ム―ドを翻訳する

 ネットのYouTube小林麻美さんの『雨音はショパンの調べ』を観ていたら、その原曲の”I like Chopin”(日本語歌詞付き)の動画に気がつきました。『雨音はショパンの調べ』の歌詞もなかなかなものですが、その原曲の歌詞も興味深く思いました。ガゼボ(Gazebo)さんは、イタリアの歌手なのに、英語で歌っています。何か意図的なものを感じます。それが何なのかをはっきりさせたくて、今回私はそれを日本語の歌詞として翻訳してみました。すると、イタリア男性的な、女性へのアプロ―チみたいなものが浮かび上がってきました。ちょっとシュ―ルなムードの歌詞になりましたが、以下に披露いたします。


  いいね、ショパン


ピアノ好きさ
楽しい非日常 古風な感動 戸惑う感情


(*)
口ぐせ いいね、ショパン
やさしくしてよ wowwow...


(**)
雨で帰れない
離れたくないから
君の目に映る『僕』は、僕!

 

(間奏)

まぶしい素顔に 太陽の照り返し
幻想の青空に 果てない放心状態


(* くりかえし)

(** くりかえし)

(間奏)

(** くりかえし)
(** くりかえし)

『気持ち悪さ』の正体

 わたしたち女は多くの魂をもっているのです。あなたたちは、たった一つの魂しかもっていません。それもわたしたちのよりはたくましく、しばしば残酷で、非道でさえあります。
     ― 『ジャン・クリストフ』(ロマン・ロラン著、白井健三郎訳)より引用

 今回のテーマの副題は、『魂(あるいは自我)の変貌と成長』です。言葉は難しいのですが、内容は簡単です。誰もが、若い頃の反抗期として一時的にグレることを経験します。それまで素直な性格だった良い子が、いきなり不良になってひねくれた性格になってしまう。そういうことを経験してから、大人になった人も少なくないと思います。なぜ、そうなってしまうのか。今回私が書きたいのは、まさにそのことなのです。
 冒頭の引用は、男性の側に立つ主人公クリストフの問いに対する答えとして、女性の側に立つアルノ―婦人が言った言葉でした。私独自の解釈としては、つまるところ、彼の疑問は「女性はなぜ、男性の嫌がる行為をして、男性を困らせて怒らせるのか。」ということだったと思います。しかし、アルノ―婦人の立場からすると、男性に対して悪意があって女性がそうした言動に走ってしまうのではない、女性はむしろ男性の餌食になっている弱い存在である、という弁明になっています。そういった状況の中で生じた言葉が、冒頭の一節だったわけです。
 今回私が引用したその言葉を、そのままの意味としてだけ読者に受け取られるのは少し違うのかもしれません。それが、女性の世界から見える景色として表現されていることに注目して欲しいと思います。おおかた、女性がそのようなことを言うと、男性を責めたり非難しているように、男性の側は受け取ってしまいがちです。けれども、女性が男性に本当に望んでいることは、「こちらの立場に目を背けず、わかってほしい」ということです。つまり、これは、男女異性の世界の間には何らかの境界があることを示している、人間社会の一側面と観ることもできます。
 以前私は、夜中のテレビで『ぼくは麻里のなか』というドラマを観ていました。観ていたといっても、観たり観なかったりの飛び飛びだったので、ストーリーがまるでわかりませんでした。ただ、池田エライザさん演じる女子高生の麻里が、別の男性の心になってしまった、という不条理が、このドラマのテーマだとは理解していましたが…。 そう言えば、ネット上での、この実写ドラマの感想として、「気持ち悪い。」というのが少なくなかったようです。若い女子高生の身体に、別の男性の心が入っていることへの気持ち悪さとか、なぜそんなことが起きてしまったのかということへの視聴者の方々のモヤモヤがあったからだったと思います。
 そのテレビドラマの最終回が終わった直後に、メインキャストの挨拶がありました。このドラマを最後まで観てくれてありがとう、みたいな挨拶でしたが、それを観て私はちょっと気づいたことがありました。すなわち、麻里役の池田エライザさんの、異性を意識していない、あるいは、異性を感じさせない様子を見たような気がしました。それが、その時の池田エライザさんの素の姿なのかもしれない、と思いました。その一瞬の妄想が、私自身には妙に気持ちよく感じられたのです。
  私が、この漫画をテレビドラマで観た時は、日常的で自然な実写に見えました。多重人格や性同一性障害ということではなくて、「男の子みたいになりたくて男性っぽく振る舞おうとする女性って普通にいるよね。」と感じさせる、池田エライザさんの演技だったのです。夜中にやっていた番組だったにもかかわらず、気持ち悪さを感じませんでした。

 そんなことに影響されて、先日地元の古本屋さんでたまたま見つけた『ぼくは麻里のなか』のコミックス単行本1巻から8巻までを買って、4時間かけて通して読んでみました。最終巻の9巻は古本屋さんになぜかありませんでした。地元のレンタルビデオ&本屋さんでその第9巻を見つけたので、借りて読んでみましたが、よくわかりませんでした。けれども、ネットのウィキペディアを見て、おおまかな結末をつかみました。
 この漫画は、男女の心の入れ替わりの物語なのか、それとも、小森功(こもりいさお)という男性の憑依の物語なのか、それとも、麻里という若い女性の多重人格の物語なのか、といういくつかの思惑を読者に抱かせて、ぺ―ジが進んでゆきます。若い女子高生の麻里のなかにいる『ぼく』は、一体誰なのか、ということを探ってゆく物語になってゆきます。そして、『入れ替わり』でも『憑依』でもないのならば、『多重人格』ということになりますが、でも、それは柿口依(かきぐちより)というもう一人の主要人物の目線でした。
 私には、その目線を信じてこの漫画を『多重人格』の物語だったと、簡単に受け入れることができませんでした。たとえ、その麻里のなかの『ぼく』が、小森功という男性から得た情報をもとにして麻里自身が作り上げた別人格だったのだと臨床心理学的に第9巻に書かれていたとしても、それだけではないような気がしたのです。だいいち、それは麻里自身が無意識のうちに生み出したのか、それとも意識的に作り出したのかというと、はっきりしません。第9巻を読んだかぎりでは、麻里自身の意識(すなわち自我)が、『ぼく』に変貌していたことに気がついて、彼女自身の意識(自我)を取り戻した、という感じでした。

 ところで、この漫画の著者の押見修造さんは、コミックス単行本第1巻のあとがきで次のようなことを述べていらっしゃいます。著者は、「男性読者の皆さんは女の子になりたいと思ったことはありますか」という問いから始めます。「僕はあります」とした上で、それは『男の性欲の目線』からではなくて、『心の中から全て女の子な存在』つまり『本物の女の子』になりたい。なぜならば、この著者にとっての女性は『世界の半分』であり、「男としての僕は男としてしか世界を見られないし 女として世界を見ることは絶対にできない」、つまり、「その届かない世界の半分に踏み込みたいという願望なのです」と述べられています。ここで、夜道を振り返る麻里の姿の絵が描かれて、「でも、それは決して達せない不可能なこと」なのだけれど、それでもと、著者はそのような願望の切実さを読者に訴えます。そして、この『ぼくは麻里のなか』という漫画はそのようことを考えながら描いたと、述べていらっしゃいます。
 この夜道で振り返る女子高生の麻里の姿には、重要な意味があると思います。なぜならば、その次のコマ割りのシーンが、麻里の中にいる『ぼく』が、その直後どうなったのかを思い出せないというシーンになっているからです。そしてまた、『ぼく』自身が麻里の体の中にいることが、夢ではなくて現実だということを知るシーンになっているからです。いわゆる夢と現実との分断が、そこにはあると読者に感じさせます。
 ということは、ここで、読者の側が、それまでの読み方、見方や考え方を反転させてみると、話しが一変します。不条理も、モヤモヤも、気持ち悪さもありません。すなわち、小森功があとをつけてきた夜道を麻里が振り返るまでが、実は、麻里自身の夢の中の出来事であり、妄想だった、と考えます。小森功が麻里のことを『コンビニの天使』と名づけたのも同様です。それらは、麻里自身の夢の中、すなわち、麻里の心の中にいる『ぼく』が考えたことにすぎないと、そう考えても、話しのつじつまは十分に合います。
 そのような答えあわせを、第9巻までを読み進めた読者には是非ともやってもらいたいと思いました。この漫画の著者は、第9巻のあとがきで「1巻のあとがきで、僕は『女になりたい』と書きました。でも、もう女になりたくはありません。」と述べていらっしゃいます。そして、いわゆるビヨンド・ジェンダー(beyond gender)みたいなことも述べられています。
 確かにそれはそうですが、「それでも、異性の世界を知りたいという願望だけは捨てないほうがいい。」と、私は思いました。なぜならば、その願望は、人間として生まれてきた誰にとっても切実なものであるはずだからです。女性は「男性はいいなあ、得だなあ。」と思い、男性は「女性はいいなあ、得だなあ。」と思います。それは、いずれも普通のことであり、自然なことです。そのような願望に、道徳的な罪などはありません。たとえ、それが幻想であったとしても、です。幻想であるならば、幻想としてしっかり記憶しておくことが、明日を生きる活力につながります。
 それと酷似していることが、この文章の冒頭近くにちょろっと書いた『反抗期の記憶』です。子供から大人に成長する過程で、誰もが経験するアレです。それを思い出すたびに、「あの時は恥ずかしいことをしたなあ。」とか「自分自身の黒歴史だ。」などと思って、「だから、思い出したくない。」とか「あの頃の自分は無かったことにしたい。」などと、思います。しいては、「できれば、人生をやり直したい。」とか「これまでの自分をリセットして、生まれ変わりたい。」などと、誰もが考えがちです。
 しかし、周りの大人たちから子ども扱いされていたご自身が、「大人扱いされたい。」という切実な願望を抱いていたことは、多くの場合忘れ去られてしまっています。そのような自我の願望があったからこそ、子供から大人に成長して行けたということを、すっかり忘れていらっしゃる。あの頃のつらい思い出に背を向けて、そのような願望の切実さも忘れて、大人になってしまうことに、一体どれだけの人間としての価値があるのか、ということです。そのような誰もが陥りがちな拒絶反応に対しては、その真意を測(はか)りかねます。
 すなわち、それが、今になって考えると『恥ずかしいこと』だったとしても、たとえ、ご自身の『黒歴史』であったとしても、あるいは、はたからみて『気持ち悪いこと』だったとしても、自我の切実な願望だったことには変わりありません。それを「恥ずかしい」「黒歴史だ」「気持ち悪い」と自らが拒絶したとしても、本質的には何も変わりはしません。だから、そんな時には、自己承認や自己肯定が必要なのです。少なくとも「ひどいことを経験したから、生まれ変わって、その失敗経験を無かったことにして、人生を一からやり直したい。」、つまり、「死にたい。」などと思うのは、人間として間違っていると考えるべきです。

 

品格の街に想う

 かつて渋谷は若者の街ではなかった。そこで、若者に多く来てもらって、商売繁盛につなげたかった。私は、商売繁盛が悪いとは言っていません。しかし、毎年ハロウィ―ンの時期に若者たちが集まる渋谷の街をテレビのニュースなどで観て、なぜか複雑な気持ちになりました。二十歳(はたち)前の私が知っている、少なくとも半世紀前の渋谷の街は、現在のこんなふうではなかった。もっと品のある、つまり、上品な雰囲気の漂う街でした。
 テレビのニュースを観ていると、今回の渋谷のハロウィ―ン規制は「渋谷区長さんの判断だから仕方がない。」みたいなことを言ってシラけている若者もいたようです。けれども、それは、本当は違います。そこに住んでいる人たちの自治というものを、これを機会に学んで欲しいと思います。また、若者は、本当は「かごの中の小鳥」であって、早く大人になって欲しい。かつ、学校でなかなか学ぶことのできない日本の近代史が、現代とどのようにつながっているのかを勉強して欲しい。等々、要望が多くて申しわけありませんが、それらの課題を一つ一つクリアにしていけば、大人たちの想いも理解できるようになるし、現在の日本しか知らない外国の人たちにも本当の日本を知ってもらえる情報を発信できるようになると思います。
 私は、子供の頃、父親の車に乗せられて、渋谷東急デパ-トの五島プラネタリウムに連れて行かれました。その時は、ミニスカ-トみたいに丈の短い半ズボンをはかされて、こざっぱりとして、ぴちっとした上着を着せられて出かけました。普段は、チンピラがかける円いサングラスと溶接工の作業着姿の、私の父も、その日ばかりは頭のてっぺんから足の先まで正装でした。下町の、さらに下町から来たガラの悪さを、渋谷に常連でおこしになる山の手の上品な方たちに見られたくなくて、私の父は、きちっとした服装をしていたのだと思います。
 それくらい、東京の下町と山の手の間には、様々な点で格差がありました。生活面では、下町の庶民性に対する、山の手の気品の高さは、誰の目にも明らかでした。教育面でも、まず教科書が違う。つまり、学力にも大きな差がありました。下町の学校で学んだ人よりも、山の手の学校で学んだ人のほうが学力が高くて、東大合格者の数が圧倒的に多い。その他の受験難関大学の合格者数を比べても、山の手の学校出身者のほうが圧倒的に多い。レベルの高い大学に合格して、レベルの高い会社や職業に就くのは、山の手で生まれ育った人たちに多いことを、私は若い頃から思い知らされてきました。つまり、この教育格差は、どうしても縮めることはできない。東京の下町で生まれ育って生活をしてきた私にとっては、それは山の手コンプレックスになっていました。
 そもそも、山の手の人々の品格あるいは上品さはどこから来たのか、ということを日本の近代史をたどって学んでみましょう。幕末の薩長を中心とする官軍が、江戸城を開城した頃から、その歴史は始まります。その時、江戸(後の東京府)へやって来た長州藩薩摩藩ゆかりの武士(士族)や商人たちの多くが、現在の世田谷(せたがや)区あたりの地に居を構えて、そのご子息がそれを継いで、世田谷の住宅地の始まりとなったと言われています。後に日本語の標準語となった「です」「ます」という語尾(接尾辞)は、もともとは彼らの話し言葉であり、現在でもその影響の大きさを残しています。これまでの江戸の下町の文化に対抗して、明治時代に入って彼らも山の手の文化を作りました。それが、渋谷の街をはじめとする品格のある文化となったわけです。
 確かに、小説家太宰治さんの『斜陽』で描かれているように、没落する華族(元は士族)もいらっしゃったとは思いますが、それがすべてではありません。明治・大正・昭和と時代が移っても、その生活面や教育面でのレベルの高さを維持できた人々も少なくなかったと、私は想像しています。彼らが、この日本で高い生活レベルや品格を持って、社会で活躍してきたからこそ、日本は世界に肩を並べる国家として認められている、と申しても過言ではありません。
 だから、近年の若者が集まる渋谷の街をみると、ちょっとがっかりします。大人たちは、若者たちの生きるパワ―やエネルギ―にばかり期待して、街の再生を期待します。しかし、若者が、反抗期という爆弾をかかえて成長している、いわゆる『馬鹿者』という側面を持っていることをてんで無視しています。だから、大人にとっては期待はずれのことをしてしまうのです。他人事ながら、とても残念に想います。

たわけ者の最期

 今回の記事のサブタイトルは、「それでもあなたは織田信長が好きですか?」にしておきます。テレビのバラエティー番組で時折やっている『あなたの好きな戦国武将ランキング』でいつも上位にランクインするのが、この織田信長さんであります。桶狭間の戦い長篠の戦いにおける圧倒的な強さや、楽市・楽座や安土城の築城等々、他の武将に例を見ないご活躍をされていたので、その評価や好感度が高いというわけです。しかしながら、家臣の一人である明智光秀の謀反により、本能寺の変でいともあっけなく自害に追い込まれました。

 このことは、現代的に考えると次のような明快な答えが得られると思います。すなわち、大きな組織の責任者として被害者を救済することを怠り、そのようなハラスメントの代償を払わされた(つまり、命をもってつぐなわされた)、ということです。

 この『本能寺の変』の事件についての原因や解釈については、他にも様々なことが言及されてきました。どれも正しくて、ありうると、私は思います。ただ、私としては、「なぜ信長は、部下である家臣たちにパワハラせずにおれなかったのか。」という理由を、丸裸にしてみたいと思いました。このことは、信長を愛する人々、その信奉者たちにショックを与えてしまうかもしれませんが、現代という時代が時代なので「是非もあらず」(つまり、良いも悪いもない、仕方がない)と、かんねんして聞いていただきましょう。

 通常、組織の中における上司や先輩というものは、部下や後輩を導いていく責任があります。そして、上司・先輩は、部下・後輩が「言うことを聞いてくれるか否か」ということを絶えず気にしています。そこで、どうしても、その忠誠心を疑って、目下の者をいじめてしまうのです。それで、反抗せずに、大人しく従ってくれれば(つまり、言うことを聞いてくれれば)安心するわけです。ただし、それは一回では済みません。その上下関係が断たれないかぎり、それを確認するためのハラスメントは何度も行われ、常習化します。いじめられたり、いじくられたりして、目下の者が傷つくことは、永遠に続くわけです。(実は、そのような状況は、家庭内の親子関係にも多いようです。)

 私は、織田信長ほどの偉業を成し遂げた武将が、なぜそのようなことに気づけなかったのかを残念に思います。しかしながら、現実問題として、そこまで部下の気持ちを考える余裕が彼にはなかったと、見るべきなのかもしれません。信長は、何かに追い立てられるように忙しかった。明智光秀の謀反を知ってさえも「是非もあらず」、つまり、良いも悪いもない、仕方がないと言って、応戦して自害すること以外の道を選ばなかった、否、他の道を選ぶ余裕さえなかった。それが、私の想像した信長タイプの人物像でした。

 それにしても、余談ですが、『明智光秀』という名前は、4文字の漢字が光り輝いているので、すごいなあ、と私は思いました。現代的に言って、名前負けしそうな感じです。かなりのエリートをイメージさせます。でも、そんな人に乱暴して、いじめ倒す信長っていう人間は、やっぱり、かなりの『たわけ者』なのだと、私は思うのです。だから、『本能寺の変』は、そんな『たわけ者』にふさわしい最期だったと、私には思えます。

将棋が強くなれなかった理由

 ここ数カ月間、本業に全集中だったので、ブログ記事を書くのをご無沙汰しておりました。それほど私の本業は、正解のない問題やトラブルばかりなのです。つい昨日も、田んぼの奥の方に空きスペースがあるので、そこまではぜかけ資材を運ぼうとして軽トラを田んぼ内に乗り入れた途端、先日の雨で泥沼と化していた田んぼの土にはまってしまいました。7時間もあれこれ悪戦苦闘するも、田んぼからの離脱はかなわず、その軽トラの運転席で一夜を明かしました。夜は寒くて、体調が悪くならないようにと、車内に積んでおいた毛布を被って眠りました。

 今朝になって、私は考えました。これは、近くの農業機械センターへ連絡して、トラクターを借りて、この軽トラを田んぼの沼地から引っ張り上げるしかないかもしれない。しかし、そのトラクターの利用でさえ100%上手く行くとは限らない、ということにも即座に気がつきました。そこで、田んぼの泥土をよく観察して、タイヤの前輪と後輪が深い溝を作っていることを発見しました。短いラダーを何とかして前輪の通り道に置いて、前輪がそのラダーの上に乗っかることをふとイメージしました。その一瞬のひらめきを実行して、みごとに軽トラが自力で田んぼを離脱することに成功しました。

 このように、何が一番の正解かは、わからないことが多いのです。学校では、一般的に正しい知識を一応は教えてくれます。それをおろそかにしてはいけないことは言うまでもありません。しかし、その知識を100%信じて、現実にそぐわない判断をするのであれば、それこそ愚かなことであると言わざるをえません。良くも悪くも、その判断や結果に自分自身が責任を持つことが大切だということです。

 話変わって、藤井八冠誕生のニュースを先ほど知りました。並みいるプロ棋士の強敵を相手にした八つのタイトル奪取の偉業をたたえるニュースが多かったと思います。しかし、なぜ彼にそれができたのかという理由となると、明快な説明はされていないような気がしました。もっとも説明されても、素人にはよくわからないということだと思います。そこで、私は以下のような仮説を立ててみました。

 将棋というものは、通常、百数十手前後で勝負がつくことが多いようです。つまり、その手数ほぼ全部を読むことができれば、相手に勝てるわけです。そんなことは人間には不可能だ、という意見も確かにあります。しかし、詰将棋を考えてみると、そうとも言えないかもしれません。初心者用の三手詰めや五手詰めなどから、超高段者用の五十手詰めや百手詰めまで、あるのが詰将棋です。私自身は、余り興味がなかったのですが、最近、コンピュータの詰将棋ができるソフトと戦うことが増えて少し考えが変わりました。もしかして、中盤や終盤に、詰将棋的に対局中の盤面を視ることができたならば、勝率が上がるのではないかと、私は思いました。つまり、中盤などの局面で、ものすごい速さで先読みができて、五十数手の詰将棋にしてしまうならば、私にだってプロ棋士に勝てる気がします。これはあくまでも私の妄想ですが…、そう言えば、藤井八冠は詰将棋のチャンピオンでもあります。私の単なる妄想も、実は、ありうる可能性だったりもするわけです。

 しかしながら、私の若い頃のことを考えてみると、かなりずさんでした。中学生の一時期、私は学校から帰ると、ある友人宅へ将棋を指しによく行きました。その頃は、王将の囲いとか、戦法に興味があって、新聞やテレビで見かけるプロ棋士の真似をすることが流行っていました。そこまでは、良いのです。しかし、私の場合は、極端でした。飛車を横に振って四間飛車にできただけで満足していました。それでだけで、相手に勝った気分でいたのです。その後の指し手や勝ち負けなどに関心はありませんでした。

 ところで、将棋というゲームは、どんなに優れた戦法を使って、局面の形勢が優勢になったとしても、相手に勝ったことにはなりません。詰将棋のように、相手の王将を詰ませて本当の勝ちとなります。だから、藤井八冠には、得意な戦法がありません。戦法で相手に勝つのではなく、独自の戦法を持たずに、相手の出方やスキを突いて、形勢を良くしつつ、盤面全体の詰将棋にして勝つわけです。もしも、現在の藤井八冠にどうしても勝ちたいというのならば、徹底して詰将棋を勉強しなければならないことでしょう。

さて、私自身の話に戻ると、私は中学三年の頃、新しく出来た将棋部の部長をやっていました。私の通っていた公立中学校では、囲碁部はあるものの、将棋部はありませんでした。それで、友人宅へお邪魔して将棋を指していたのですが、放課後のクラブとして、学校の教室を借りて、同級生の友人たちと堂々と将棋を指したいと思っていました。それが、中学三年になって、やっと実現できました。

 しかし、そこで問題がありました。友人の同級生たちの誰もが、部長をやりたがらない。将棋部の部長をやると将棋が弱くなる、というジンクスがあったのです。だけれども、私は、部長を引き受けて、案の定、将棋が弱くなりました。それでも、学校のクラブ活動として将棋を指せることに、私的ではありますが満足感がありました。強くならなかったから、嫌いになったわけではなかったのです。そんな勝負に固執しない私に、将棋部の部長は適役だったのかもしれません。

『夜汽車』などの私的なイメージ

 ここのところ、恋の季節ではなくて本業の季節で忙しくて、このブログを書くのがおろそかになっていました。本当に今時分が忙しくないと、この一年間を棒に振ってしまう。それくらい大切な時期に、毎年のことながら突入していました。私の関心はもっぱら、無理な作業をして体を壊したり、怪我を負いはしないかということに向くことが多くなりました。
 そんな忙しい中でも、前回書いたブログの記事のことが少し気になっていました。古い昭和の流行歌のことを述べながらも、ある程度それはイメージで伝わっただろうかと、いや、やっぱりそれは少し無理だったかもしれない、などと考えるようになりました。
 当時でも、人によって歌詞内容の受け取り方に多少の違いがあったとは思いますが、例えば『花嫁』という曲について、「恋愛の成就が精神的な幸福と豊かさを表わしている。」という、無茶苦茶なことを主張するつもりは、私にはありませんでした。そのようにしか今の若い人たちに理解されないならば、ちょっと残念です。そこで、当時の言葉イメージの『におい』をわずかでも感じていただきたく、以下に『夜汽車』と『海辺の町』と『野菊』等々について述べてみることにしました。
 まず、『夜汽車』についてですが、これは現代の普通の列車ではありません。昭和の時代では、東海道新幹線の超特急『ひかり号』などが最速最先端でした。けれども、それが当時の日本の鉄道の典型でなかったことは誰もが知っていることだと思います。例えば、昭和30年代前後の日本の鉄道は、速さの順番で急行列車・普通列車・鈍行(どんこう)列車が走っていたと、私は母から聞いたことがありました。その中で注目したいのが、『鈍行列車』です。私の母が、18才の若い頃に、父親の反対を押し切って東京へ出てきた時に乗ったのが、まさにその列車でした。当時は、寝台車などは一般的ではなく、このような比較的速度の遅い列車が夜どうしかけて長距離を走っていたのだそうです。『夜汽車』という言葉のとおり、当時は、その夜行鈍行列車を蒸気機関車が牽引しておりました。その夜汽車の車内は、アニメ『銀河鉄道999』の車内をそっくりそのままイメージしていただくとよいと思います。
 そんなふうな話は、ちょっと驚きかもしれません。けれども、まだまだあります。『海辺の町』についてですが、必ずしも、それは『漁港がある町』とは限りません。また、私の母の若い頃のことを引き合いに出しますが、その東京に出てきた理由の一つに、新鮮な魚を食べたいというのがあったそうです。当時はまだ冷凍輸送技術が発達しておらず、長野県の実家では、鰊(にしん)や塩鮭などの干物しか食べられなかったそうです。一方、東京では、言わずと知れた築地市場があって、日本各地から鮮魚が集まってきました。つまり、新鮮な魚を食べられるための選択肢としては、漁港のある町へ行くということよりも、東京や大阪などの都会へ行くほうが、ある意味で合理的であったわけです。以上のことから、私は持論を展開してみました。東京などの都会の下町界隈や湾岸あたりを『海辺の町』と詩的に表現したのかもしれない。その可能性が捨てきれないと考えました。
 そして、『野菊』については、最近私の本業の作業中に、こんなことがありました。きゅうりの苗を支えるための棒状のものが、沢山必要になりました。ところが、枯枝がこの時期一本も地面に落ちていません。そうして困っていたところ、畑のわきのあちらこちらに、『野菊』と一般的に呼ばれている雑草が生えていることに、私は気がつきました。そこで、その一本の根元近くをハサミで切って、葉っぱを全てむしり取り、成長点も切り取ってみました。すると、一本の頑丈な棒ができて、きゅうりのつるを上に誘導するための支柱に使えることがわかりました。雑草なので、材料費ゼロです。害虫が付いてくることもなく、そのコスト・パフォ―マンスがよいことがわかりました。それにしても、『野菊』という雑草の主枝は丈夫です。その頑丈さや健気さを束ねること、つまり、『野菊の花束』という歌詞フレ―ズにそのような頑健な心のイメージを感じ取れることができたならば、それはそれでラッキ―だったかもしれません。そんなふうに、私は想像してみました。だから、「帰れない何があっても心に誓うの」という歌詞フレ―ズが、その『野菊』のイメージと連動していることは言うまでもありません。
 今回の記事の最後に、またまた私の母の若い頃のことを引き合いに出してみようと思います。前にも書いたように、私の母は、地元の高校卒業を機に、父親の反対を押し切って、東京に行って暮すことを決めました。なぜならば、長野県松代の生家に残っていると、父親の親戚や知り合いの紹介で結婚をすすめられてしまうからでした。そうやって無理やり結婚させられるよりも、あこがれの東京に行って暮らしてみたいという気持ちが強くなって、ある晩一人で地元の松代駅から蒸気機関車に引かれた鈍行列車(いわゆる夜汽車)に乗って、一晩かけて上野駅に到着したそうです。
 「東京は、部屋のボタンを押すと、壁から自動的にベッドが飛び出してくるスゴイ所らしい。」などというウソを、地元の松代高校の某教師から授業で教わったいたそうです。実際に東京に来てみて、それがウソだとわかって失望しましたが、本当にスゴイと思ったこともあったそうです。その当時の長野の実家では、まだ、薪(まき)を燃料に使って、ご飯を炊いたり、煮物をしていました。しかし一方、東京では、すでに、都市ガスというものが普及していたそうです。
 その都市ガスを生成する東京ガスの工場が、現在の豊洲市場の敷地あたりにかつてはあって、原料の石炭が海から船で運ばれていました。そこから鉄道の引込み線を通じて石炭ガラが運び出されて、かつては小中学校のスト―ブを暖める燃料などに使われていました。そんなエコな話をたどっていくと、当時の東京の町は、ただのあこがれだけに終わってしまうような場所ではなかったと、私には想像されました。
 当時の流行歌の歌詞の言葉やフレ―ズの背後には、以上のようなもろもろの現実(あるいは、ここで紹介しきれないほどの、もっといろいろな現実)があったようです。現代に生きる人たちが、その一つ一つを厳密に知る必要はありませんが、逆に知っておいても、それほど害はないと思いましたので、これを機会に少しばかり書いてみました。

 

 

 

その日限りのお楽しみ

 今から半世紀くらい前の、ちょうど5月5日のこどもの日の午後に、私は何となくラジオのスイッチを入れました。すると、フジテレビのアニメ『いなかっぺ大将』の主人公の大ちゃんがしゃべっているのをキャッチしました。そう、それは、おそらく文化放送で、その声は、今では大御所の野沢雅子さんでした。その日の午後から、4,5時間くらい、西日が射すまでやっていた、こどもの日にちなんだ特別ラジオ番組でした。
 当時のラジオ放送では、子供電話相談室とか子供向けラジオドラマとかはありましたが、その特別ラジオ番組のような、子供専用の音楽リクエスト集計番組は普段はありませんでした。電話によるリクエストで、何時かまでに締め切って集計結果を最後の1時間くらいでベスト10形式で発表するラジオ番組でした。『いなかっぺ大将』の大ちゃんが、番組の最初から最後まで長時間のMCをつとめていたことが、今でも私は忘れられません。まことに、こどもの日にふさわしいラジオ番組でした。
 もっと忘れられないのは、そのベスト3に当時流行していた歌謡曲のヒット曲やロックミュージックが入っていたことです。おそらく、電話によるリクエストができる年齢は二十歳未満ということで、たとえばリクエストのための電話で年齢を聞かれて「5才です。」などとウソを言ってはダメだったのです。そのベスト10には、童謡や子供の歌なども入っていました。子供の良く知っている歌ということで、あるいは、こどもの日にちなんでということで、それは当然だったと思います。
 しかし、2位になったのは、(正確なタイトルは忘れましたが)『月光仮面』の歌でした。しかも、テレビ主題歌の童謡っぽいものではなくて、モップスというロックバンドの、当時の現代風『月光仮面』でした。原曲を踏まえながら、ロック調のアレンジを加えた曲で、月光仮面のおじさんが訳のわからない言葉を話す宇宙人かスーパーマンのようになっていました。当時の流行りというか、歌謡曲ベスト10では絶対紹介されないような曲でしたが、子供たちに聞かせて面白がらせるには十分な曲でした。
 そして、1位になった曲は、はしだのりひことクライマックスの『花嫁』でした。後に、NHK紅白歌合戦出場を果たした当時の流行歌でした。『こどもの日』に『花嫁』だなんて、何だかミスマッチのように思われるかもしれませんが、西日が射す夕暮れ前のひと時にこの曲を聴いていると、まだ10代になりかけの私にもグッとくるものがありました。

小さなカバンに詰めた花嫁衣装は
ふるさとの丘に咲いてた野菊の花束

という歌詞にもあるように、その幸せや豊かさは、経済発展的なものではありませんでした。はしだのりひこさん自身は、フォークソングの人でした。このことは、昭和時代の豊かさが、経済発展一筋ではなかったことを物語っています。もしかして、その幸せや豊かさは、文化的なものを目指していたのかもしれません。このような流行歌に秘められた文化的なものが、昭和の時代に生きていた人々の、幸せや豊かさを支えていたのかもしれません。
 そういう意味で、私は、あの頃の、こどもの日のラジオ番組でこの『花嫁』という曲を聴いたことが、今でも忘れられないでいるのです。