心や感情を持ったAIの悲劇

 上映当時、かっこよすぎる予告編としてYouTubeなどでも有名になった『EVA』というスペイン映画を、今回は扱ってみようと思います。私は、レンタルビデオ屋さんからDVDを借りて、この映画の本編を観てみました。ロボットに感情を与えるプログラミング技術が、ビジュアル的に美しく映像化されていて、サイエンス・フィクション的な内容をしばし忘れてしまいます。しかし、結局この映画が扱っている重すぎるテーマに私は気づかされました。
 その映画の主題が、人間とAIの感情の問題を扱っているだけに、人によっていろんな感想や意見を抱くことになるとは思います。あるいは、「映画の予告編がかっこよすぎた」ために、何かサスペンス的なものを本編を観る前から期待して、見事にその期待が裏切られたという人も少なからずいらっしゃったことでしょう。「何だ。人間とAIとのやり取りが上手く行かなかっただけのことじゃないか。」とわかって、そこには国家的なスパイの陰謀とか、絶対的な悪魔の存在とかがあるわけでもなくて、この映画を観てがっかりしてしまったという人も少なからずいらっしゃったかもしれません。
 この映画のそうした「もやっ」としたところを、私は読み解いてみたいと思いました。現代の私たち誰もが、AI搭載ロボットなどに抱いている「もやっ」とした夢や希望の一つが、「AIが人間と同じような感情を持つこと」だと言えます。
 その『EVA』という映画では、ロボットに人間的な感情をプログラミングすることを研究している研究所のある町が舞台として描かれています。そのような研究機関で働いている研究員とその家族の、人間関係のドラマが描かれます。そして、『EVA』と呼ばれる少女の秘密が、そのドラマの最後に明かされます。ただそれだけのストーリーなのですが、そのような特殊な日常環境に置かれて苦悩する研究員(あるいは元研究員)の人たちの言動があまりに人間くさくて、壮大なファンタジーや大活劇を映画に期待していた観客は、ちょっと拍子抜けしてしまったかもしれません。
 しかし、私たちの将来に、AIやロボットの進歩を夢見ている人や、AIが人間に近い感情を持つことに興味がある人には、必見の映画と思われます。是非とも、この映画を鑑賞されることをお薦めいたします。この映画は、『EVA』という少女やその家族の悲劇を描いてはいますが、決して、AIが進歩する未来を批判や否定したり、誰が真犯人で悪いのかということを追及しているわけではありません。それよりも、人間の心あるいは感情がいかに『やっかいなもの』であるかを気づかせてみせてくれます。ヒューマン・ファーストに走りがちなヨーロッパで、このような内容の映画が制作されたのは異例なことかもしれません。
 ロボットなどの機械に、人間の心や感情と同じようなものを身につけさせた場合、この映画の劇中では、とんでもないことが起こります。人間とロボットの間が共にいらいらした不安定な関係に陥り、ロボットは人間に暴力をふるってしまい、人間はロボットをシステム・ダウンさせてしまいます。人間の側から見れば、ロボットがシステム・エラーを起こしたと考えます。一方、ロボットの側から見れば、人間が不安やパニックや強圧的になって理不尽なことをやり始めたと認識します。つまり、人間の心や感情というものが、いかに危(あや)ういものであるか、ということを、この映画は訴えているわけです。私たち人間の心や感情が不安定になる、その元凶は、私たち自身の心や感情のうちにある、ということなのです。
 そして、この映画で描かれている事件から、私たち人間は、次のようなことを教訓として学ばなければなりません。私たち人間は、AI搭載ロボットに人間の心や感情を抱かせることに成功したあかつきに、大きな反省を強いられます。ロボットが、自らを人間であると思い込んで誤認してしまった、その一生涯に対して責任を負っていくことが、私たち人間の免れない義務となってしまうのです。
 重ねて申しますが、人間の心や感情ほど、危(あや)うくて『やっかいなもの』は他にはない、と思います。ロボットなどの機械に、人間の心や感情を抱かせたいと考えることそのものも、私たち自身の『孤独への不安』や『寂しさの感情』から生じているだけのことなのかもしれません。残念なことに、誰の心からも、そのような何らかの不安な感情を消し去ることは(一時的に、だますことはできたとしても)決してでき得ないことだと思います。

 

3つの仮説、あるいは私見

 国民一律10万円の給付金に関しては、世の中いろいろご意見やご批判がありましょうけれども、その意味するところを、私なりにあれこれ憶測してみようと思いつきました。そこで、『懸賞金説』『有給手当説』『減税効果説』の3つの仮説にまとめて簡潔に述べていきたいと、私は思いました。
 本当は、テレビなんかで誰かが解説してくれていれば、良かったはずです。しかし、結局は、その支給方法やシステムに対する批判や苦情ばかりで、その『ありのままの姿』を掌握できなくなってしまったような気がします。現在の日本において、住民基本台帳から国民一人一人を割り出してお金を支給する方法は、実は一番公平な手段なのですが、いろんなことを考えてしまうと、その公平さを見失ってしまうようです。
 まず、今回の給付金について私が考えたのは、『命の懸賞金』というイメージです。当初、このウィルス感染症について、日本国内で何も対策が行われなかった場合、多くの人が命を落とすという試算が、専門家さんから出されていました。私たち日本人の一人一人の命が、誰かの言うことに従えば100%助かる、というものではないのだということを、その10万円の給付金は示していたのです。そんなことなど、あるはずがない、と思う人がいらっしゃるかもしれません。でも、本人が命を失った場合、本人がその10万円を受け取るチャンスを失うことは、紛れもない事実でした。つまり、私たち日本人の一人一人に、何とかして生き延びてくれるように、そして、何とか生き延びてくれたならば、国家からの報酬(すなわち、懸賞金)として10万円を支給しましょう、というお願いと取引なのだったのかもしれません。
 もちろん、家族や本人の希望として、今回のひとり頭10万円の支給を断わることも自由にできます。財産が余分にあるだとか、今もまだ高収入で生活しているだとか、という人が10万円の支給など必要ない、と思うのは当然のことです。ただし、支給を受けるみんなからお金を集めて、お金で困っている人に集中的な支援ができると考えるのは、どうかな?と思います。なぜならば、支給を受け取る一人一人に『命の懸賞金』がかけられているとするならば、それらのお金を集めるその人自身に、それ相当の責任を感じてほしいと思うからです。お金だけではなくて、彼らの尊い命までも集めていることを自覚していただいているのかを、私は聞いてみたいものです。日頃、『血税』という言葉をその人自身が意識して、お金を扱っているのかが、こういう機会にあからさまになってしまうものなのかもしれません。
 いずれにせよ、そのような『命の懸賞金』説は、内容が重すぎるような感じもします。そこで、少し視点をずらして、この10万円を次のように考えてみることにしてみました。『日本国』株式会社としては、この、やむをえない事態に際して、老若男女を問わずに一人一人を『日本国の正規社員』として(ステイホームのためなどの)有給手当を支払うことになったというわけです。国家を会社に見立てて、日本人一人一人をそれに所属するサラリーマンと見なす、最近流行りの社会的な見方と言えます。ただし、前の説とも同じことが言えますが、財源はどうするのか、将来の世代への借金として残すのか、という問題に行き着きます。
 そこで、3番目の仮説として、「住民基本台帳にある世帯への、事実上の減税あるいは免税」ということが考えられました。(そのような私の発言に、面食らっている皆さんがいらっしゃるかもしれません。以下に、私の身近な話で具体的に説明いたしましょう。)現在私が住んでいる地域の市役所から、『特別定額給付金のお知らせ』が郵送されてきました。その郵便封筒に私は見覚えがありました。毎年の、住民税や健康保険税(私の地元での呼び名。東京などでは、健康保険料と呼ばれている。)の確定および納付書が、全く同じデザインと型の封書で送られてきます。私の地元の自治体(市役所)は、そのような文書の郵送に慣れている、ということがその時にわかりました。よって、システム的にはスムーズに(郵送で私が送り返した)申請書の審査が行われて、給付が決定して、給付金が振り込まれました。
 余りに円滑に手続きが進んだのと同時に、肝心なことを私は気づくことができました。今回の給付金の流れは、例年の住民税や健康保険税(健康保険料)の納付金の流れとは全く逆だったということです。つまり、これまで毎年私が地元の自治体(市役所)に納めていた分が、今回の給付金という形で戻ってきた、と見ることもできます。今回のお金(給付金)は、天から降ってきたのではなく、あくまでも今回の非常事態を乗り切るための『事実上の減税か免税』であることがわかります。
 よって、住所不定の人は、これまで住民税や健康保険税(健康保険料)の納付を催促されずに免れてきた人だということがわかると思います。そのような人が今回の給付金を受け取るのだとすると、もらい得になるかもしれません。もっとも、住所が確定すれば、住民税や健康保険税(健康保険料)の納付金の催促が、今年以降は郵送で届くようになるかもしれません。「余計なことをするな。」と彼らに叱られそうなので、私はこれ以上は言及しないことにいたしましょう。

国語力のすすめ

 最近、日本人の文章読解力は落ちてきていると、言われています。テレビやネットなどのメディアから、最新で高度な情報を迅速かつ大量に取り入れなければならないことに追われて、無理を通してしまっているようです。よく考えて判断すべきところを、感情に任せて即断してしまい、後で取り返しのつかない失敗をしてしまうことも少なくありません。どうしてそんなことになってしまったのか、ということにさえ後になって思い当らないくらい重症化してしまうことも多いようです。
 そのうち近いうちに世界がグロ―バル化して、みんなスタンダードな(つまり、標準的な)考え方や思いになるから、ある程度それは曖昧(あいまい)な意識のままでも大丈夫だと、多くの日本人の皆様は思っているかもしれません。がしかし、現実はそんなに甘くないと思います。社会の多様化とよく言われますが、自他の考え方の違いがわからなければ、互いにいがみ合い憎しみ合うことは避けられません。日本人がいくら相手と仲良くしたいと思っても、難癖(なんくせ)をつけられて罵倒されるのが落ちです。そうならないために、母国語の勉強をしっかりやっておくべきです。昨今の小中学生にはプログラミングも英語も重要かもしれませんが、国語力がしっかりしていないと、将来日本人は、日常的にも国際的にも惨(みじ)めな経験ばかりすることになってしまうかもしれません。
 と申している私自身も、かつては国語の読解力を曲解していました。小学生の頃から、漢字テストはまずまずの点数でした。しかし、本を読むことが苦手で、どうやって国語を勉強していいのかわかりませんでした。テレビドラマを観たり、日記を書いたりするのは好きでしたが、そのままでは国語の文章題が苦手になりそうな気配がちらほら現れつつありました。そこで、読解力を扱った国語ドリルを本屋さんから買ってきて、自分一人で解(と)いてみました。
 例えば、物語の文章を読んだ後で、次のような設問に答えます。「この物語の主人公は誰ですか。」とか「主人公は、どこへ行こうと決心しましたか。」とか「道の途中で出会った3つの動物は何ですか。」とか「主人公が3つの動物に与えたものは何ですか。」とか「主人公と3つの動物が一緒になってこらしめたのは誰ですか。」というような設問があったとします。当時の私は、これらの設問を見て、「何だ。物語の文章を暗記していれば、それらの設問に全て答えられるじゃん。」と思いました。国語の読解力なんて、文章を暗記できれば全ての設問に正解できると、曲解してしまったのです。少なくとも、読解力というものを「いいじゃん。」「すげえじゃん。」と思っていませんでした。
 その結果、中学一年の中間テストで国語は38点というヒドい結果を私は出してしまいました。そんな失意の中で、私はそんな国語の授業で宮沢賢治さんの『オッペルと象』という作品に出会いました。その作品を授業で勉強していくうちに、オッペルという人間のズルさやワルさや頭の良さに心を動かされながらも、それを脇で眺めていた語り手の冷ややかな見方に文章の面白さを感じました。悪い成績を出しながらも、私が国語を嫌いにならなかったのは、宮沢賢治さんのその作品を読んで理解できたからだと思います。
 それから後に、太宰治さんの『走れメロス』やヘルマンヘッセさんの『少年の日の思い出』とか安岡章太郎さんの『サーカスの馬』とか芥川龍之介さんの『羅生門』とか森鴎外さんの『舞姫』とかの、特徴的で面白い作品に国語の教科書で出会うことになります。どの文学作品も、勧善懲悪とは程遠い、人間の欲望や弱さや身勝手さや不幸を描いていて、思春期の私にとっては涙が出るほど面白かったのです。
 私の考えの押しつけになってしまうとマズいので、ここでやめておきます。ここで、一番問題なのは、どうしたら国語の力を日本人一人一人が伸ばせるかという問題です。その答えもまた、中学一年の国語の教科書(西尾実さん監修)に記載されていました。私は、高校を卒業してからやっと、その教科書中のとある文章に気がつきました。その文章は、本書を編纂した人が創作した対話文でした。先生と生徒との対話形式によるその文章によると、生徒の一人が「どうやったら国語の読み・書き・聞き・話す力を伸ばすことができますか。」と先生に質問します。すると、先生は「これをやれば、すぐに上達するという方法は無いなあ。各人が、読み・書き・聞き・話すたびに、少しだけでも上手くなろうという意識をもって、少しずつ地道に日常生活の中で努力していくことが大切だよ。」などという話をしてくれます。また、読み・書きの力がある程度できていないと、聞き・話す力も上達しません。両者には、つながりがあります。バランスが重要です。
 食べ物は、少しずつ栄養を摂らないと、体内に十分吸収されません。それと同じように、文章の読解力を含む国語力を身につけるには、少しずつ、少しでも上手くなろうと意識して、読んでみる、書いてみる、聞いてみる、話してみることによって、少しずつ上達していくことが大切なのです。これからも、私たち日本人にとって、国語力を身に着けていくことは、人間として生きていくために必須であると言えましょう。このことに、どんなに時間が費やされようとも、決してムダではないということを、重ねて申し上げます。

 

ひぼう中傷をしてしまう人間の心を丸裸にする

 「人間は感情の動物なんだよ。」とか「人間はみんな心が弱いんだよ。」とかと、私は、学校の教室や会社の勤め先などで、他人からしばしばそう聞かされ諭(さと)されてきたものです。しかるに、最近テレビでは、社会的な『ひぼう中傷』が問題となっていると聞きます。新型コロナウィルスの感染関連で、その『いわれ(理由)なき、ひぼう中傷』を受けて苦しむ人たちが出てきているとのことです。そうした、ひぼう中傷の背景にあるものは、「人間が感情に支配されている動物である」ことと、「一人一人の人間の心が弱い」ことにあると、やっぱり私は思いました。
 私の文学的解釈は、そんなところですが、何も今回の新型コロナウィルスの感染だけに限って、そうした恐怖心や不安感が、ひぼう中傷につながるわけではないと思います。他の原因でも、同じようなひぼう中傷が起こりそうな気がします。もっとも、今回の事例においては、自然科学以外にも、私たちはかなり具体的に学ぶべきことが多いような気がします。
 私たち大多数の日常意識をまず最初に振り返ってみると、ここ数か月で劇的な変化を受け入れることになったと思います。これまでは、誰もが知らなくても、あるいは関わらなくても済んでいた感染症学やウィルス学の知識をテレビなどから、やむをえず学ばなければなりませんでした。これまでは、感染症対策といっても、個人や社会でそれほど徹底して行われることはなかったその一方、今回は、それとは逆に、21世紀型の新しい対策が個人的にも社会的にもとられることとなりました。
 その結果、新しい知識や情報を受け入れようとする代わりに、感情や心(あるいは精神状態)がついていけない人々が多発しました。それらの新しい知識や情報を十分に頭で理解できずに、感情や心(あるいは精神状態)ばかりが先行して、内面の恐怖や不安をあおってしまったと考えられます。その行き過ぎた恐怖心や不安感から、ひぼう中傷などで他者を傷つけることが多くなってしまっているようです。これは、人体の免疫の暴走(サイトカインストーム)と同じです。つまり、私たちの日常世界は、社会的なサイトカインストームにさらされていると思います。しかも、誰も、それを防ぐべきワクチンも特効薬も開発していない、というのが現状だと思います。人間の心なんて、話し合って理解し合えば、あるいは、コミュニケーション能力さえあれば、そんなの即刻簡単に解決さ、と思っている日本国民の何と多いことでしょう。(ちょっとだけ、NHKのテレビ番組『チコちゃんに叱られる』をパクりました。)不幸なことに、そのような社会的サイトカインストームは、これから何度もぶり返しそうです。
 なぜならば、人間の感情や心の弱さは、そう簡単には変わらないものだからです。逆に変わってしまってはならないのかもしれません。人間であるべき私たちが、人間であることを捨ててしまうようなものだからです。その一方で、感染症学やウィルス学などの自然科学の知識は、日々進歩して変わっていきます。50年後の感染症対策は、現在の感染症対策とは全く違っているものになっていることでしょう。そのような知識と情報の変化の中で、私たち一人一人の感情や心(あるいは精神状態)はほとんど変わることがなくて、そのうち社会や時代から取り残されていきます。それが、私的な感情を持つ、私たち人間のほとんど誰もがたどる宿命なのかもしれません。
 そのような理由から、私は、「他人にとっていわれのない」ひぼう中傷をしてしまうのは、(下品な表現かもしれませんが)人前で人間が咳やげっぷをしてしまうような生理的なものと考えております。一方的に責めるのもどうかと思います。何か対策をとりたいものですが、今のところ正解はなさそうです。それでも一つだけ、私の考え出した答えを示しましょう。クドいと言われるかもしれませんが、専門家さんからの知識や情報は、なるべく自然体で耳を傾けたいものです。
 そういえば、先日、NHKのEテレ『日曜美術館』という番組を観ていたら、「真実を知るためには知識が必要。」という言葉をふと私は耳にしました。やはり、あらゆる無知は、恐怖の原因、あるいは、不安の材料となりかねない、ということなのだと思います。ただし、それを踏まえての注意が必要です。以下に、それを簡単に述べておきます。どんな知識や情報でも、中途半端な理解や納得の仕方ではいけません。なぜならば、それは真実(あるいは、真相)を知るためのものだからです。

本当は運が良かっただけなのかも…

 先日私は、かかりつけのクリニックにやっと行ってくることができました。電話であらかじめ連絡しておいて、3か月半ぶりにお医者さんに会ってきました。そのクリニックの建物玄関のガラスには、「かぜ症状や発熱の人は、外来を控えて。」とか「該当する人は、保健所に連絡して下さい。」ということが書いてある紙が何枚も貼ってありました。この貼り紙の多さを見て、私はこう思いました。クリニックのお医者さんや看護師さんたちは、このような感染症に対して相当な警戒心や恐怖心があるということです。そのことが、よくわかりました。
 担当のお医者さんからは、今年2月の血液検査(血中の栄養分に偏りがないかを知るための検査)の結果を説明していただきました。私の貧血気味の原因を探るものでしたが、鉄分やビタミン類を含む食品の摂取で一部改善が見られていることが、その検査結果のデータからわかりました。感染症の件があったために、2か月ほど遅れて教えていただくこととなりました。
 また、私のほうからは、お医者さんに『家庭血圧記録ノート ~数値記入式~』を見せて、「大変なことになってしまって、すいません。」と伝えました。その記録ノートのデータでは、私の体に異変が起った日付以降の数週間の朝と夜の血圧や脈拍が平常で、むしろ以前よりも状態が安定していることをチェックしてもらいました。私は、糖尿病の気はないのですが、先の血液検査時にコレステロール値や中性脂肪値が少し高めになっていました。食生活でそれに気をつけるように、とアドバイスをいただきました。
 お医者さんの直接の診断を受けることによって、2か月分の薬を処方していただくことが、今回の私の外来の主目的でした。お医者さんの側にも事情があって、薬によっては外来の診察を受けずに長期の薬を処方すると、患者さん側の体調に責任が持てない場合があるようです。薬の処方をしていただく件については、クリニック側と電話で十分に相談していましたが、薬がきれる前に十分に体調に気をつけて外来してくれるようにと、私は指示されていました。そして、私はマスクをして用心して行きましたが、担当のお医者さんもマスクをされていました。3か月半前に私が行った時は、そうではなかったお医者さんも、やっぱりこの感染症が怖いんだな、と私にはわかりました。

 

 ところで、4月の初めと下旬の2度の発熱症状があった時に、実はサイトカインストームがありました。私個人の問題なので、当時はそれほど大騒ぎしてもしょうがないと思って、あえて書きませんでした。でも、経験したことは経験したこととして、何らかの記録に残しておくことは必要だと思い返して、書こうと決心しました。私の場合、普通の風邪症状の時でも、手足の関節あたり2、3か所が一時的に痛むということは、よくあることでした。だから、あまり気にかけなかったのですが、一度目の発熱症状の時に、体の何か所かでちらほらチクッと感じました。両手足の関節はもとより、肺の右奥下や右副腎部分なども、一度ずつチクッとしました。それが血管部分だとわかったのは、特に左ひじ関節の内側がチクッとした時です。なぜならば、そこは、クリニックでしばしば採血をする時に注射針でチクッとする箇所だったからです。当初は、発熱症状に伴う臓器のダメージだとしか思っていませんでした。けれども、テレビのニュース番組などから新しい情報知識を得てみると、免疫の暴走が少なかった私は運が良かったのかもしれない、と思うようになりました。
 また、二度目の発熱症状の時は、脳血栓の一歩手前までいきました。サイトカインストームは感じなかったものの、後頭部から首の後ろまで血行が悪くて凝った感じがしていました。長野県で気温がマイナス10度以下の時に、頭や首を冷やしたことがありました。そんな時と同じことが、4月の少し暖かくなった頃に起こるなんて変だとは思いましたが、ちょっと心配にはなっていました。その発熱一日目は夜に寝汗をかいて、二日目には熱が下がりました。しかし、後頭部がぽっとした感じで、イヤな気配がしました。一日中、家の中で安静にしていたのですが、改善しません。そこで、三日目に、他人と出会うことのない外の作業場に一人で行って、家と外との直行直帰をしました。誰にも会わない屋外の作業場は、日中それほど暑くはなかったものの、額に汗をだらだらかいて、脈拍も速く強く感じられて、私の体はひどい状態でした。その日の夜に、布団の中でじっとしていると、本当に汗びっしょりになって、それからやっと心拍数が正常に戻りました。下着を全部取り替えて、水分補給をしました。そのような逆療法による血行促進によって(よい子の皆さんは絶対真似しないで欲しいのですが)、何とか脳血栓は防げたようです。

 脳や心臓や腎臓や手足指には、細かい血管や末梢血管などに血栓が詰まりやすいので、血行が悪いと危険です。たまたま私は、日常的な高血圧の治療として、(ジェネリック医薬品ですが)CR錠という血管を広げて血圧を下げる薬を、かかりつけのクリニックのお医者さんから朝晩1錠ずつ飲むように処方されていました。(確証はありませんが)そのことも、血栓による突然死を防いでくれていたのかもしれません。
 いずれにしても、私は、そんな私自身を観測気球のようなものと見ています。観測気球を上げてわかるものは、安心でも心配でもなく、自然現象を観測した結果のただのありのままのデータでしかありません。そこには差別もなければ偏見もなく、「自然を科学する」という学びの姿勢があるのみだと思います。

 

 さて、私が最近その意味が気になっている言葉のことを話しましょう。北九州や東京都などで最近、新型コロナウィルスの感染が確認された(あるいは判明した)人が少し増えている、というようなニュースをテレビで知りました。(けれども、何の不思議もありません。科学的に考えてみて、感染している人がPCR検査に引っかかったという、それだけの話です。検査の結果に一喜一憂せずに、専門家さんの分析をしばらく待っていたほうが利口かもしれません。)その際に、感染経路が不明の人がいるため、市中感染の可能性が疑われている、というような情報もあったようです。そこで、その『市中感染』という言葉について、今回は考えてみたいと思います。
 『市中感染』などと聞くと、ゾッとしたりビックリする人が多いと思います。白昼の路上で、ウィルスに接触した歩行者が次々と倒れていく、というイメージがあると思います。しかし、それは大きな間違いだと思います。少なくとも、私は違うと思っています。
 そんな私はこう思うのです。まず、この言葉は『院内感染』という言葉の対義語であり、病院外での感染という意味だと思います。また、『市中肺炎(しちゅうはいえん)』という言葉があって、それは「日常生活を普通に送っていて、罹(かか)る肺炎」という意味です。すなわち、その言葉から推測すれば「日常生活を普通に送っているレベルで感染すること」が『市中感染』ではないかと、私は思うわけです。感染が拡大しているのに、誰から誰に感染しているのかわからなくなる(感染経路が追えなくなる)のが、そのような感染の状態だと言えます。
 そのことを前提にして考えてみると、『感染拡大』という言葉の意味を曲解している人が多いような気がしてなりません。台風や地震と同じように、突然ウィルスがやって来て去って行ったと感じている人が多いような気がします。また、緊急事態が宣言されて解除されたと知って、ウィルスが突然出現して消滅したと感じた人も少なくなかったと思われます。そして、第二波や第三波は、ウィルスの到来と通過のことだと思っている人が少なくないと思います。
 しかし、そのように描かれたイメージは、本当に正しいのでしょうか。『感染拡大』という言葉の意味しているところの内容と少し違うのではないかと、私は疑っています。十人十色の多数の日本国民に方向性を持たせるためには、それも仕方がないのかもしれません。でも、「それでは前に進めない」と感じ始めた人たちも少なからず出てきてはいます。
 そこで、私も少しばかり考えて、かつ行動してみました。まず『市中感染』が「何もかも今まで通りの日常生活を普通に送っているレベルで感染すること」だとするならば、『新しい生活様式』や『行動変容』に基づいて考え行動することが、最大にして屈指の改善策だということが理解できると思います。今までの日常や従来の生活に戻るのではなくて、ちょっとそれらを変えてみたり、少し工夫を加えて以前より『ちょっとだけ良いもの』にしていけば、いわゆる『新鮮な安心感』や『建設的な経済意識』を私たちの日常生活に見出すことができると思います。
 つい先日、私は、軽トラを定期点検してもらうために、地元の営業所かつ整備工場に行きました。点検整備が終わるまでの1時間ほどを、ショールーム内で待っているのも何となく悪いと思ったので、「ちょっと外へ行ってきます。点検整備が終わったら、私の携帯に電話を下さい。」と係りの人に伝えました。そして、私は少し歩いた場所にある牛丼屋さんに少し早いお昼を食べに行ってみました。マスクをした状態で飲食店でどう食事をすることができるのかを体験してみたかったからです。実際店に入ってみて席についみるとわかったのですが、マスクをした店員さんと対面してオーダーをする時に、お客の私自身がマスクをしていることが、お互いに安心する上で重要だとわかりました。店員さんによって牛丼が運ばれた後で、マスクを外して今まで通りに食べました。食べ終わって、レジで料金を払う時に店員さんと対面することとなるため、その時にお客の私自身がマスクをしていると、お互いに安心できることが再びわかりました。別の席で、誰だかわからないお爺さんが、大声で店員さんに文句を言っていました。私は、無関心を装って(つまり、スルーして)いましたが、内心は「あんな大声を出さないほうが、コロナにかかるリスクが減らせて長生きできるのに…。」と思っていました。
 牛丼屋さんを出て、外を少し歩いているうちに「軽トラの点検整備が終わりました。」と携帯電話に連絡があって、無事に軽トラを引き取って帰ることができました。待っているお客さんの目や顔色を気にせずに、点検整備の作業に専念してもらえればいいんじゃないかな、という気遣いが私にはありました。つまり、この『ご時世(という言い方は、私はあまり好ましく思ってはおりませんが。)』では、何よりも、人間関係上お互いに安心安全であることが、社会的にもスムーズに進むような前向きな感じがしました。

 

酷評で不評だったアノ映画

 これも、いつかは書いてみたかったテーマだったのですが、なかなか事情が許さなくて、長い間、私のブログ記事で公開できませんでした。書いてはまとまらず、また書いてはまとまらず、そんなことを繰り返して今日に至ります。ところが、今回、新型コロナウィルスの世界的な流行によって、やっとそのアメリカ映画がリアルさを増してきました。今になってやっと、この映画の本当の価値を評価できるようになったと思います。おそらくゾンビ映画よりも、ずっと空想科学的で面白いと思います。お薦(すす)めです。(ここで前もって言っておきますが、私は、宇宙開発者や宇宙研究者の夢や希望にケチをつけるつもりは、少しもありません。危機管理上そうしたことへのリスクには言及しますが、そうしたリスクを背負った上で夢や希望を追い求めることは、人間として立派なことだと思います。したがって、そのことに対しては、批判や警鐘を行う立場に私はありません。悪しからず。)
 本題に戻りましょう。それは、ジョン・カーペンター監督の『遊星からの物体X』(原題は"The Thing"。1982年上映)です。私がこの映画のことを知ったのは、テレビの映画ロードショーで同監督の『ニューヨーク1997』を観たついでのことでした。当時は、リドリー・スコット監督の『エイリアン』(1979年上映)がSFホラーブームを引き起こしていました。また、ほぼ同時期には、スティーブン・スピルバーグ監督の『E.T.』(1982年上映)という映画もありました。『遊星からの物体X』とは違って、両者の映画は共に興行収入の面では大ヒットしていました。
 実は、私は『E.T.』を観ていません。スピルバーグ監督の映画作品は『インディー・ジョーンズ』を観てもわかるように、余りに素晴らしい映像なのですが、かえってそれがアダとなっている側面も感じられます。スピルバーグ監督には失礼かもしれませんが、私はファンタジーが余り好きではないのかもしれません。私の文学的な趣味の問題かもしれませんが、不安におののき、恐怖に直面した人間の危機的状況を、ありのままに知りたいという欲求が強いのかもしれません。
 SFホラーの先駆的映画として、今でも高い評価がされているリドリー・スコット監督の『エイリアン』は、宇宙時代の未来において、何の説明も受けずに会社に雇われた従業員たちが、悪夢の中から現れたような一匹の『完全な有機体』に次々と襲われていきます。空間的に閉鎖された巨大宇宙船の中で、何の命の保障もされずに危険な目にあわされる(つまり、エイリアンに寄生されたり、危険な『運び屋』の業務であることが判明したり、乗組員の一人が実は会社から監視に送り込まれていたアンドロイドだったり)、というスゴいストーリーでした。
 けれども、その斬新な映像作品の中に少々難点がありました。ジョン・カーペンター監督が、『エイリアン』の映像を観て、そのラストシーン近くのエイリアンの着ぐるみの登場にがっかりした、という話はよく知られていると思われます。そのラストシーン近くに至るまでは、人類とは違う地球外生命体の部分的なチラ見せで、その不安と恐怖が映像にあふれていました。ところが、いざ映画のラスト近くになって、そのエイリアンの全身が『着ぐるみ』で映像に現れた瞬間に、「何だ、人間が入っているじゃないか。」とわかって、幻滅してしまう観客もゼロではなかったというのです。
 そこで、『エイリアン』の着ぐるみにがっかりしたジョン・カーペンター監督は、『遊星からの物体X』という映画で、『着ぐるみ』を一切使わない特殊効果に挑戦しました。「地球外生命体が、必ずしも人型の宇宙人や怪物だとは限らないし、それらが人間と等身大とは限らない。」というメッセージを観客側に伝えているという意味で、画期的な映像作品だったと言えます。もしも、この『物体X』が人間社会(civilized areas)に到達した場合、27000時間後(約3年後)には、全人類(entire world population)が感染して同化されてしまう(infected)という、コンピュータによる推計(projection)が劇中で語られたりします。その『物体X』は、犬や人間を襲う時は怪物化するのですが、ハッキリとした外形をつかめない、そのグロテスクさの度合いは、他のSF映画の追従を許さないものでした。そうしたリアル感や恐怖感が、現在でも通用するというところに、同監督の先見の明があったと言えましょう。
 しかし、この映画の公開当初は、(そして、当時の日本でも)評判があまり良くありませんでした。当時の日本での試写会の記事を目にしたことがありますが、映画『エイリアン』と比較して、怪物のデザインが劣悪だという酷評が目立ちました。映画の興行収入も芳(かんば)しくなかったようです。当時学生だった私は、東京都上野の映画館での封切りを楽しみにしていました。そして、上映初日の朝に観に行きましたが、私を含めて5人の男性しか観に来ていませんでした。上映初日の入場記念品として、映画の内容とは関係がない、薄っぺらな無地のノートをもらった記憶があります。
 ところが、その後に映画がビデオ化されると、別の観点からこの『遊星からの物体X』が注目されるようになりました。ホームビデオ化やレンタルビデオ化されると、怪物の見た目のスゴさよりも、それに不安と恐怖を抱く人間たちのジタバタ感に視線が向くようになりました。実際この映画では、そのような人間たちのパニック状態が、手抜きなしに描かれています。この映画作品で描かれる地球外生命体は、UFOに乗って大昔の地球にやって来たのですが、蘇生して不測の事態を巻き起こして、アメリ南極観測基地の隊員たちを危機に落とし入れます。ちなみに、この映画の、海外で使用されたとされるキャッチコピーは、”Man is the warmest place to hide.”(「人間は、最も心地よい棲み家だ。」)だったそうです。
 細胞のレベルで、生物と同化して擬態する、この得体の知れない敵に対して、誰もがエイリアンとなってしまう可能性があって、しかも、誰も(本人さえ)知らないうちにエイリアンとなっている可能性があって、みんなが互いに疑心暗鬼となり人間不信になってしまう。『物体X(the thing)』は、地球上の生物とは全く違う生命体でありながらも、人間や犬などを襲って消化吸収した後で、それらの姿に細胞レベルでなりすまして(ニセモノとして姿を変えて)密(ひそ)かに仲間を増やしていく、という恐怖が描かれます。よって、誰が襲われてエイリアンになってしまったのかは、結局『検査』をしてみないとわからなくなってしまいます。たとえそれが一時的あったとしても、『検査』でエイリアンでないことが証明されないと、人間はみんな不安で仕方がない、などという場面が描かれたりしています。(『検査』をして人間であることが証明されても、その後でエイリアンに襲われてしまえば結局意味がないのですが…。)要するに、そのような不安と恐怖にさいなまれる人間たちのドラマが、この映像作品の価値を格段に上げる結果となりました。
 この映画のラスト近くでは、怪物の正体を現したエイリアンは、ダイナマイトの爆破やそれに伴う火災と大爆発などで悲鳴を上げて粉々に飛び散りました。しかし、そうしてやっつけられたとしても、地球上の生物と同じように死んだかどうかは不明のままです。爆発で吹っ飛んで粉々になったとはいえ、一時的に『不活性化』しただけなのかもしれません。地球上のウィルスと同じように、生物なのかも無生物なのかもハッキリとしないこの『物体X』は、依然として地球内にとどまって、消えないものなのかもしれません。(この映画の原題が、"The Thing"すなわち『もの』を意味するということを思い出しましょう。)

 この映画のラスト近くのシーンで、ひとまず二人の隊員が生き残ったように描かれています。その、マクレディ(この映画の主人公)とチャイルズの、二人の男の会話が続きます。二人とも、相手がエイリアンになってしまったのではないかと、互いに疑っています。(私は、本編の映画作品の字幕を参考にして、そのラストシーンの日本語の意訳を試みました。マクレディをM、チャイルズをCとして、以下にそれを示します。)

C「俺たちゃ、これからどうやって『やつ』をやっつけるのさ。」
M「おそらく、どうすることもできないさ。」
 (少しの間)
C「お前は、俺を『やつ』だと疑っていると思うが…。」
 (チャイルズが「俺はエイリアンじゃない。」と言う前に、マクレディはそれをさえぎって)
M「それを聞いて知ったからといって、お互い何も伝わらないし納得できないさ。」
C「じゃあ、どうする。」
M「どうにもならないし…。少し落ち着いて、その成り行きを見守ろうぜ。」
C「(小さな声で)そうさな。」

 この映画のラストシーンは、不安と恐怖の人間ドラマに一つの答えを示してくれていると、私は思いました。英和辞典には、"wait and see"で「成り行きを見守る」すなわち「静観する」という意味だとあります。したがって、そうした不安と恐怖の果てに、人間ができることは、「少し落ち着いて成り行きを見守る。」すなわち「今ここでちょっと待ち受けてみて(wait here for a little while,)」「何が起きるかを見て理解する。(see what happens.)」ことだというわけです。昨今話題となっている「新型コロナウィルスとの共存」についても、同じようなことが言えると思います。この映画の主人公マクレディの、そのような冷静で謙虚なセリフは、現代の人類の心の有様(ありよう)をいろいろと反省する上で、本当に心にしみる言葉だと思いました。

『被爆』への誤解を反省する

 最近たまたま私は、古い国語辞典(卓上版)で、『ひばく』という言葉の意味を知りました。「ひばく【被爆】爆撃されること。」とだけ載っていました。放射線にさらされる意味の被曝(あるいは、被ばく)は載っていませんでした。きっと辞書が古いせいか、あるいは、小学生向けなので、後者は載っていなかったのでしょう。
 ここで、いきなり私の反省ですが、『被爆』という言葉の意味を「爆撃されること。」と、生まれてこのかた一度も思ったことがありませんでした。子供の頃から『被爆者』や『被爆者家族』という言葉を数限りなく耳にしてきましたが、それらは全て「広島や長崎で原子爆弾放射能にさらされて健康被害を被(こうむ)ったり、社会的に差別を受けた人やその家族」あるいは「ビキニ環礁水素爆弾放射能を浴びた漁船の人たち」のことだと思っていました。
 私の誤解はさらに続いて、「放射能の事故で大量の放射能を浴びて(つまり、被ばく)して死亡した」とか、あるいは「原発事故で被ばくした」ということは、「広島長崎で原爆に被爆して犠牲になった人たちと同じ目にあわされた」ことだと思ったり、レントゲンやCTスキャンやMRIラドン温泉なども原理的には同じだから、原子爆弾と同じくらい危険なものだと考えたりしました。手塚治虫さんの『火の鳥』でアイソトープ農場が出てきますが、その敷地内で人間の子供が多量の放射線を浴びて死に至る場面が描かれています。そうしたものを見て、放射能に対する恐怖というものが、私の心の中(うち)に知らず知らず増幅されていたようです。
 ですから、今回「被爆とは、爆撃されること。」という意味を知って、ちょっとイメージの修正を迫られました。「空襲で逃げ回っていた人たちも、被爆者なのだ。」とか「ミサイル攻撃を受けた地域の人たちも、被爆者と言えるのだ。」ということです。したがって、「広島や長崎での被爆者たち」というのは、「広島や長崎で原子爆弾の爆撃により被害を受けた人たち」という意味解釈が正しいということになります。
 『被爆』という言葉が、私の頭の中で「放射能の被ばく」とごっちゃになっていたせいで、いろんな誤解が生じていました。東日本大震災時の福島原発事故は、広島や長崎に落とされた原子爆弾よりも桁違いに放射能汚染があって、世界各国が日本に対する輸入規制をかなり厳しくしたということを思い出します。国内でも、それから数年間「福島県産」というだけでかなりの風評被害が実際にありました。
 その福島原発事故で、テレビを観ていたら、いろいろとわからないことがありました。何とかシーベルトとかシューベルトとかの数値が、関東地方の各地域で観測されていて、危険なのか安全なのか全くわかりませんでした。また、通常の生活レベルで自然放射線量というものがあるにもかかわらず、放射能ゼロという『安心安全の場所』が本当にあるものかどうかということも疑わしかったと思います。とにかく地元から避難した人たちへの差別やいじめがひどかったと思います。
 その一方で、あの頃に、ドイツで原発ゼロを目指して自然エネルギーへの転換を推進しているというニュースを知りました。あの頃の日本では、そうしたドイツの取り組みが絶対的に良くて正しい(すなわち、良いことだらけだ)という風潮がありました。あれから10年ほど経った現在も、日本で相変わらずそういうふうに考えられているかどうかは、少々疑問ですが…。