の差はほとんどありませんでした。特に団結力にいたっては、アメリカ兵の数段上を行っていて、死傷者も逃亡兵も当初は少なかったのです。
 ところが、日本軍側で陣頭指揮を執(と)っていた一人の上官が、アメリカ兵の銃弾に倒れたことをきっかけにして、戦場の状況は一変してしまいました。上官を失った下士官以下の日本兵たちは、各人どうしたらいいかわからなくなって、混乱をきたした中で散り散りばらばらとなってしまいました。それを見て勝機をつかんだと確信したアメリカ軍は「敵の上官を狙え。」と兵士たちに口ぐちに伝えて、日本兵の上官ばかりに銃火を集中させる作戦に出ました。その戦場において、アメリカ軍のこの作戦は面白いように何度も成功を収めました。
 やがて、陣頭指揮の上官を狙われてばかりいることに、日本軍側も気づきました。日本軍も同じ作戦に出て、アメリカ軍に報復しました。アメリカ兵たちの中で陣頭指揮を執っている上官だけを、狙い撃ちにしたのです。ところが、戦場のアメリカ軍を混乱させることはできず、そのもくろみは何度やっても失敗に終わりました。結局日本軍は撤退を余儀なくされて、歴史的な敗走と敗退を以後繰り返すこととなりました。
 『自由の国』アメリカの兵士たちが、陣頭指揮の上官を失いつつも、なぜ散り散りばらばらになって敗走しなかったのか、ということに大きな教訓がありました。彼らは、戦闘中に上官を失っても、生き残った者たちの中から、上官の代わりをする者がすぐに現れて、戦闘が続けられたのです。たとえその者が戦場で倒れても、また別の者がすぐに現れて、代わって陣頭指揮を執っていたのです。日本兵がいくらアメリカ兵の上官ばかりを狙っても、次から次へと上官の代わりをする者が自主的に現れて、いっこうに戦果が上がりませんでした。
 日本の兵士たちは、上官の言うことをよく聞いて、よく従っていました。それが日本人の長所でもありました。しかし、その分、その上官がいなくなると、自分自身で物事を考え判断することができず、自主的に行動することができませんでした。それが日本人の短所でもありました。戦場での日本兵たちは、ひとたび上官を失うと、一人でどうしていいのかわからなくなって、混迷する集団の中で散り散りばらばらになってしまったのです。
 したがって、一人一人が自主的に考え行動をする『民主主義の国』アメリカ合衆国の精神は、戦中戦後の日本人にとっては、その経済力を背景とした物量作戦と同じくらいに脅威でした。戦後日本がアメリカのような民主主義国になろうとしたのは、当時のアメリカに国家的に強制されたからというよりも、民主主義の精神とそのシステムが生み出す人的パワーに怖れを抱いたからに他ならなかったのです。
 だから、民主主義の精神をなめてはいけません。多様性を認める社会も、民主主義の精神があってのことです。そのために、一人一人が『主人公』としての自覚をもって自主的に考え行動するのだと思います。そして、その結果が、みんなの協力や共生という形として現れるのだと思います。そう考えてみれば、トップの会長が誰だとか、大会組織委員会がどうだとか、ということは小さいことです。何年かかってもいいですから、いつか日本国民に、自主的・自発的な真のボランティア精神が根づくことを私は願っています。

ニューノーマルなメッセージを思いつく

 またまた後出しジャンケンみたいで申しわけないのですが、人々に行動変容を促すような、強いメッセージを考えたので発表したいと思います。冗談だと思ってもかまわないのですが、このメッセージは、法的などんな罰則規定よりも強力で効果的です。ヒューマニズムに反する、と欧米から批難されるかもしれませんが、実は、特定の人間蔑視(ヒューマン・ヘイト)や差別などではなくて、老若男女すべての人間に平等だと、私は豪語したいと思います。
 「人を見たら泥棒と思え。」という言葉があります。「他人を簡単に信用するな。その言動を軽々しく信用せずに、泥棒として疑え。」というような意味の言葉です。それをもじって私は「人を見たらウィルスと思え。」という言葉を思いつきました。その表面的な意味は、「人と接触することは、ウィルスと接触することだ。」ということです。つまり、これは、「人との接触を断つ。」という言葉と同じ意味です。ただし、それとは大きな違いがあります。「人との接触を断つ。」という言葉は、感情が伴わない言葉です。一見冷静で、公平な言葉のようです。けれども、世間の意識からすれば軽視され、内面に浸透しないで無視されてしまうメッセージです。表面的にそれに従っているふりをされてしまう弱いメッセージです。
 それに反して、「人を見たらウィルスと思え。」などと言ったならば「何てことを言うんだ。そうかもしれないけど、あんまりだ。」ということになると思います。全世界から猛烈な反発があるかもしれません。私が何かの要職に就いていたならば、国内外から批判されて、即刻辞任しろと言われるかもしれません。このひと言によって、大衆の心底にある意識を射抜いてしまい、一人一人の恐怖心をほじくり返してしまうことでしょう。そのような後ろ向きなメッセージではありますが、「感染症予防のためには、人と人との接触をなるべく控えたほうがよい、との専門家の指摘がありました。どうしたらいいのか迷っている人は、人を見たらウィルスと思いなさい。」という強いメッセージを、首都圏の知事さんには本当は出してほしかったと思います。
 このようなメッセージは、あながち非科学的でもなさそうです。「ヒトのゲノムの4割は、ウィルスのゲノムと同じ。」というのは、以前私のブログ記事で記述した情報です。現代のゲノム研究はかなり進んでいて、最近世間を騒がせている変異種の存在がわかったのも、イギリスのゲノム研究の功績と言えます。合成されるたんぱく質酵素などの設計図(ゲノム)に共通部分があるということは、生命体としての共通部分がどこかしらにあるわけです。少なくとも、全く別のものではない、と言えます。ウィルスと人とは、その生成および成長にかかる時間や、それによって出来上がる組織の複雑さに違いがあるのは明らかです。だとしても、タンパク質や核酸をおおもとの材料としていることは確かですし、その生成・成長以前の基本部分に(ゲノム以外にまだわからない部分が多いのも事実ですが)決定的な違いはなさそうなことは確かなようです。
 私自身に神経質な面があるのかもしれませんが、人間を含む生物や生命全体に多少の『気持ち悪さ』とか『グロテスクさ』をずっと感じてきました。見た目とか匂いとか、例えばそれを模写した無生物の芸術作品とかにはないものを漠然と感じてきました。(あくまでも見た目だけですが)最近は、人の首から上が、コロナウィルスのスパイクに見えてくることがあります。だから、「人を見たらウィルスと思え。」というメッセージを受けとっても、私は正直違和感がありません。「人と対面したら社会的距離(ソーシャル・ディスタンス)をとるのが原則だ。(原則だから例外もあり。)」と普通に思うことに、不自然さはないと思うのです。
 つまるところ、私が思いついたこのメッセージには、裏の意味があります。「他人をウィルス扱いする」というネガティブな印象とは裏腹に、その言葉の真意として「まずウィルスと仲良くできなければ、人とは仲良くできない。」という深い意味があるのです。ウィルスと敵対して体調を悪くばかりしている(つまり、ウィルスと共生できていない)状態だと、いつまでたっても問題は収束しません(つまり、他人とも共生できません)。個々がウィルスとの困難に打ち克つということは、ウィルスを消滅させることはできないとしても、人とウィルスの双方が生き残ることであり、それが『共生』という意味なのです。思い返してみれば、私たち人類を含む真核生物の歴史は、ミトコンドリア葉緑素の例もあるように、バクテリアやウィルスなどとの共生の歴史でもあったと言えます。今の私たちに必要なのは、そのような発想や意識を転換するタイミングをいつ、どのようにしてつかむのか、ということにありそうです。

若者向けに架空の記者会見を考えてみる

 内容が事後承認的だとか、後出しジャンケンだとか、いろいろご批判はあるとは思いますが、もしも私が然るべき責任者で、若い世代に向けて記者会見などで感染症予防対策を呼びかける立場にあったとしたならば、どのような発言をするだろうかと考えてみました。専門家でも、医療従事者でも、行政担当者でもない私が、こんなことを述べたとしても少しも説得力がないのは明らかです。それは当然のこととして、無責任かもしれませんが、私だったらどうするかという架空の話をしたいと思います。
 「若い皆さんは、私らのような年配者と比べて、ずっと肺活量があって、呼吸量が倍くらいはあります。したがって、皆さんのほうが、私らよりも、ウィルスを吸い込む力が強いので、PCR検査にひっかかりやすい、すなわち、無症状でも感染者とみなされやすいというデメリットがあります。しかし、若い皆さんのほうが、私ら年配者よりも、吸い込んだウィルスを吐き出す力が強いので、最悪発熱の軽症およびその後遺症までで、重症化や重篤化まではいかないメリットがあるのかもしれません。」
 「このようなメリットやデメリットがあることは、若い皆さんにとっては、ある意味どうしようもないことだということを理解してください。私らのような年配者は、呼吸量が皆さんよりも劣ってしまっていて、体調も弱っています。けれども、だからと言って、感染症にかからないという保障はありません。このような、どうしようもないことをいちいち私が述べているのは、『どうしようもないから、考えてもムダだ。』と思ってもらいたくないからです。どうしようもないけれども、それを認めて意識して、そのことからいろいろ考えてみる、つまり、そこから思索を進めて発展させることができれば、今までにない解決法や発想法が出てくるものです。」
 「私ら年配者は、若い皆さんの意識が甘いことを、これまでは幾たびとなく指摘してきました。しかし、そのような精神論と批判だけで予防対策ができるほど、感染症は甘くありません。科学者や専門家を神とせよとは申しませんが、世間の柵(しがらみ)にまだまだどっぷり浸(つ)かっていない若い皆さんにお願いしたいのは、少しでも論理的かつ科学的に物事を見て判断してほしいということです。若い皆さんの頭でよく考えて、適切な行動ができれば、世間の不当な評価は必ずひっくり返ります。それどころか、皆さんが真剣に考えた(疑問や質問ではなくて)提案が、世間をアッと言わせることだって、今ならできます。まさに今なのです。だから、若い皆さんの考えや立場が十分に盛り込まれた提案を、私らにぶつけて下さい。私らはあらゆる角度からそれらを精査および検証して、害の少ない有益なものは必ず採用して、世の中に普及させましょう。」
 ここまで言ってしまうと、ペテン師の扱いをされてしまうかもしれません。特に、科学者や専門家さんからすれば、何て無茶苦茶な発言だとひどく腹を立てられるかもしれません。しかし、どんなに高い理想があっても、それを第三者に伝えて理解してもらえなかったならば、宝の持ち腐れなのだと思います。本当のことを申しますと『科学の威信』などというものは、世間では通用しません。なぜならば、世間は有益なものしか認めようとしないからです。この新型コロナウィルスの世界的な流行がなかったならば、科学者が人知れず地道な努力をしていることなど、相変わらず誰も関心を持ってくれなかったといっても、過言ではなかったことでしょう。
 一方、多くの若者に理解を求めたり、彼らを説得することは、容易なことではありません。大人がしばしは彼らに揚げ足を取られることは、珍しいことではありません。しかし、それを恐れて、彼らからの攻撃をかわして逃げてばかりいては、いずれ人間的な信用とか人間関係を失います。
 若者に向けてメッセージを発する時に考えなくてはいけないことは、彼らに何を考えさせたらいいのか、ということです。とりあえず世の中に権威のある組織を意識させることは必要なのかもしれませんが、その先の彼らに自主性がないと、結局お上(かみ)に頼らないと何にもできない、自己管理のできない人間になってしまうことは明らかです。だからと言って、何でも自分でやれと、ということでもありません。自分一人で手におえなくなったならば、他者と協力して、その手を貸してもらう手もあるのです。いずれにしても、結局自らがそうした手段を考え判断する力がないと何もできません。そうしたことを若い彼らに考えさせることが、今の大人のするべきことなのかもしれません。

大人が観る仮面ライダー作品

 仮面ライダーというと、50年近く前にテレビで放映されていた初代仮面ライダー以来ずっと、子供番組としてあり続けたシリーズでもあったわけです。けれども、今回私が紹介する特撮映像作品は、そうした子供向けのテレビシリーズとは一線を画(かく)するビデオ作品です。私は、それらをレンタルビデオ屋さんで見つけました。確かテレビのいつもの時間にやっていなかったな、と気づいて、ネットで調べてみたら、そのとおりでした。以前テレビで放映していた『仮面ライダーアマゾン』のリブート作品で、その前作を引きずらない新たな内容の作品でした。『仮面ライダーアマゾンズ』と『仮面ライダーアマゾンズseason2』の計26話と劇場版『仮面ライダーアマゾンズ -最後ノ審判ー』を、私はレンタルビデオ屋さんから一巻ずつ借りて、つい最近やっと全9巻を鑑賞し終わりました。
 本来私は、格闘シーンとか、残虐なシーンとか、勧善懲悪の正義のヒーローとか道義心とかに、それほど興味があるわけではないと思います。現実の世の中は不条理だらけで、いくら我慢をしても結局報われずに、どうにもならなかったというのが、ある意味人生の真実だと、私は思っています。よって、このような特撮ドラマを見る時に、何を一番の見どころにしているのかと申しますと、非日常に置かれて不条理かつ混乱した世界で生きる『人間というもの』の言動に最も興味を惹(ひ)かれます。私が本当に興味があるのは、正義のヒーローとして活躍する仮面ライダーでもなく、悪のかぎりを尽くす怪人や怪物でもありません。彼らとは比べものにならないくらい、実はひ弱で非力な『人間』が、何を考えてどんな言動をして生きてゆくのか、ということです。すなわち、こうした特撮映像作品を私が好むのは、『人間』のそういうところに、単なる善悪を越えた複雑な面白さを感じるからなのです。
 そのような私が、このような作品を観て思うことは「少し得(とく)をしたな。」という素直な感想です。例えば『仮面ライダーアマゾンズseason2』の最終話で、若い男女(実はアマゾン)が消滅しますが、私としては、人間的な悲しみよりも、危機的状況が去った後の爽快な気分に、思わずホッとしました。そのような心理現象は、文芸理論的には、悲劇を観終わった後に訪れる『心が浄化される作用』と呼ばれています。H大学在学中に、私は『英米文芸理論』という授業で、そういう『心の浄化作用』について学んだ記憶がありました。よって、この特撮映像作品は、しっかりとした骨のある内容があって、賞賛に値すると思いました。(実際に、ネット上でも高ランクの作品評価だったみたいです。)
 劇中のセリフとしては、「人に、アマゾンは早すぎたようだ。」とか「脅(おびや)かされない命は、弱い。」とかいう人間側の発する意味深い言葉があって、私は勉強になりました。特に、「人間を守るには、人間をやめないと。」という言葉には、「人間全体をアマゾンの脅威から守るためには、自らが人間の心を捨てなければならない。」という意味があって考えさせられました。
 また、「食うか食われるか」という言葉の背景には、どんなに我慢や自粛をしても結局「人間のタンパク質を食べることを生きるために選んでしまう」アマゾンという怪人の姿が必ず浮かんできます。実は、そのようなアマゾンの姿には、人間の本当の姿が投影されています。当たり前と言っては、当たり前なのですが、私たち人間は、どんなに我慢や自粛をしても結局「他の生物の命を食べることを生きるために選んでしまう」のです。いくら考えても意識しても仕方がありませんが、そうしないと生きて行けないという、どうにもならない運命を誰もが背負って生きております。
 確かに、この特撮映像作品は、残酷なシーンも多いし、お子様に観てほしくはないシーンも少なくありません。しかし、その分を大人が観てほしいと思います。今の非日常に我慢の限界がきている皆様や、この世を憂(うれ)いて怒り心頭(しんとう)の皆様方、そして、自粛警察を正義の味方だと信じて悪に成り下がっている皆様方に、このような映像作品の鑑賞をおススメいたします。このドラマの残虐なシーンや悲劇的な幕引きを観ていただいて、この不条理な人生の、多少の慰めにしていただきたいと思っております。

時おり気になっていたアイツとアイツの話

 去年の10月頃のことです。地元の古本屋さんで『基礎分子生物学』という本を見つけて、500円で買いました。この本の定価は、裏表紙を見たら2800円+税でした。なぜこの古本を買ったのかと申しますと、ウィルス学や分子生物学に興味を持ったからです。テキストが欲しかったのですが、専門書は値段が高いのが常識です。そんな時に、たまたま古本屋さんで、その本を見開くことができました。そのページに『DNAウィルスの増殖』というイラスト図が描かれていました。それで、(いろいろ難解なことも書かれていそうでしたが)私は500円でその本を買ってみることにしました。
 その『DNAウィルスの増殖』イラスト図については、「これは、どこかで何度も見たことがあるな。」と思いました。私が小学生の時に学習百科事典で見つけた『大腸菌に寄生感染するT2ファージ』の図解にそっくりだったのです。また、高校時代の生物の教科書でも、それに似たようなイラスト図を見たことがあります。学習百科事典でも教科書でも、1ページ内の3分の1スペース位しか費やされていない小さな図解でした。けれども、妙に私の記憶に残ってしまう『イラスト絵』でした。
 4つの角が丸い長方形が『大腸菌』で、それよりも小さめの無人着陸艇みたいな形の『T2ファージ』がその大腸菌に付着します。すると、付着した『T2ファージ』から『大腸菌』の内部にDNAが侵入します。そのDNAが大腸菌内で複製や転写して、さらにたんぱく質も合成されます。やがて(といっても、短時間ですが)、その大腸菌内でT2ファージが増殖を繰り返して、大腸菌の細胞膜を破って外へ出ていきます。
 大腸菌というと、人間の大腸から排泄(はいせつ)される汚いものというイメージがあって、それが内部から破壊されたからといって、何てことはない、というのが私の持っていた印象でした。T2ファージの絵は、無機質的なマイクロ・ロボットみたいに描かれることが多くて、微粒子に近い微生物という感じがしました。(一般的に、ウィルスは細菌(バクテリア)の小さいものと考えてしまいがちですが、それは間違いです。ウィルスには細胞膜はありませんし、高分子タンパク質の殻にDNAまたはRNAすなわち核酸(遺伝子の化学的分子構造体)が包まれているというイメージの方が当たっています。)
 「大腸菌に感染して増殖するT2ファージ」に対する私のイメージは、これまで一貫していて、「これは自然のメカニズムだけど、何にも役に立ちそうにないな。」というものでした。つい最近まで、そう思っていました。先日、ネットで検索してみたら、「大腸菌に感染するT2ファージが怖い。」という意見が多かったので、私は驚きました。こんな役にも立ちそうにない自然のメカニズムが何で怖いのか、私には理解ができませんでした。ただし、最近になって知識が増えてくると、「何の役にも立たない」という考えは、私の誤解であったことがわかりました。
 ところで、理学博士の太田次郎さんはその著書『文科の発想・理科の発想』の中で、大腸菌について、および、大腸菌とファージによる遺伝学研究の発展について、次のようなことを述べていらっしゃいます。以下に、その引用を含めて、しばらくその内容を紹介いたしましょう。まず、大腸菌についてですが、次のとおりです。
 「一般の人に大腸菌といえば、きたない物の代表ととられがちである。確かに、海水浴場などが遊泳に適するか否かの基準などに大腸菌が使われ、海水中に一定量以上が検出されれば、そこは汚染されていると判断されて、遊泳禁止になる。人間を初め哺乳類の大腸の中には多数の大腸菌が寄生していて、排泄物といっしょに体外に出されるので、それが多ければ排泄物で汚染されているということになる。」
 ただし、「このことと、大腸菌が病原菌であるということとは関係がない。よく大腸カタルは大腸菌がもとでおこるなどと考えている人があるが、実際にはそうではないらしいし、大腸内に寄生している大部分の大腸菌は、病原性が全くないか、非常に低い。また、大腸菌が腸内でどんな役割をしているかについても、不明の点が多く残されている。」
 「(中略)現在進展しつつある遺伝子工学でも、主役の一つは大腸菌である。インシュリンインターフェロンなどの有用な物質を生産するために、その生産を指令する遺伝子(DNA)を、大腸菌の中に入れて、大腸菌にそれらの物質をつくらせようとするのが、遺伝子工学の主流となっている。」ということは、私が『何の役にも立たない自然のメカニズム』と考えていたことが、全くの誤解であったことになります。
 「このように、大腸菌は、一般の人がいだかれるイメージとは異なって、遺伝学者にとってはなじみ深い生き物の一つであり、世界各国の研究室で、ごくふつうに多量に培養されている。また、その変わり物(突然変異体)の中には、人体に入ってもその中に定着しない株もあり、安全性もほぼ保証できるといえる。」
 「なぜ、大腸菌が遺伝学に使われるようになったのだろうか。遺伝の研究は、すでに述べたように、メンデルのエンドウから始まった。そして、次に登場したのは、ショウジョウバエという小さなハエである。ショウジョウバエは、現在でも集団遺伝学や発生に伴う遺伝などの研究材料として盛んに使われている。(注釈・この著作は1970年代のものです。)ショウジョウバエの後をついだといえるのは、アカパンカビというパンやトウモロコシの食べかすなどにつく赤色のカビである。そして、そのカビの次に大腸菌が使われるようになる。」この著者の記述によると、遺伝学の研究の必要に応じて、その研究材料の増殖がより速いもの、より取り扱いやすいものに変わっていったのだそうです。
 「大腸菌とそれに感染するウィルス(ファージ)がなかったとしたら、現代の遺伝学の輝かしい発展は見られなかったであろうといっても、決して過言ではない。遺伝のもとになる遺伝子の本体がDNAと呼ばれる物質であること、そのDNAの分子構造がもとになって特定のたんぱく質が合成されること、DNAの分子構造に含まれている遺伝情報の解読など、遺伝現象を分子のレベルで説明する分子生物学の骨組となる重要な事実の大部分は、大腸菌を材料に使った実験から明らかになっている。」すなわち、「何の役にも立たない」と私が思っていたのは、とんでもない間違いだったと、再度しつこく言わせていただきます。それどころか、現代の遺伝学や遺伝子工学にとって欠くべからざる重要な基礎知識になっていたのです。
 最初に紹介しました『基礎分子生物学』のテキストには、DNAウィルス増殖のイラスト図の前後に、次のような文章が記述されていました。
 「インフルエンザやはしかはウィルス(virus)によって起こる。細菌をも通さない細かなふるいを素通りするくらい小さく、1mmの1万分の1からその数十分の一程度の粒子で、電子顕微鏡でしか見ることができない。ウィルスが細胞に入ると、ウィルスの遺伝子は細胞がもつ酵素リボソームのような細胞内の装置を用いて自分の遺伝子やタンパク質をつくる。細胞の中に遺伝子とタンパク質からなるウィルス粒子が多数形成され、やがて細胞を殺して外に出てくる。」同じように、私が先日買った高校生物の参考書にも「細菌に感染し、その細菌を破壊して増殖するウィルスを特に『バクテリオファージ』(あるいは単に『ファージ』)と言います。」と書いてあります。
 「大量のウィルス粒子も、瓶(びん)の中にあるときはただの白い粉末であり、(休眠していた種が生育に必要な環境が整ったので自己増殖した)古代のハスの種と比べてみるとおもしろい。ウィルス粒子の場合、栄養を与えるだけでは増えない。増えるためには生きている細胞のもついろいろな道具が必要である。つまり、自己増殖能がなく、一般にはこれを生物の一つとはみなさない。しかし、遺伝子をもち、その情報に従って分身がつくられる点に関しては生物の定義の一部を満たしている。(したがって)ウィルスは不完全な生命体とみなすこともできよう(注:現在では、酵素を用いて遺伝子を試験管内で増やすことができる)。」
 この文章の最後の注釈文について、補足を加えておきます。この注釈文中の『酵素』とは、DNAポリメラーゼとかRNAポリメラーゼのことです。特に、RNAポリメラーゼIについては、実際に、農薬の成分として核酸合成に使われていることを私は知っています。こうした酵素によって遺伝子の特定の塩基配列を増やす技術が、皆様ご存知の『PCR検査』で有名になったPCR法(ポリメラーゼ・チェイン・リアクションすなわちポリメラーゼ連鎖反応法)です。よって、ウィルスと遺伝子(DNAやRNA)とPCR法の切っても切れない関係があることを、私は知ってしまいました。
 このように見ていくと、アイツ(すなわち大腸菌)とアイツ(すなわちファージ)との自然のメカニズムは、その周辺の科学的知識が増えて、私としては、予想外の成果となりました。これは、事実ではありますが、これで終わりではありません。例えば、毎日の新規感染者数の根拠となっているPCR検査についても、私なりに考えてみてまだまだわからないことが沢山あります。どうやったら陰性証明を獲得できるか等の悪知恵を働かそうとは思いませんが、メカニズム的な面は解明したいものです。私は、まだまだ勉強が足りないな、と思う今日この頃です。