地震は忘れた頃にやって来る

 私は、東京で生まれ育ったため、子供の頃から地震があると「地震は忘れた頃にやって来る。」とよく大人から聞かされてきました。「震災は忘れた頃にやって来る。」とか「天災は忘れた頃にやって来る。」という同様な言葉も教わりました。そういえば、9月1日の『防災の日』は、大正12年(1923年)のその日のお昼直前に関東大震災があったために制定されました。当時の東京は木造家屋が多くて、お昼の準備で火を使っていた家庭が多かったために、地震発生後に広範囲で火災が発生して、多くの犠牲者が出ました。そのような過去の教訓から、私が小学生の頃には、毎年9月1日の授業中に防災訓練がありました。校内で突然サイレンが鳴って、各自が机の下に入って自身の頭を守るということを、そのための訓練としてやっていた記憶があります。
 この「地震は忘れた頃にやって来る。」という言葉は、「地震の教訓を忘れなければ、それ(地震)は永遠にやって来ない。」という意味ではありません。地震というものは、それが来ると意識しているうちは、なかなか来ないものです。そのような人間の意識とは無関係にやって来るものであり、時が経ってそれ(地震)に対する意識が薄れてきた頃に、つまり、誰もが忘れた頃にいきなり発生して、人々をあたふたさせるものだということなのです。
 そこで、地震を予知するという研究が、これまで行われてきました。けれども、その緊急速報を受け取っても、何かを対処したり避難をしたりするための時間が短くて、役に立たない。と、そう思っている人が多いと思います。地震の予知としてはまだまだ不十分ではないかと、考えている人がかなり多いと思います。
 しかし、(いまだに多くの人が気づいていないと思われますが)何の予告もなく、いきなり発生する地震と向き合わなければならなかったそれまでの過去と比べると、これは大きな進歩だったのです。現在、P波とQ波のズレを利用した科学的かつ確実な方法で、地震が来ることを一瞬でも先に意識できることは、人間の意識に関して言えば、それまでとはかなり違いがあると言えます。地震の揺れにあわてることなく、心を構えることもできるわけです。たとえその寸前に何もできなかったとしても、その直後に落ち着いて行動できる可能性があります。大きな災害につながる、小さなミスを防げる可能性もできます。だから、地震の緊急速報を受け取る私たちの側は、そのようなことをもっと意識して、もっと冷静に行動するべきなのです。
 地震とその突然の揺れに、不安と恐怖を抱いてしまうことは、人間として致し方のないことです。それでも、現在あるところの、地震の緊急速報の意味を少し考えてみるだけでも、価値があると思います。昔、東京の自宅で私がよく言われていたことは、地震が起きても、家の外へは出るなということでした。あわてて外へ出ると、屋根の瓦が落ちてくるので危ないというのです。私の自宅は、鉄筋コンクリート建てではなく古い木造建築で土壁です。だから、建物が倒壊して、その下敷きになる可能性もありました。しかし、地震発生時に、その不安と恐怖にあおられてあわてて行動することは、かえって想定外の危険を招くことになります。いざという時に、あわてて行動して、どんな過失をおかすかもわかりません。その前に、たとえ一瞬でも、パニックを防ぐ『気持ちの間(ま)』ができれば、危険を逃れて助かるかもしれません。何が起こるか確かにはわからないとしても、そのような意識は減災となり、そして、防災につながるかもしれません。
 「地震は忘れた頃にやって来る。」という言葉もまた、なぜ、どのようにして地震がやって来るのかという問いに対する、妥当な答えの一つだったと言えましょう。もちろん、それは、過去を忘れがちな人間の心を揶揄(やゆ)しています。それと同時に、いきなりやって来る地震への不安と恐怖が、人間の心が無知なるゆえに生じていると示唆しているともとれます。「地震とは、そういうものだ。」と、ひとまず結論付けて、いざという時にあわてないようにと、教えてくれています。

 

ダビデ像の裸体はワイセツか?

 少し前のことだと思いますが、「裸のダビデ像ワイセツである。」あるいは「そのダビデ像はポルノである。」と訴えた人がいるという事件がありました。そのワイセツという根拠は、それが男性の裸を表現している像であること、すなわち、男性の性器もあらわになっていることにあったようです。ワイセツということは、その像が一般大衆の目にさらされていて、不快に思う人が多くて、公序良俗を汚(けが)している。と、そのように主張されているというわけです。
 そういえば、こんなことも過去にはありました。学校の授業で、女性の裸像の美術作品のスライドを見た某女子学生が、それをワイセツだと訴えたという事件です。確かに、異性の裸像を写真や美術作品で見て、私は何も感じないのかというと、そんなことはありません。しかし、そのような男女の裸像を美術作品やその写真で見て、即ワイセツかつ有害(つまり、目の毒)だと判断してしまうのは、ちょっと変な感じがします。ひょっとしたらば、その人は、対象をよく見ないで、「ワイセツだ。」と言い放って、顔を背けているだけなのかもしれません。あるいは、その裸像を見ているうちに、何だかムラムラしてどうにもならなかったのかもしれません。それとも、何らかの性的虐待を受けた過去がその人にあって、心に負った傷から即座に拒絶反応を示したのかもしれません。
 しかしながら、いずれにしても、私は美術作品の裸像をワイセツだとは思いません。美術作品であるならば、美術館やギャラリー展示室などの適切な場所で見る分には、全然問題ないと思います。自然科学博物館で骨やミイラなどの展示物を観るのと、大体同じことです。時と場所をわきまえれば、ワイセツでも何でもありません。
 それよりも、「ワイセツだ。」「ポルノだ。」と主張する人の側に関心が向きます。あの裸像から、生身の人間の男性性器を想像できるなんて、すごい豊かな想像力だと思いました。私は男性で、毎日あれを見る機会がありますが、裸のダビデ像のあれとは、少し違うと思っています。つまり、それをワイセツあるいはポルノだと言い切るには、実際には、それ相当の個人的見解がないとできないと思います。
 現代人は、価値観の多様化を認める社会に生きています。裸のダビデ像を見て「ワイセツだ。」と誰かが言ったとしても、「それは間違いだ。」とムキになることはありません。誰かがそのように断言して、他者を訴えたとしても、それは間違えではありません。それは、その人の自由であり、個人的な意見としては認められるべきです。ただし、そこから一歩進んで、「ダビデの裸像はワイセツだから、公に禁止するべきだ。」とか「女性の裸像の美術作品は、ワイセツでエッチだから、見てはダメです。」などと、他人に強要することはできないと思います。「他人も自身と同じ意見でなくてはならない。」とか「そうじゃなければ、世の中みんなが幸せになれない。」などと考えるのは、おかしなことです。それほど今の世の中は、各人の多様性に満ちています。それが良かろうと悪かろうと、ある意味でそれは仕方のないことです。自身の独自の見解を容認してもらいたいならば、それとは正反対の、まったく違う見解も認めるべきなのかもしれません。
 したがって、どう自己主張するのかは個人の自由ですが、その主張を他人に強要できるかと言うと、それはまた別の問題と言えましょう。『価値観の押しつけ』とか『押しつけられた価値観』と呼ばれるものがあるようです。「価値観を押し付けられる」などと言うと、ネガティブな表現に感じられるかもしれません。しかし、実際には、誰もそれほど気にかけてはいないようです。ほとんど無意識のうちに、他者に何かを押しつけて、かつ、受け入れられているようです。何かを押しつけられてはいるものの、それがあるからこそ、人間同士が何らかのやりとりができるわけで、必ずしも悪いこととは言えません。
 しかし、最悪の場合は、喧嘩であり、戦争になってしまいますから、慎重を期する必要があります。この問題に関しては、もう少し詳しく別のブログ記事で改めて述べてみることに致しましょう。

 

何をどうやって『尊重』するのか?

 今回は、日常的でありふれていることに関して、なるべく理屈っぽく考え述べてみることに致しましょう。「他人の意見を尊重する」とか「個人を尊重する」と、よく言われます。日本国憲法の第十三条には、「すべての国民は個人として尊重される。」とあります。そこで、『尊重』という言葉の意味するところを普通に考えてみると、なかなか容易ではありません。私の持っている古い国語辞典で、尊重という言葉を引くと、「とうとび、おもんずること。」という、まるで循環論法に陥るようなことが書いてあります。同様にして、『尊厳』という言葉を調べると、「とうとく、おごそかなこと。」などと書かれています。それでは、その実態がよくわからないので、インターネットでいろいろ調べてまとめてみることにしました。「価値あるものとして、大切に扱うこと。」という解釈が、私にはしっくりと来ました。
 もちろん、「価値があると感じられないと、大切に扱えない。」ということになると思います。けれども、『尊厳』とか『尊重』という言葉には、何か抑圧的なものを感じてしまいます。私としては、素直に従えない気持ちです。つまり、「少数意見を尊重する」「他人の意見を尊重する」「個人を尊重する」あるいは「弱者の立場を尊重する」などと言われて、そうしなければいけない、と他人から強要されても、「場合によっては、そのようなことに素直に従えないこともある。」というのが私の正直な見解です。かえって、通常それが容易でないからこそ、そのような主張に意味がある、とも考えられます。
 また、子供あるいは被害者などの弱者の立場を尊重する場合、余りに気を使いすぎて、過保護的になってしまうことも、よくあることです。難しいところですが、相手の立場をよく理解して、適切に判断することがよいと思います。(無理かもしれませんが)なるべく感情的にならずに、冷静に対処したいものです。
 そして、このような問題に関して、どうしても外すことができないポイントは、『組織』についての考え方です。人間社会的には、コミュニティ(共同体)とかいう言葉で一般的に知られています。しかし、本当は、いかなる場合でも、外せない言葉であり、考え方です。特に、現代の若い世代の人たちには、(もちろん彼らに直接責任はありませんが)欠けていると思います。あまりに、個人の気持ちや主張を重視しすぎるような感じがします。学校や会社の中で、人間的に揉(も)まれてこそ、それは治ってくると思います。しかし、その前に悪の道に染まったり、自殺をしてしまうなどの脆弱な面も彼らには診られます。(それもまた、実は、若者自身の責任ではなく、大人の側の責任です。)日本人の生き辛さの原因も、おおかたそこにあるのかもしれません。
 『組織』といっても、学校や会社だけではありません。私たちがつどう集団もしくはコミュニケーションの場や、各種の団体もそうです。そしてまた、国家という大きな組織、すなわち、アメリカ・ロシア・中国などの大国の政治的組織から、『家族の絆』とも呼ばれる、各家庭という小さな組織まで、人間が形作り、そこに帰属する組織というものはピンからキリまであります。私たち一人一人の『個』でさえも、「健康を維持する」という観点からすれば、そのおのおのが『組織』であることは明らかです。言うまでもなく、そのような『個人』が、それぞれの『細胞の組織』であることは、自然科学的にも明らかなことです。私たちが「健康を維持する」ということは、私たち自身を形作る細胞組織を守ることに他(ほか)なりません。
 したがって、私は、現代の若い世代の人々への教育には、『個人』と『組織』の両方を意識させる教育が必要であることを提唱したいと思いました。『個人』に偏重しても、『組織』に偏重しても、私たち一人一人は生きていけません。『個人』および『組織』に対する意識のバランスが、これまでの私たちの生き辛さを多少でも解消してくれることを期待して、今回の話を閉じたいと思います。

 

猫の日に一言

 先日の2月22日は、『猫の日』でした。それで思い出されることを2、3述べておきたいと思います。私は、生身の猫を飼ったことがありません。よって、想像上の『猫』の話をします。まず、頭に浮かぶのは、夏目漱石さんの『吾輩は猫である』です。小学校の図書館で初めて見つけた時は、前編後編の2冊に分かれていました。小学生が読みやすいように、現代仮名づかいで、いくつか挿絵も入っていました。私には、主人公の猫が水に落ちて溺れ死のうとしている絵が特に印象的でした。
 当時まだ小学生だった私は、テレビのドラマやアニメに夢中でした。小説はおろか、子供向けの漫画や絵本や物語などの本は、興味がなくて一冊も持っていませんでした。だから、小学校の図書館で『吾輩は猫である』を借りてはみたものの、ざっと言葉に目を通すだけで、ほとんど真面目に読んでいませんでした。猫が人間の言葉で語っているところは、テレビアニメの『もーれつア太郎』に登場していたニャロメと同じでした。
 ニャロメといえば、薄幸のイメージを背負った猫のイメージが強かったと思います。人間の言葉が話せる猫なので、少々プライドが高くて、人間の若い女性とつきあいたくて、優しくする傾向がありました。しかし、その若い女性の側は、いつでもニャロメを動物の猫としてしか見ていません。結局ふられてしまいます。ニャロメは猫なので『結婚』という言葉を、『キャッこん』としか発音できません。(ちなみに、キャット(cat)じゃありません。)「オレと、キャッこんしてくれニャ。」みたいに言うところに、哀愁が漂っていました。映画『男はつらいよ』のフーテンの寅さんみたいなところがあったのかもしれません。
 さて、最近では、こんな動画を見つけました。TOMOOさんの”Ginger 【OFFICIAL MUSIC VIDEO】”というものです。以前このブログ記事に書いた、夜遅くにやっていた音楽情報番組で、2023年に注目されたJ‐POPSの曲が紹介されていましたが、その上位の曲としてTOMOOさんの”Super Ball”や”Grapefruit Moon”が紹介されていました。それで、私はYouTubeサイトを検索してみました。そして、この音楽動画に出会いました。
 この曲中には、”ginger cat”という言葉が出てきます。しかし、歌詞をたどっていくと、それが猫なのか人間なのかわからない。もしかしたら、猫なのか人間なのかはそれほど重要なことではないのかもしれない、と感じさせられます。
 という私自身は、夜行性で単独行動が多い、ある意味『猫人間』なので、そういう音楽表現に関心を引かれるのかもしれません。ただし、『猫』とは同類ゆえに、相容(あいい)れない、というところもあるようです。つまり、私自身のその気ままさゆえに、生身の猫を飼ったり、猫と同居した経験がないというわけです。
 

テレビドラマと漫画原作に思うこと

 私は、1986年リリースの渡辺美里さんの『My Revolution』が好きでした。ただし、その曲を単体で好きだったわけではなくて、当時オンエアされていたテレビドラマ『セーラー服通り』のオープニング主題歌として好きだったのです。シングルレコード盤も買いましたし、牛次郎さんの原作本も買いましたし、ドラマと同名のマンガ単行本も買いました。でも、ストーリーの原作本やマンガ単行本を買って読んだのは、テレビドラマでたびたび露呈されていた『柔らかいシーン』、すなわち、お色気の部分をそれらに期待していたわけではありません。このドラマのオープニング映像とその主題歌の組み合わせが、余りに見事だったために、それと似たような(ただし、必ずしも同一ではない)作品の雰囲気をもっと知りたいと思ったからです。
 つまり、その作品の雰囲気というものは、テレビドラマがその原作に忠実だから、視聴者から好かれるというものではないと思います。どんな作品でも、それを作る人が違えば、同じ内容を作っても微妙に違うものになります。また、一人の人間が作った作品と、複数の人間が協力して作った作品が違うこともよく起きることです。
 原作に忠実なテレビドラマを作るために、それでは、原作者が脚本家をやったらいいのかと言うと、そう簡単にはいかないと思います。プロの漫画家が、プロの脚本家と同じスキルがあるとは必ずしも言えないからです。漫画の原作者が、自身の思うようなテレビドラマに(監督し制作)することは、至難の業(わざ)であると言えます。その場合、漫画の原作者が、かわいそうに思えました。
 テレビドラマの一視聴者である私は、その原作が漫画であろうとなかろうと、あえてその原作は読まないことにしています。つまり、テレビドラマと漫画は、お互いパラレル・ワールドの中にあると考えています。それぞれが真実であり、それぞれの道のプロが作った世界観を、視聴者や読者が楽しめればいいのです。
 以前私が『ぼくは麻里の中』という深夜のテレビドラマを観て、しばらく後にその原作の漫画単行本を古本屋さんで見つけて買って読んだ、ということをこのブログで書きました。確かに、そのテレビドラマをよく観ていなかったので、全体のストーリーを知りたいとは思いました。でも、漫画単行本を読んでいる時は、その作者の押見修造さんがどんな絵の組み合わせで物語を作っているのかが重要で、テレビドラマのことはほとんど考えていませんでした。テレビドラマで池田エライザさんの演技がちょっと良かったとは思いましたが、原作漫画中の麻里さんが、池田エライザさんに同じか似ている必要は全くないわけです。また、別の例を申しますと、『北斗の拳』のアニメに関しては、原作漫画はよく読みましたが、アニメはほとんどテレビで観ていません。漫画は、原哲夫さんと武論尊さんの作品であり、私はそっちが好きでした。テレビアニメについては、原作漫画のストーリーや決め台詞を踏襲していることくらいしか、私は知りませんでした。
 あと、17年くらい前にTBSテレビの昼ドラでやっていた『砂時計』という作品は、今でもある意味で印象に残っています。男女の4人の主要人物を12人の俳優・子役さんを使って表現していました。つまり、4人の人物の、小学生時代・中高生時代・大人時代の3つの時間が同時に進行していくために、12人の役者さんが同時に必要となった、というわけです。私は、このようなのドラマのインパクトに引かれて、毎回そのテレビドラマを観ていました。そしてまた、そのドラマのオープニング映像もその主題歌も良かったと思います。
 ただし、その原作の漫画はいまだに読んでいません。後に映画化もされたそのテレビドラマに、漫画の原作があることは、以前から知っていました。けれども、どうしても原作を読みたいとは考えませんでした。私にとっては、子供期・思春期・成人期の4人の主要人物の関わる時間列が同時進行して、現在・過去・未来のシーンがたびたび入れ替わるという、このテレビドラマの大胆な仕掛けを12人もの役者さんが同時に演じているという、その事実があるだけで十分だったのです。
 そんな私にとっては、テレビドラマが原作に忠実かどうかなどということは、小さなことに思えました。視聴者や読者などの『受けとる側』が想像しなければならないことは、それを制作している側がどんな思いで作っているのかということです。良い作品を作れれば、作者は満足できるでしょうし、下手な作品を作ってしまったならば、作者には後悔が残ります。しかし、『受けとる側』は、そうした『作る側』の苦悩を知ってか知らずか、作品に対して批判的になりがちです。時に、それは非情でさえあります。つまり、そのことを強く自覚して反省をしていないことが多々あるのです。したがって、作品を『受けとる側』は、テレビドラマであろうと、原作漫画であろうと、それぞれを『作る側』にもっと好意を寄せて応援してあげないと、本当はいけないのかもしれません。

『ノンマルトの使者』を再評価する

 以前、ウルトラセブンの『ノンマルトの使者』において「キリヤマ隊長の判断は正しかったのか?」というブログ記事を書きました。彼の判断の是非を議論していると、らちが明きそうにないので、今回のブログ記事は、もう少し違った視点から述べてみようと思いました。
 ウルトラセブン第42話『ノンマルトの使者』を、私は子供の頃にオンエアで観ていました。この番組のいつものパターンとして、宇宙人が、連れて来た怪獣を地球上で暴れさせて、地球を侵略しようとします。すると、地球防衛軍の極東支部にある『ウルトラ警備隊』が、地球を守るために宇宙人や怪獣を武力攻撃します。多くの場合、隊員の彼らがピンチに立たされると、M78星雲からやって来て地球に潜入していたウルトラセブンが現れて、宇宙人や怪獣を倒してくれます。今回の『ノンマルトの使者』も、武力強化された改造潜水艦で攻撃してくる宇宙人や、巨大な蛸みたいな怪獣が出てきて、海洋へ進出して開発を進める地球人に攻撃を仕掛けてきました。ところが、モロボシダンやアンヌ隊員を前にして、海辺で現れた正体不明の少年が、ノンマルトの側に味方した発言をしてきます。私は、「何とも不思議な話だな。」と子供心に思いました。
 今、このエピソードを考えてみると、その少年の言っていたことは、本当だったのか、それともウソだったのか、ということが問題になります。本当だったとするならば、「ノンマルトは地球の原住民で、現在の地球人が侵略者だった。」ということになります。逆に、ウソだったとするならば、「ノンマルトが、その少年の魂を地球侵略のための情報戦に利用した。」ということになります。しかし、残念なことに、キリヤマ隊長の即断で、ノンマルトの海底都市が殲滅(せんめつ)されてしまった以上、その真偽は確かめられなくなってしまいます。
 しかしながら、それですべてが完結したというわけにはいきません。それで、視聴者たる私たちの心に何が残るのか、ということが大切だと思います。毎週、このテレビドラマで私は「悪い宇宙人や怪獣によって地球が侵略される」ことを、当たり前のことのように観ていました。しかし、そのうちに、「侵略されるばかりだと思っていた地球人が、実は、侵略する側になってしまっているかもしれない。」という懸念が、不意に頭をもたげてきました。
 最近の出来事で置き換えるならば、地球人→イスラエル人、ノンマルト→パレスチナ人、ウルトラ警備隊→イスラエル軍、ノンマルトの海底都市→ガザ地区、怪獣や改造潜水艦→ハマス、というような図式も成り立つかもしれません。ガザ地区を含むイスラエルの領土で近年どのようなことが起きているのか、という克明な記録が必要とされていることが、これからの我われ人類にとっては重要なことと言えると思います。もっとも、こんなことを考えているようでは、欧米のなだたる大学などの入試に挑戦しようとしても、失敗することが目に見えています。でも、それでも、それ以前に、私たちは、まともな人間でなくてはなりません。欧米人と無理やり肩など並べなくてもいいのです。つまり、私が思うに、この『ノンマルトの使者』のような映像コンテンツを知っている日本人は、それだけでも自らが世界に誇れる存在だと言えます。

創作力にまさる想像力を育てよう

 私は高校2年の時、文芸部の部長になりました。そこで、顧問の先生に初めて挨拶をしに行きました。その先生は、別の学年で国語を教えている、40代の女性教師でした。「今度、文芸部の部長になった、黒田です。小説や詩を書いています。」みたいなことを申しましたら、その先生はこんなことを教えてくださいました。「作品を創作するのは楽しいかもしれませんが、まず文学作品を読むことが大事ですよ。」とおっしゃって、桑原武夫さんの『文学入門』を読んでみては、と薦(すす)めてくれました。そこで、私は、さっそくその本を買って読んでみました。
 それまでの私は、小説や詩を書けることが、すなわち、その創作力こそが、文学活動の全(すべ)てであると信じていました。しかし一方、その桑原武夫さんの『文学入門』を読んでみると、すぐれた文学作品を鑑賞することが、その人を豊かにするということが述べられていました。すぐれた文学は、作者自身が興味を持ったものに関して、その真実の切実さを、誠実さと明快さと新しさをもって読者に伝えるもの、すなわち、感じさせ体験させるものでなければなりません。つまり、文学の本当の目的は、すぐれていると万人が認めてくれる作品を創作することにあるのではありません。ある程度の価値があると認められた文芸作品を、私たち自身が理解して、その限りある人生の糧にしたり、日常生活を営む普通の心を支えて、彩り豊かにすることにあるのです。
 例えば、私は、子供の頃からテレビドラマやアニメを数多く観てきました。そして、それぞれの限られた番組の時間内で、それがどんなことを表現しているかが理解できると、極(きわ)めて幸せな気分になりました。しかも、それが、私の心の中に抱えている問題や内容とたまたま一致していたならば、「そんなことを考えているのは、自分一人じゃないんだ。」とラッキー(lucky)に思って、かえって元気づけられました。だから、それを「けしからん。」とか「盗作だ。」などと思ったことは一度もありません。
 そういえば、先日の私は、夜の音楽情報番組をテレビでたまたま観ていました。2023年に注目されたJ‐POPSの曲を、ミュージシャンや音楽プロデューサーさんらが選んで、それぞれのランキングで紹介するという内容でした。それを観ているうちに、私は、藤井風(ふじいかぜ)さんの『花』という曲が好きになりました。テレビで観た後で、ネットのYouTubeでも、その曲を見つけて何度も聴いてみました。
 「咲かせにいくよ、内なる花を」とか「探しにいくよ、内なる花を」とかで、少しその歌詞に揺らめきが感じられました。特に、この『内なる花』が意味するところはアレではないかと、私は思い当たりました。その人にしかわからない『花』たるものを無理やりに公(おおやけ)にすることなく、内に秘めて温めてこそ、幸せに人生を全(まっと)うできるのかもしれない。などと、そんなふうに考えて、独自の想像力を膨(ふく)らませていました。そして、そのようなことをすることは、楽しいことだと思いました。だから、それは、ああでもない、こうでもない、と苦心の挙句にやっと作品の完成にたどりつくみたいな、そんな創作力よりも、ずっと合理的な活動に私には思えました。果たして、皆様は、いかがなものでしょうか。