昔テレビで映画の眠狂四郎シリーズの一つ(おそらく『眠狂四郎 女妖剣』)を観たのですが、その劇中で、隠れキリシタンたちが聖女として崇(あが)める『びるぜん志摩』という人物が出てきます。市川雷蔵さんの演じる眠狂四郎は、彼女を目にして「その本性は魔物だ」とか「お前は化け物だ」とか「醜い化け物よりも一層醜怪(しゅうかい)な美しい化け物だ」などと言い放ちます。彼女の性的な誘惑を断ち切って、無頼の徒である眠狂四郎は、彼女をバッサリと斬り捨てます。映画を観る人の心が洗われる作品でした。
話変わって、最近の私は、テレビドラマ『一次元の挿し木』第9話をオンエアで観た後で、このドラマの次回すなわち最終話がどうなるのかを考えてみました。「誰の目でもない、自分の目で見たことを信じなさい。」「その目で、私の姿を覚えていて…。ずっと…。」と語っていた紫陽(しはる)のことを、悠(はるか)は回想します。そんな義理の妹にただただ会いたいだけだという主人公の悠は、果たして彼女に会うことができるのか。あるいは、これまで悠や真理の記憶の中での回想シーンでしか登場していなかった紫陽が、最終話で実際にどのような形で登場するのか。そうした疑問と共に、私の憶測と妄想はどんどん膨(ふく)らんでいきました。
最終的に、彼女がどんな姿になっているのかが、一番気になるところでした。もしも彼女が亡くなっていなかったとして、その心身の変わりようが、どれほどのものになるのかが、一番に懸念されるところです。彼女の身も心も、悠の思いや心配をよそに、その容姿を変えて、見るもおぞましい『怪物』のようになってしまっているのではないかと、私は懸念していました。番組ホームページの記事を見ても、最終話で、主人公の悠が『衝撃的な光景』を目の当たりにして、『想像を絶する結末』になるということでしたが…。
その時点での私は、原作の小説を全く読んでいませんし、このドラマの主人公の悠と同じように、(最終話で明かされたような)本当のことを何も知りませんでした。それで、私は、つい、そのような無茶な憶測や妄想をしてしまいました。
劇中、ジャーナリストの平間や警部補の多田は、彼女こそが、これまでの一連の事件の首謀者すなわち黒幕であると考察して、主人公の悠に忠告しています、にもかかわらず、悠はそれを否定して、あくまでも義理の妹である紫陽のことを信じ続けます。彼女の正体が段々と明らかになってきても、とにかく彼女に会いたい、そのために自らの命をかけてもかまわないという悠の態度に、私は、「このドラマの主人公である彼自身が、だまされ続けているのではないか。」と疑っていました。
さらに、劇中の牛尾の言動に目を奪われていましたから、どうしても悲観的な結末を考えざるをえませんでした。だから、私は、どう考えても紫陽はヤバいなと思いました。おそらく怪物化している彼女を、主人公の悠がどうしてそこまで信じ続けることができるのかが不思議でした。義理の妹という家族関係であったとしても、そこまでは行かないはずです。一視聴者としての私には、平間や多田と同じように、クローンやその技術に対する誤解と偏見があって、そのためにどうしてもそっちの心配や恐怖に考察が向かってしまいました。
ところが、1週間後に実際の最終話を観たところ、そのような私の考察は全くの見当はずれでした。とんでもない憶測あるいは妄想にすぎなかったことを知りました。ドラマの考察をはずしてしまったことを残念に思うよりも、劇中の光景に、もっとそれ以上のショックを受けました。つまり、劇中の彼女の壮絶な状況とその姿を見てしまったことがつらくて、涙が出そうなくらい悲しく思えたのです。彼女のことを『化け物』とか『怪物』なんて思ってしまって、本当に申しわけない。
最終話ではさらに、彼女の失踪の経緯(いきさつ)やその理由も明らかにされます。そうだったのか、と思うのと同時に、本当に悲しくて、かつ、申しわけなくて、その映像から目を離すことができませんでした。
私は、その時はまだ、『ヒューマンミステリー』という言葉の意味を知りませんでした。ただ謎解きをするミステリードラマを観るのと同じような感覚で、そのドラマを観ていました。がしかし、それが大きな間違いだったことを、あとで知りました。ネットで調べてみるとわかりますが、「ヒューマンミステリーとは、人間の心理や動機を深く描くミステリー作品」であり、その人間ドラマで泣けるような深い感動を読者や視聴者に与えるものなのだそうです。私は、まさに、このドラマを観て、まんまとそれにハマってしまったわけです。つまり、幸か不幸か、このドラマの魅力となる部分を、はからずも私は知ってしまったということなのです。