仕事上あるいは生活上で私が考え使用するハイテクは、いわゆるハイレベルなテクノロジーではありません。いわばハイブリッドなテクノロジーと表現したほうが当たっています。
例えば、スマホに全ての仕事や生活に必要な機能を集中させるようなことを、私はしません。確かに、仕事や生活上のあらゆることをたった一つのスマホに集約することは、便利ですし、今では誰もがやっていることです。しかし、全てをスマホに託すことが、私にはどうしてもできません。言い換えれば、スマホの多機能性に、科学万能主義の幻影を感じてしまうのが、私の悪いクセのようです。
それは、現在きわめて普及していて、あらゆることに使われているネット、すなわちインターネットに関しても言えます。確かにそれは世界的で一般的なインフラとなりつつあります。それは、SNSの普及によって、誰もが使える分散処理型コンピュータの接続システムであり、接続しているコンピュータ間の機械的故障を補完できる堅固なシステムでもあります。平たく言えば、つながっているコンピュータ機器の一つが動かなくなっても、インターネット全体がストップすることはありません。
しかし、SNS上のひぼう中傷や差別的な発言は結局なくなりませんし、各種の詐欺犯罪に対しても、このシステム自体が自浄する作用は今のところありません。年少者に対する悪影響を懸念して、その使用を禁止あるいは制限する国もあります。また、政治的に不都合な情報発信を即刻削除してしまう国もあります。にもかかわらず、私たちがそうしたネガティブな側面に対して目をつぶってしまうのは、それを上回るメリットがあるからと盲信しているからであり、万能主義的でユートピア思想的なシステムだと信じているからだと思います。そうしたハイレベルテクノロジーにピンからキリまで依存していかないと、時代遅れになって損をする(すなわち、お得でない)と、私たちの脳は素早く判断しがちなのかもしれません。
初めのスマホの話に戻りますが、私の場合は、インターネットパソコンと携帯電話で役割分担しています。インターネットパソコンで、メールのやりとりをしますが、ネット電話を使いません。また、携帯電話は、電話通話のみで、ネット接続の契約をしていません。月ごとの通信代の合計が倍かかりそうですが、実は倍かかりません。さらに、格安で買った家庭用液晶テレビにdデータボタンがあって、地元地域のお天気情報をリアルタイムで観ています。それらの機器のどれかが故障してしまっても、仕事や生活の全てが一斉にストップしてしまうことがないように備えています。
また、同様な例は、農作業にも言えます。耕運機やトラクターなどの農業機械は使いますが、業務用のドローンは使いません。それは、費用対効果によります。業務用のドローンよりも、肥料の手まきや農薬の噴霧器のほうがコスパが良ければ、どっちを採用するかは言うまでもありません。チンパンジーのように、手を伸ばしても取れない物を、長めの棒を使って手繰(たぐ)り寄せて取った例も、実際の仕事ではありました。そうしたローテク、すなわち、ローレベルなテクノロジーを現実の世界で使うことも少なくありません。
一般に、科学技術というものは、ハイレベルなテクノロジーで終始一貫していないと先進的でない、と思われがちです。技術的に遅れていれば、世界的に自慢ができません。だから、例えば、家庭用機器のオール電化という考えも出てくるわけです。電気さえあれば全てが使えて便利です。光熱費も一本化できます。しかし、停電や、電気代の高騰が起こると、その負の側面を露呈します。科学技術を万能化して考えることには、やはり意外な落とし穴があると考えたほうがよさそうです。
ハイレベルなテクノロジーに頑として背を向けることはできません。まさにそれは時代遅れです。しかし、いつの時代でもそうですが、ハイレベルで先進的なテクノロジーに全てを委ねることはできません。なぜならば、そんな万能主義はどこにも存在しないからです。万能であることが、科学技術の本質ではありません。秀でて便利になることが先進技術の本当の素顔であり、これまでの全てをひっくり返すことが科学技術の役割ではありません。いかなる科学技術も、過去の知識や技術の蓄積の上に成り立っています。これまでのやり方の全てをひっくり返すような、そんな革命的なことができなくても、不思議ではありません。
そのようなハイレベルなテクノロジーの弱点を補うことができるのが、ローレベルなテクノロジーだと思います。ハイレベルなテクノロジーに何もかも依存するよりも、それを見直して、よりコスパのよいローレベルなテクノロジーでその一部を埋め合わせます。ハイレベルとローレベルのテクノロジーの抱き合わせが、ハイブリッドなテクノロジーだというわけです。先進的な技術だと自慢できない代わりに、実質的な前進はできる可能性があります。真にイノベーションを技術的に追求するのであれば、過去の知識や技術の蓄積を軽視せずに、ハイレベルとローレベルのハイブリッドなテクノロジーを目指すことをおススメします。そのようなハイブリッドテクノロジーを求めて、決して損はないと思います。
老化も遺伝する?の近況
ここ1か月前あたりから、どんどん気温が下がってきたような気がします。特に、10数日前に寒波がいきなり到来して、それからの毎日が、氷点下の朝に始まって、日中の最高気温も一桁を越えることがなくなりました。
10数日前の私は、こがらし吹きすさぶ屋外で作業をしていて、あまりに凍えてしまい、軽トラ車内に退避しました。ヒーターを付けたものの、突然の寒気に体が追いついていけず、背中の芯まで冷えて、ぶるぶる震えが止まりませんでした。
その夜、血圧計で測定してみたら、脈拍だけが120近くの高い値を示していました。何度測っても、そうでした。私の場合、血中酸素が欠乏するとそのような症状がみられます。そこで、頭から布団を被って寝ていました。ところが、今回は、背中に寒気をおぼえるものの、寝汗をかきませんでした。ただひたすら鼻水が出て、止まりませんでした。そして、咳(せき)も、絶えず出て止まりません。
そんな感じがほぼ1週間も続きました。そのような鼻水と咳が、今までになく重い症状だったので、私は部屋で自己隔離して、1週間くらい朝昼晩をほぼ寝床で過ごしていました。体に寒気をおぼえて2,3日後に、右首の当たりに凝(こ)りができました。扁桃腺が小さく腫れたもののようでしたが、依然として発熱はありませんでした。どうしても止まらない鼻水と咳に、悩まされ続けました。
ここのところ、私の地元では、インフルエンザがかなり流行している、との情報がありました。長野県内の保健所管区内としても、あの松本よりもインフルエンザの感染者数が多いとのことでした。これまでの私は申しますと、インフルエンザ・ワクチンを接種したことがなく(というか、ワクチンを接種する前に感染してしまい)、1晩か2晩を寝込んで自然治癒させることを続けていました。しかし、今回は、熱は1度も出なかったものの、ある程度の免疫抗体が増えて体に抵抗力がつくまで、1週間くらいかかりました。鼻水と咳の症状が意外と重かったので、もしかしたら今回の私の体は、年を越せないのではないかと、一時は思いました。そのことをあまりに心配して、いつクリスマスがあったのかも知らないくらいでした。(年末にきて、宗教的なことを気にかける余裕が無かったというだけかもしれませんが…。)
ここのところ、私自身の体も、だいぶ弱ってきている感じもします。今回のインフルエンザからの回復にも時間がかかりましたし、今年になって胃腸のもたれも少し増えたような気がします。これまでのように、仕事で無茶を続けると、その『しっぺ返し』が年末以降に現れることも、十分考えられます。特に、年を取るたびに、そのような心配が『可能性』から『確実性』に変わっていくようで怖いです。もしも、今年の仕事や作業で、これまで通りの無駄な残業を続けていたとしたならば、この年末でそれに伴う過労がたたって、心身共にアウトになっていたかもしれません。(文字通り、年を越せない状況に陥っていたかもしれません。)
近年テレビから伝えられる、サラリーマンの働き方改革には、これまでの私は切実さや深刻さを感じていませんでした。しかし、わが身に降りかかる老化などの影響を考えておかないと、仕事や作業を年齢に合わせて続けていく上で、もうすでに今年に、大きな障害に遭遇していたと思われます。
私は20代の頃に、社内教育として「働くことが健康につながる。」と教え込まれていました。つまり、「働けば働くほど健康になれる。」だから、「24時間近く働ければ、ずっと健康でいられる。」だから、働き続けなさいと、会社から教育されていました。しかし、人間誰しも亡くなるまでそうなのか、というと、今の私は違うと思います。「健康になるために無理して働く。」のと「健康を維持しつつ、働くことを続ける。」のとは、雲泥の差があります。20代の若い頃は、どちらかというと無理をしても良い結果は得られました。
しかし、若い頃に最も知らなかったことは、老化した心身が受け入れる無理や過労により、命の崖っぷちに足を引っかけてあれよあれよという間に転げ落ちてしまう事実があるということです。しかも、いつどこで、その崖っぷちに足を引っかけてしまうかが誰にもわかりませんし、誰も教えてくれません。手探り状態のまま、ああ、あの時がそうだったと、後から気づくのが普通です。くれぐれも各人が慎重に注意深くなるしかなさそうです。
1昨日、私は、東京の実家にいる母へ電話しました。ちょっと連絡することがあって電話しただけなのですが、そのついでに、私が1週間ほど寝込んでいたことを話してみました。すると、私の母から、意外なことを聞かされました。私の父が、ちょうど今の私の年齢の頃から、体が顕著に弱り始めた、という話でした。
一般的には、40代や60代になって、人間の体に老化の傾向が見えてきます。厄年なども、それに合わせて決められているようです。けれども、それとは別に、個人的に衰弱や老化が著しくなる年齢があるそうです。そうした体の衰弱や老化が、実は親からの遺伝なのではないか、ということが、あくまでも仮説の一つとして考えられるのです。
私自身としては、昨今の体の衰弱や老化という事実を、老化の遺伝という理由で説明して、自らの健康に一層気をつけようと思いました。親からもらったものにがっかりするという法もあるかもしれませんが、それを知らなかったがためにあれこれ悩み続けることは、出口が見えないことと同じです。この世の中は、自然を含めてすべてが変わっていくのですから、せめて自らの健康に前向きになれることは、良いことだと私は思いました。したがって、「来年の年末は、インフルエンザ・ワクチンを、お金が少しかかっても接種しておこう。」と、自発的に考えるようになりました。
せつなくも、いとおしく
また、「きれいになれたそれだけで、命さえもいらないわ」という歌詞の英訳についても述べておきます。これもまた、直訳しても支障はないでしょう。けれども、私はわかりやすい翻訳を目指すために、あえて意訳をしました。「あなたを愛する時の、その気持ちが、私を美しくする。」とか「命よりも愛のほうが大切だと私は信じている。」としてみました。中学生でも理解できそうな英語表現になりましたが、日本語歌詞の感情表現を、英語の論理的表現に置き換えています。そうすることで、その歌詞内容を論理的に裏打ちしてわかりやすくしたつもりです。
さて、今回の英訳におけるクライマックスは、「あなたの色に染められ」をどのように英訳したらいいかということでした。おそらくこの歌詞フレーズの意味するところは、「『あなた』好みの、あるいは、『あなた』に都合のよい相手にさせられた」という意味合いが、一般的だったと思います。作詞家さんも、そのような意味とムードで、歌詞を綴(つづ)られたと考えられます。しかし、私たちがまさに「時の流れに身をまかせて」いくうちに、近年ではそのような歌詞の意味の捉(とら)え方が変わりつつあるようです。「好きになった人の仕草や生活スタイルを真似てしまう」という意味合いも、実は昔からあったのですが、ジェンダーの壁が少しずつなくなりつつある近年においては、こっちの意味合いに近くなっていることも事実だと思います。そこに、『あなた』に会えていないことへの『せつなさ』が加わって、「あなたのスタイルを真似て日々を過ごしている(私の)ことを、あなたは知らないでしょ。」という意味の英語訳ができました。我ながらスッキリとした意訳になったと自負しています。
人間らしさとは何なのか?
人間のくせに、余り人間らしくない私が言うのも何ですが、今回は、このテーマで述べてみようと思います。ネットで検索してみても、チャットGPTに聞いてみても、簡単にその答えを教えてくれます。しかし、それを鵜呑みにしないのが、私の流儀です。ですから、会社や役所の上司からしたならば、私は永遠に有能な部下にはなれないでしょう。
きっかけは、先日11月27日の夜にNHK総合テレビで『フロンティアで会いましょう!』(7)最終回「AI・人工知能 究極の知能への挑戦」を観たことにありました。『サリーとアン問題』という課題がありまして、人間の知能に追いついてきた人工知能のことが、わかりやすく説明されていました。すなわち、人間には他者の心を理解する能力があって、ほとんどの人が「サリーが最初に探すのは、サリーの籠(かご)の中だ。」と答えます。ほとんどの人は、サリー(他者)の気持ちに自然となっていて、サリーの立場からそう答えるのだそうです。
ところが、この問題に対して「もしかして、アンの箱(を最初に探す)?」と私は思いました。サリー(他者)の気持ちになってはいたものの、これでは、ひと昔前のAI(チェスのチャンピオンに勝てた頃のAI)と結果が同じということになります。「なんでやねん。」と他者からひぼう中傷されそうですが、私の心に雑念(ある種のノイズ)が入っていたのも事実です。私は、サリーがアンのことを少し疑っていて、その言動を信じていないと思っていたのです。
私はその原因を、胸に手を当てて、しばらく考えてみました。すると、思い当たることがあったのです。私は、幼い頃からテレビっ子でした。しかも、今になっても、対面で他者と付き合う時間よりも、テレビを観ている時間のほうが長いのが、私の日常です。その間にしばしば感じていたのは、対面した他者からのいじめやひぼう中傷です。つまり、私にとっては、いじめやひぼう中傷は、ネットやSNSのせいではなかったのです。いじめやひぼう中傷を受ける自分自身を認めたくなくて、それがイヤで自殺してしまう人の気持ちが、私にはよくわかります。ただし、私には「なぜ?」という疑問があって、その理由がわからない限り、人生を終わりにできないと思っていました。
その理由のわからない、いじめやひぼう中傷がどこから生じているのかが、今回の番組を観たことをきっかけにして、よくわかりました。要するに、そんな私自身が、他者の心を理解していなかったのです。そのような周りの空気を読めていない頭が下した答えが、「もしかして、アンの箱?」ということになったわけです。
さらにまた、「素直な気持ちを持っていてアンにだまされるよりも、アンを信じていないところがサリーにあっていいのではないか。」というのが、私の憶測でした。ひと昔前のAIとは、答えが同じでも、それを導くプロセスがこんなにも違うのです。しかるに、チャットGPTをはじめとする最近のAIは、『他者の心を理解するかのような能力』を発揮して、他者である多くの人々に受け入れられています。それを、私は、人間として学ぶことができると思うのです。このことを知った私は、他者の心を理解しているような振る舞いを技術として身につけさえすれば、その気(感情や意志)があってもなくても、他者とうまくやっていける(いじめやひぼう中傷を受けない)ようになれることを発見しました。
このような『あたかも…であるかのような(能力)』という点が、重要なポイントです。昔風に言えば、ある種のマシン(機械)がチューリング・テストに合格するための条件に合致します。その番組中で、学者や教授や専門家から「我々が想像している以上のことが現実的にはできている」とか「自分たちよりも賢い存在に直面している」という意見がありました。ただし、この意見は、人間の能力(ここでは、特に知能)を買い被り過ぎている感じがします。なぜならば、上の例のごとく『知能の仕組み』を理解することによって、『人間が他者の心を理解する能力』とはどういうものか、ということをこんな私でさえ改めて学ぶことができるからです。
毎日、テレビでニュース番組やニュース情報番組を観ていると、他者とのコミュニケーションがうまくとれていないために起こってしまった(であろうと思われる)事件や事故を世界中で数多く知ってしまいます。あらゆる場面で知能と感情が衝突して、『他者を理解する能力』が本当に人間にあるのかを疑ってしまうことも多々あります。学者や教授や専門家の方々が『心の理論』だとか「人間とは何か?」とかおっしゃられていることが空虚に感じられることも多々あります。良い子に育った方々にとっては、現実の人間の姿は『目の毒』でしかないのかもしれません。
しかし、理論の追求は、そうした方々の大切なお仕事でもあります。その意味で、大規模言語モデル(LLM)というコンピュータ・システムができたことは、画期的だったと思います。今回の『フロンティアで会いましょう!』という番組では、ヒューマノイドのアメカさんが「私も肌に風を感じたい。」と言ったという話の流れから、「身体が脳をつくる」というテーマに話が移っていました。しかし、空気を読まない私の意見からすれば、いわゆる身体が無かったとしても、大規模言語モデル(LLM)というAIが単独で生み出せる、そんな文句の一つだと思いました。
大規模言語モデル(LLM)は、1兆レベルのとんでもなく多くの言葉のつながり情報を記憶していて、次にくる言葉を予測する処理(あるいは計算)を行います。それによって、人間の知能や心のモデルを表現できていることが重要です。チャットGPTが世間で発表された時、私もかなりそれに対して批判的でした。しかし、そのような仕組みでできていることをおおまかに理解して、チューリング・テストにも合格できそうだとわかると、以前とは逆に大金星をあげたい気持ちになりました。
ここで直感的に言わせてもらいますが、実は、人間の心(感情や知能など)は適当に出来ています。汎用性はあるけれど適当です。「ほどよく当てはまる」あるいは「ふさわしい」ことが『適当』であり、逆に「いい加減」で「雑」なことも『適当』です。人間の心(あるいは感情や知能)は、それを支える記憶の能力も含めて、適当なのです。だから、何事も適切に行えているようで、適当に済ませています。自身や他者の言動も、適当に見聞きして、判断して、その受け入れ方や対処の仕方までも、実は『適当』です。そんな人間そのものに対して、「人間とは何か?」と問うても、実は『適当』な答えしか返ってこない、という見方もできます。ひょっとしたら、AIに対しても、私たち人間は『適当』な評価しか下していないのかもしれません。
つまり、進化しつつあるAIの所作は、どこまで進歩したとしても『人間』そのもののそれにはなれません。適切に言うならば『人間らしさ』のそれになると思います。したがって、「人間とは何なのか?」ではなくて「人間らしさとは何なのか?」という問いにしたというわけです。そのようにした私の意図は、人間の心の適当さを加味したものであることが、ここでやっとご理解いただけたと思います。
ニュースの理解に役立つ3つの主義のこと
今回は、またまた私の独断と偏見で、ユニークな悪知恵を披露したいと思います。最近テレビなどのニュースを観ていると、色々と小さな疑問が浮かんできます。例えば、先の衆議院選挙で、裏金疑惑や、旧統一教会問題の旧安部派の、自民党国会議員が多く落選したのはなぜだったのか、とか。あるいは、国連から日本へ社会諸制度の法改正を突きつけてきたのはどうしてなのか、とか。さらに、次期アメリカ大統領に当確したトランプ氏はなぜあんなふうなのか、などなど、私の頭の中は、テレビなどのニュース番組やニュース情報番組を観ながら、疑問だらけになっていました。そこで、それらの事象を私なりに整理して、それぞれの背景の何がどうなっているのかを明らかにしたいと考えました。
まず、その前に、人道主義(あるいはヒューマニズム)・資本主義・民主主義の3つの主義の話をしたいと思います。私が中学高校大学で学んだ世界史の知識(主に欧米の歴史)によると、一番古くからあるのは人道主義(あるいはヒューマニズム)でギリシャの時代までさかのぼれます。一方、近代に入って、(フランス革命以来の)民主主義、次に(イギリス産業革命以来の)資本主義と続きます。すなわち、人道主義(ヒューマニズム)よりも、民主主義・資本主義ははるかに新しい主義だと言えましょう。
そもそも、人道主義(ヒューマニズム)はギリシャの奴隷制度の上に乗っかって成り立っていました。ローマ時代に入って、その危機を迎えますが、キリスト教と結びついて中世までを生き長らえます。キリスト教を通じて、ヨーロッパ各地の王政による保護を受けていました。ルネッサンスから近代に向けて、その人道主義(ヒューマニズム)が、王政から民主主義や資本主義の発展に便乗して、現代に至ります。現代の欧米の民主主義が、人道主義(ヒューマニズム)に裏打ちされているのはそのためです。なおかつ、資本主義がそれらを財政面で支えてきたことは言うまでもありません。
そのように考えてみると、人道主義(ヒューマニズム)は、単独では成り立たないという問題点を本質的に抱えていることがわかります。現代では、人道主義(ヒューマニズム)は、民主主義および資本主義の発展をその礎(いしずえ)としています。それらが不安定化してガタガタになれば、現代の人道主義(ヒューマニズム)は成り立ちません。国連が人道主義(ヒューマニズム)的な主張を打ち出しても、世界で起きている戦争や国内紛争を止められなくなっているのはそのためです。
私は、それを『人道主義(ヒューマニズム)の限界と敗北』と呼んでいます。現代の私たちの多くは、人道主義(ヒューマニズム)を世界的に唯一無二で至上主義的なものと、これまでは信じていました。あるいは、そういう考え方に慣らされてきました。しかし、現実はそうではなくて、民主主義的なものや資本主義的なものを軽視あるいは無視しては成り立たない世界に私たちが生存していることがわかります。だから、民主主義的なものや資本主義的なものを、現代の私たちは、もっと勉強しなければ生きていけません。
さて、冒頭に掲げた疑問に戻りましょう。以上のことから一番わかりやすいのは、トランプ氏のことです。彼は、資本主義の王道を行くと、私には思われます。ざっくり言えば、キャピタリスト(capitalist:資本主義者)なのです。そのように考えれば、イーロン・マスク氏が、彼の仲間であることも合点がいきます。また、人道主義(ヒューマニズム)に裏打ちされた欧米の民主主義者たちにとって、彼が好まれない理由もわかります。資本主義的な手法によって、アメリカ合衆国を、世界でNo.1の経済大国にし続けることが彼の信条ではないかと、私ならば推測します。そのためには、人道主義(ヒューマニズム)的なことを犠牲にすることもしばしば起ることでしょう。そんな彼に対しては、情ではなくて損得で話を進めないと、うまくいかないと思います。
さて、次は、先の衆議院選挙でいわゆる裏金議員や旧統一教会問題関係の自民党国会議員が落選して、自民公明の与党の国会衆院議員数が過半数割れしたことについてです。私は、これまでも自民党支持者ではありませんから、「自民党が選挙で大敗して、党執行部が責任をとるべきだ。」という意見をどこからか聞いたとしても、なにがどうなのかよくわかりませんでした。私は、国政選挙というものは、いかなる党がいかなる公約をかかげようが、それらが建前でしかないことを知っています。すなわち、いかなる党においても、その本音は、一人でも多くの党員を国会議員に当選させることだということを知っています。しかし、今回の自民党は、裏金疑惑(あるいは、政治と金の問題)や旧統一教会問題によって、国民の信頼を失いかけていました。それらの問題に何ら手を打たずにいれば、国民の信頼を失い、党は空中分解してしまったかもしれません。野党第1党からすれば、それは棚から牡丹餅ということになりかねません。(意地の悪い私は、今回は野党第1党に比例代表で1票入れました。野党第1党が政策協議をしないで、国会でヤジや批判ばかりしていると、国民の怒りが向くだろうと想像して、1票入れました。)
そう、今回の衆議院選挙は、問題のある自民党議員に国民の審判を下すためにあったのです。もちろん、「自民党執行部がそれを画策して、自らは手を下さずに、選挙という手段で国民に彼らを粛清させたのだ。表向きは選挙で大敗したことで、実はそのような酷いやり方をしたことで、いずれにしても党執行部が責任をとるべきだ。」というような意見も、テレビを観ていた私に少なからず伝わってきました。しかし、自民党執行部がそのようなお膳立てをしたにせよ、選挙で実際に彼らを粛清したのはこの国の『民』の力であったことに変わりはありません。
それに、落選した彼らは、処刑されたわけでも、命を奪われたわけでもありません。民主主義のルールに従って、『民』の審判のもとで、選挙で落選しただけのことです。すなわち、国会議員として国民の前に立つことがふさわしくない、と多くの『民』の投票で判定されただけのことなのです。
そのような政党内粛清のやり方に、何か恐怖をおぼえたのでしょうか。日本が、国連から社会諸制度の法改正を突き付けられるという事態となりました。人道主義(ヒューマニズム)に裏打ちされている欧米の民主主義からすれば、日本人の社会諸制度が遅れているからこそ、そのような多くの党内国会議員の粛清が起きてしまったのだと思われたのでしょう。でも、選挙で落選したからといって、その人の人権や命が奪われたり、脅かされりしたわけではありません。選挙で落選しても、党員として裏方に回って仕事をする人だっていらっしゃるわけですから、個人の自由を奪われるわけでもありません。だから、ニュースの報道をよく観て理解されれば、人道主義(ヒューマニズム)に反したことが、今回の日本の選挙においても行われていないことがわかっていただけると思います。
昨今では、民主主義の形骸化が世界的に指摘されております。けれども、今回の選挙におけるように、ちゃんと民主主義のルールと手続きにのっとってそれが行われていることを、もっとみんなに知ってもらいたい。そして、そのことを世界が評価してくれることを願ってやみません。かつまた、『民』の意思やその力を信じ、正しく怖れてくれる政治家や党員の方々が、この国に一人でも増えてくれることを未来においても期待します。
連休中もしっかり働いていた
脱サラして二十年を超える私は、実は、これまでの連休中も働いていました。働きすぎじゃないか、とか、過労死しちゃうぞ、とかと、はたからは批判されそうですが、そうならないことが私自身に課せられた責務でもあります。確かに、この仕事(農業)は、70代や60代の現役で命を落とす方が少なくありません。自然の恵みを利用する代償として、心血を注いでしまうことも多々あります。ですから、サラリーマンの頃のように、一年中フルに働こうとすると、命を落としかねない、とも言えます。心身に無理をして得た代償は、個人として過酷な運命を受け入れなければなりません。
実は、私は、この仕事(農業)が、サラリーマンと同じようには毎月定額の給料を得られないということに、就農直後に気づきました。そして、そのことの不安定さに、愕然としました。しかし、サラリーマンの時のように、絶えず働き続ければ、必ず体や心を壊します。厳しい自然環境と直接向き合って働くとは、そういうことだったのです。
だから、サラリーマンを含む多くの人々と一緒に連休中を休まなくても、働く条件のいい時期にしっかりと働ければいいや、つまり、忙しい時期(農繁期)に働ければいいや、ということになりました。冬場(農閑期)は、田畑や農業資材・ハウス設備のケアをする仕事がありますが、私自身の裁量で連休を作ることができます。そのことを見越して、今のうちに働いておくのです。
この仕事(農業)を持続可能なものにするためには、生活費を何とかやりくりして節約もして、収入の少なさをカバーすることが私には必須です。そしてまた、事故や怪我に気をつけて、心身の健康を維持していくことも重要です。例えそれが守れないとしても、何とかしなければ生きてゆけません。たとえ不本意な終焉を迎えたとしても、どうにもならないのが現在の私自身の立場と言えましょう。
投票前に考えたこと
今年は、まだまだ仕事や生活の中で様々な課題を抱えて、忙しい日々を送っています。そんな中で、衆議院選挙の投票日も迫ってきました。「どうしよう。」と思っている人も少なくないと思うので、何かヒントとなることを書いてみました。
毎度のことですが、どの候補者に投票したらいいか、どこの政党に投票したらいいかを考えあぐねている人が少なくないと思います。自分は政治にあまり関心がないから、どうしたらよいかよくわからないという人も多いと思います。成人して、すなわち大人になってから、何でこんな面倒なことに毎回関わらなきゃいけないんだ、と選挙の投票日が近づいてくる度に感じてしまう人も意外と多いのかもしれません。
もしも、そうであるならば、こんなふうに考えてみてはいかがでしょうか。そもそも、これは小中学校のクラスにおける学級委員の選出と、それほど違わないと思うのです。万年不登校だった人は別として、普通は誰しも、学級委員を選出した時の記憶があると思うのです。大まかなイメージとして考えてみても、大人になって投票をすることは、それとそれほど変わらない事実だと、私は思います。
だから、政治がわからないから、とか、政治に関心がないから、といった理由は、本当を言えば、選挙に行かない理由にはなっていません。政治がよくわからなくても、政治にあまり関心がなくても、何らかの関与ができるのが、この選挙という『大人のシステム』だからです。そのことを知らない人が、この国では多すぎます。
現代的に言えば、個人を誹謗中傷せず、口出しや突っ込みが(もちろん匿名で)できる制度といったほうがよいと思います。もちろん、うまくいけばの話ですが、実際は投票してみなきゃわかりません。また各人の匿名性を守るために、実際は誰がどんな影響を与えて関与したかもわかりません。だから、公平に行われる必要があって、そのために面倒くさい手順とルールがあるわけです。
個人の候補者でも政党でもどちらでもそうですが、人間には本音と建前、ウソとホントがあります。どんなにウマい話や理想があっても、それを実行するための財源がなければ『絵にかいた餅』にすぎません。あるいは逆に、現実的なことばかりでは、夢も希望もなくて、たとえ財源があったとしても何も実行されません。そうした本音と建前、ウソとホントを見抜くことが、私たち一人一人に託された社会人(あるいは国民)としての責務なのです。すなわち、有権者は、顧客ではなくて、審査員と言えましょう。
すなわち、私は、個人や政党の候補者その人に、国会議員を任せて大丈夫かどうかの基準で、毎回投票しています。具体的な見返りは求めません。私の選んだ候補者が、当選しても期待外れだった場合は、次回は違う立候補者に投票します。実は、この国の有権者は自らが亡くなるまで、その投票の自由を持ち続けています。引退させられることはありません。だから、いつから投票することに意義があると気づいても(あるいは、遅れて気づいても)、恥ずかしいことではないし、むしろそれは喜ぶべきことです。
つまり、この国の私たち有権者の一人一人は、学級委員の選出の時のことをもう一度思い出してほしいと思うのです。誰も、仲良しや自らに都合の良い人ばかりを選んではいなかったと思います。学業の成績も良いし、この人ならば学級委員を難なくつとめてくれるだろう人に一票を入れてたはずです。あるいは、学級委員のやるべき面倒な仕事を押しつけても大丈夫な人に、言わばサンドバッグになってくれる人に、清き一票を入れてたはずです。このように有権者は、ズルいものです。ズルくなりましょう。