怪物?いいえ、申しわけない…

 昔テレビで映画の眠狂四郎シリーズの一つ(おそらく『眠狂四郎 女妖剣』)を観たのですが、その劇中で、隠れキリシタンたちが聖女として崇(あが)める『びるぜん志摩』という人物が出てきます。市川雷蔵さんの演じる眠狂四郎は、彼女を目にして「その本性は魔物だ」とか「お前は化け物だ」とか「醜い化け物よりも一層醜怪(しゅうかい)な美しい化け物だ」などと言い放ちます。彼女の性的な誘惑を断ち切って、無頼の徒である眠狂四郎は、彼女をバッサリと斬り捨てます。映画を観る人の心が洗われる作品でした。

 話変わって、最近の私は、テレビドラマ『一次元の挿し木』第9話をオンエアで観た後で、このドラマの次回すなわち最終話がどうなるのかを考えてみました。「誰の目でもない、自分の目で見たことを信じなさい。」「その目で、私の姿を覚えていて…。ずっと…。」と語っていた紫陽(しはる)のことを、悠(はるか)は回想します。そんな義理の妹にただただ会いたいだけだという主人公の悠は、果たして彼女に会うことができるのか。あるいは、これまで悠や真理の記憶の中での回想シーンでしか登場していなかった紫陽が、最終話で実際にどのような形で登場するのか。そうした疑問と共に、私の憶測と妄想はどんどん膨(ふく)らんでいきました。
 最終的に、彼女がどんな姿になっているのかが、一番気になるところでした。もしも彼女が亡くなっていなかったとして、その心身の変わりようが、どれほどのものになるのかが、一番に懸念されるところです。彼女の身も心も、悠の思いや心配をよそに、その容姿を変えて、見るもおぞましい『怪物』のようになってしまっているのではないかと、私は懸念していました。番組ホームページの記事を見ても、最終話で、主人公の悠が『衝撃的な光景』を目の当たりにして、『想像を絶する結末』になるということでしたが…。
 その時点での私は、原作の小説を全く読んでいませんし、このドラマの主人公の悠と同じように、(最終話で明かされたような)本当のことを何も知りませんでした。それで、私は、つい、そのような無茶な憶測や妄想をしてしまいました。
 劇中、ジャーナリストの平間や警部補の多田は、彼女こそが、これまでの一連の事件の首謀者すなわち黒幕であると考察して、主人公の悠に忠告しています、にもかかわらず、悠はそれを否定して、あくまでも義理の妹である紫陽のことを信じ続けます。彼女の正体が段々と明らかになってきても、とにかく彼女に会いたい、そのために自らの命をかけてもかまわないという悠の態度に、私は、「このドラマの主人公である彼自身が、だまされ続けているのではないか。」と疑っていました。
 さらに、劇中の牛尾の言動に目を奪われていましたから、どうしても悲観的な結末を考えざるをえませんでした。だから、私は、どう考えても紫陽はヤバいなと思いました。おそらく怪物化している彼女を、主人公の悠がどうしてそこまで信じ続けることができるのかが不思議でした。義理の妹という家族関係であったとしても、そこまでは行かないはずです。一視聴者としての私には、平間や多田と同じように、クローンやその技術に対する誤解と偏見があって、そのためにどうしてもそっちの心配や恐怖に考察が向かってしまいました。
 ところが、1週間後に実際の最終話を観たところ、そのような私の考察は全くの見当はずれでした。とんでもない憶測あるいは妄想にすぎなかったことを知りました。ドラマの考察をはずしてしまったことを残念に思うよりも、劇中の光景に、もっとそれ以上のショックを受けました。つまり、劇中の彼女の壮絶な状況とその姿を見てしまったことがつらくて、涙が出そうなくらい悲しく思えたのです。彼女のことを『化け物』とか『怪物』なんて思ってしまって、本当に申しわけない。
 最終話ではさらに、彼女の失踪の経緯(いきさつ)やその理由も明らかにされます。そうだったのか、と思うのと同時に、本当に悲しくて、かつ、申しわけなくて、その映像から目を離すことができませんでした。
 私は、その時はまだ、『ヒューマンミステリー』という言葉の意味を知りませんでした。ただ謎解きをするミステリードラマを観るのと同じような感覚で、そのドラマを観ていました。がしかし、それが大きな間違いだったことを、あとで知りました。ネットで調べてみるとわかりますが、「ヒューマンミステリーとは、人間の心理や動機を深く描くミステリー作品」であり、その人間ドラマで泣けるような深い感動を読者や視聴者に与えるものなのだそうです。私は、まさに、このドラマを観て、まんまとそれにハマってしまったわけです。つまり、幸か不幸か、このドラマの魅力となる部分を、はからずも私は知ってしまったということなのです。

 

ドリーマーからリアリストへの変貌

 最近『そこまで言って委員会』という番組を日テレで拝見していました。そこで、『ドリーマー(理想主義者)』と『リアリスト(現実主義者)』という2つの言葉を私は覚えました。そのことが、最近原作小説がドラマ化された(同じく日テレの)『一次元の挿し木』という作品のストーリーの理解に役立ったということを述べてみたくて書いてみました。
 ドラマ『一次元の挿し木』は、『10回切って倒れない木はない』という日曜夜の日テレドラマの次のドラマとして、同じ時間枠で放送されました。最初私は、『一次元の挿し木』と聞いて、変なタイトルだなと思いました。しかも、その時の私は、原作の小説もまったく知りません。しかし、そのドラマ本編を観たらば、その内容にはまってしまい、とうとう全編を観てしまいました。
 若い頃に出会ったのに、その後は行方不明になってしまった、紫陽さんみたいな人って、本当にいるかもしれないと私は思いました。しかも、その彼女の失踪には、とんでもない謎が隠されていて、主人公の若い男性を悩ませてしまうのです。私は、若い頃に出会ったある人の影響で怖い話が好きになりました。だから、こういうミステリーが大好きです。とうとう最終話まで全編をオンエアで観てしまいました。
 確かに、主人公の悠(はるか)と紫陽(しはる)のそれぞれの運命があのようになってしまうのは、仕方がなかったのかもしれません。ドラマの視聴者や原作小説の読者にとって、モヤモヤ感の残る結末だったのかもしれません。このドラマの最終話を、見たくなかった、あるいは、見る必要がなかった、という視聴者さんの気持ちも、私にはよくわかります。紫陽ロスの主人公が、回想の中でしか紫陽と関われないでいたのは可哀想だ、という意見もごもっともです。

忘れない。
忘れても思い出す
いつしか毎日、思い出す
未完の恋。
永遠に終わらない その思い…

などと、ポエム風に表現しても、その切なさは消えることがありません。

 しかし、ここで、なぜこの物語が、小説として書かれたか、という最も大事なことを、皆さんに知ってほしい、と思いました。主人公の悠は、義理の妹の紫陽に会いたい、と最後まで一貫して主張してきました。しかし、その結果として、知らなくもいいことまで知ってしまいます。周りの人間が再三「この件に関わらないほうがいい。」と忠告しているにもかかわらず、彼は紫陽への想いから、謎解きの方向へ行ってしまったのです。
 恋よりも、もっと切なくて悲しくて絶望的なこと、すなわち、彼女がこの世に存在していないこと、あるいは、戸籍上では存在しないことになっていることを知るのです。さらに、彼女自身の体も亡くなっているに等しい状況にあることを知るのです。もしも、あなた自身が、そのような相手と恋をしていたとして、相手を救うことができるかどうか考えてみてください。個人として何をしてあげられるか、を考えてみてください。
 この作品の結末は、いわゆる理想的なハッピーエンドではなく、読者泣かせのヒューマンミステリーにふさわしいものでした。悠と紫陽の言動には、「誰しも、人間はお互いに自身の気持ちを犠牲にしてまで、相手の命を救おうとするのかもしれない。つまり、この二人は、お互いにお互いの『人間としての命』を生かそうとしている。」ということが暗示されていました。それが直接、読者や視聴者の私たちの側に、ダイレクトに伝わってこない時にモヤモヤするのです。
 読者や視聴者の私たちの側が努力するべきことは、この作品に接している間にドリーマー(理想主義者)からリアリスト(現実主義者)に変わることだと思います。脳内が、恋愛や願望という理想から、日常生活や社会常識という現実に変わることです。すると、この作品のミステリーに隠された意図がおぼろげながらもわかってくるのです。このミステリーは、ただの娯楽ではない。このミステリーのすごさは、人の心に何かを残そうとして何かを語りかけている。自称文学者の私は、そこに文学的なニオイを感じます。

『国民の象徴』として考えてみる

 最近、『国旗損壊罪』の必要性の根拠を疑う考えもあるようなので、少し考えてみました。まさか、私たち日本人が自国の国旗を損壊するなんてありえない、というのがその主張の真意だと思います。そういえば、過去にしばしば中国や韓国で日本の国旗が燃やされるなどして損壊される映像がテレビか何かでありました。それを観て、感情を害したり、トラウマになったりした経験のある人も少なくなかったと思います。
 その映像をよくよく分析してみると、そのような行為には『戦争責任』を忘れて無かったことにしようとする日本人に対する抗議の意味があることがわかります。かつまた、国外からのそうした抗議や批判を受け入れることを最も苦手とすることが、私たち日本人の特徴だということがわかります。そのような外国人からの嫌がらせ行為に、たやすく気分や感情を害してしまうのが、私たち日本人のあるあるだと言えましょう。
 ちなみに、私は、いわゆる愛国主義者ではありません。この事案を感情やムードで扱うことは、逆にできません。それとは逆に、昔高校時代に、国歌の『君が代』を歌いたくないために卒業式などの学校行事を欠席する先生がいらっしゃいました。日本の国歌や国旗が、軍国主義時代の国家体制を思い出させるという理由からでした。しかし、これもまた、個人の感情的あるいはムード的な理由のような感じがしました。
 だから、もしも私が『国旗損壊罪』の必要性を説明するとするならば、次のようなケースが考えられると発言すると思います。日本の国内で、外国人(日本在住か否かにかかわらず)が、日本の国旗を損壊した場合は罰せられます。また、その外国人に協力した日本人(合意があるかないかにかかわらず)も、同時に罰せられると考えられます。そんなことはありえないと思う人があるかもしれませんが、それは人間の気持ちを知らない人です。最近よく話題にされる『トクリュウ(匿名流動型犯罪)』に見られるように、普通の私たち日本人だって、いとも簡単に犯罪に関わって巻き込まれてしまう時代です。正体不明の誰かからの依頼で、知らず知らず何らかの行為を強要されてしまうこともありうると思います。
 私は、国旗や国歌は、現在の日本国憲法に記されているとおりの『天皇』と同様に、『国民の象徴』であると考えます。『国家の象徴』でもなく『国家体制の象徴』でもありません。この日本の国で生活しているかぎり、日常身近に顔を合わせる人々の多くは、日本国民であると思います。(例外は、各人で別途考えてください。)別に、ばらばらだと困るとか、考えがまとまっていないと困るというわけではありません。日常身近な、ありのままを考えてみれば、日本のこの地で日常を暮らしている誰もが、日本国民であると考えるのが自然なのです。だから、私たち日本人は、私たち自身を日本人と呼ぶのです。実は、この『日本人』という言葉自身も、私たちにとって私たち自身を象徴する言葉であり、すなわち、それは『国民の象徴』の一つなのです。
 私は、たまたま『国旗制定の日』に生まれました。それに対して、個人的に私がどんな異論反論を持とうと、その事実は変えることが出来ません。私がいくら自由を主張して、それがイヤだと言っても、その事実自体は変更することができません。しかし、このことは、私に『人間の自由』というものの限界や、その本当の意味を教えてくれることとなりました。自由とは、わがままがまかり通ることとは違います。人生の中で、金銭と同様、上手に使っていくことが大切です。国旗や国歌に関しても、個人を束縛するものと思わないで、ひそかな自己表現の一部として大切に扱えたら、日々の生活を豊かにできると思います。くれぐれも、過去の歴史の反省に基づいて欲しいし、その取り扱い方を誤って欲しくないものです。

『一つの意見』という、くくりについて

 昔、戦前戦中の日本では、『大本営発表』というものがありました。たった一つの真実の報道というものを日本国民のみんなが信じて、後になって裏切られたと知った、という過去がありました。戦後日本の新聞やラジオやテレビなどのマスメディアは、そのことを教訓にして、いろいろと模索してきたと言えます。そして、今日では、SNSがそのマスメディアに加わって、全世界的な影響力を持つに至ったとも言われています。
 しかし一方、マスメディアから情報を受け取る側、すなわち、『知る側』の人間の意識(特に、私をも含めた日本人の意識)は、あの戦前戦中からそれほど変革されていないような気がいたします。私たちが各種メディアから知りたいと思うのは、事実に基づく確かな情報(あるいは、『真実』と呼ばれるもの)であり、偏った意見やデマなどの不確かな情報を受け取ることを望みません。もしも、各種メディアからその好ましくない情報を受け取るものならば、「そんなわけないだろう。」とか「そんな情報なんか聞きたくない。」と思って、それを知ること自体を拒否することになります。私も、30代の頃は、テレビの報道や解説で述べられていることと意見が合わなくて、しばしば不信感を抱いておりました。一人でテレビの前で「それは違うじゃないか。」とうっかり大声を出していました。
 しかし、今になってその頃の私自身を反省してみると、大きな間違いに気づかされました。真実、特に、正義や信条といったものは、複数の違うものがあって、しかも、人によって違うということに全く気がつきませんでした。そもそも、これまでの『マスメディア』には、人々の違った意見を一つの方向にまとめて社会的な大きな力にしようとする使命や役割があると、一般的に見られてきました。それが、権力の濫用に対抗する民主主義的な歯止めになると考えられてきました。そのこと自体は間違ってはいません。しかし、権力を持つ側からすれば、そのことで時に敵対視することが多くなったと言えます。また、一般市民の側からすれば、そこまで追及された事実を知る必要などないと、思うことも少なくないわけです。そこそこの事実確認で日常生活上は困らないし、なるべく耳ざわりなことには関わりたくないと思ってしまうわけです。
 確かに、一つの信念に思いを託したり、一つの正義や大義に思いを委ねることは、私たち現代人には必要なことなのかもしれません。この多様な情報や価値観が氾濫する『高度情報化社会』、すなわち、そのことが現代では当たり前となってしまった人間社会においては、それらの一つに全面的な信頼を寄せることは心地よいことなのかもしれません。しかし、大きな権威や権力に対して、そのようにご自身の命や信条を捧げたり、全生活を委ねることは、極まりなく危険なことです。
 私は、時々アメリカSF映画の『続・猿の惑星』のある一つのシーンを思い出します。核戦争から地下へ逃れてミュータントと化した人類が最後の『切り札』あるいは『神』としてあがめていたものは、核ミサイル(と、私は思っていたのですが、実は『コバルト爆弾』という強烈な核爆弾)でした。これは、核廃絶という形式的な制度ではどうにも片付かない、私たち自身の本当の姿(正体あるいは本性)を表現していて、至極気持ちが悪いことだと思いました。
 現在の私は、どんな真実や正義や常識に関しても、それらはそれぞれ『一つの意見』であるとして、善悪や適不適や正しい正しくないの判断を即決しないように気をつけるようにしています。無罪か有罪かも、えん罪を防止するために即断しない。どんなに膨大な情報が氾濫して、速(すみ)やかな決断を迫られても、簡単に情報をさばきすぎてはいけません。この世の中が高度情報化社会であればあるほど、(慎重になりすぎて、迷いすぎてはいけませんが)それぞれを『一つの意見』として、しっかり、くくっていく手間と勇気を身につけたいものです。

 

 『君の愛は何て深いんだ』の歌詞を翻訳してみる

 今回は、”How Deep Is Your Love”(直訳すると『君の愛は何て深いんだ』)というビージーズ(BeeGees)の曲の歌詞を私なりに翻訳してみようと思います。この曲には『愛はきらめきの中に』というムード的な邦題が付けられております。このことは、カーペンターズの”I Need To Be In Love”という曲に『青春の輝き』という邦題が付けられていたことを思い出します。日本人が聴いて、その曲のメロディーの美しさに感じ入ってつけられたような邦題と言えましょう。そのようなパターンは、オリビア・ニュートン・ジョンの”Have You Never Been Mellow”という曲に『そよ風の誘惑』という邦題が付いていたことにも見ることができます。でも、このようなことは、坂本九さんの『上を向いて歩こう』が、外国では『Skiyaki』という曲のタイトルで知られていたことと差ほど変わりません。世界的には、それほど珍しいことではないことなのかもしれません。古い言い方かもしれませんが、むしろ国境を越えて多くの人々に知れ渡る光栄を得られた結果が、そのような、曲のタイトル付けに反映されているのかもしれません。
 なぜ今回ビージーズのこの曲の歌詞を翻訳しようかと思い立ったかと申しますと、少しばかり理由があります。私は、日本でビージーズに熱中していた世代の、その次の世代でした。だから、ビートルズの楽曲のほうをよく聴いていた世代です。ただし、『小さな恋のメロディ』と一般に呼ばれているイギリス映画を子供の頃から観ており(実は、この映画に出演しているトレイシー・ハイドという子役は、私と同じ年生まれでした。マーク・レスターは、私の二つくらい上だったと思います。)、ビージーズの歌唱する曲をいくつもその映画の中で聴いていました。それらの曲の一つである『メロディ・フェア』(直訳すると、『メロディちゃん』)の歌詞を翻訳してみると、「(「ああしろ」「こうしなさい」という)数限りない指図に注視させられて、泣いている少女」とか「君だって髪をすくことで美しくなれるけれども、(良いところも悪いところもある)人間の女性の一人にすぎないことを忘れちゃいけないよ。」とか「人生は、雨のようにツライものじゃなくて、メリーゴーランドのように楽しいものさ。」というような表現がされております。日本語に直訳しにくい英語の歌詞だと、私は思っていました。少し視点を変えて言うならば、凝った表現(あるいは、ひねった表現)だと言えるわけです。辞書の訳語をあてにしすぎないで、自然な日本語の表現を使って意訳ができる絶好のチャンスだと思いました。
 さて、この”How Deep Is Your Love”ですが、1977年公開の映画『サタデーナイト・フィーバー』の劇中歌の一つとして有名です。最初私もこのイントロを聞いた時、愛がきらめきの中にあるような気がいたしました。その頃は、『ディスコ・ブームの中に流れる穏やかなムード楽曲の一つ』くらいのイメージしか持っておらず、切実な思いを込めたバラード曲だなどとは私は思っていませんでした。その歌詞の内容に目が向いて、初めてそのイメージが変わりました。さっそく私流に翻訳し意訳してみました。

 

 『優しくしてほしい』


朝に光る瞳
雨に濡れてた温もり
遠く去って行った君を
今も抱きしめたいのさ

(**)
いきなりの さわやな風
愛で包み去ってゆく
示してほしい その気持ち

(*)
君からの愛がどんなに深いか
マジで知りたいんだ

なぜってこの世は愚かなことばかり
ほっといてくれれば
二人はきっと…

 

信じているよ
ツボを心得ているね
深い暗闇に射す光
ダメな僕を助けて

僕の思い 知らないかも
僕の本気 わかるでしょう
示してほしい その気持ち

(* くりかえし)

ラララーララーァ、ララララーララ、ラーララァ
ラララーララァ、ララーラーラーラァ、ラララーララァ、ララァーラァ

(** くりかえし)
(* くりかえし)

ラララーララー

(* くりかえし)

ラララーララー

君からの愛がどんなに深いか
マジで知りたいんだ

なぜってこの世は愚かなことばかり
ほっといてくれれば…
(二人は…)


 『優しくしてほしい』だなんて、『愛はきらめきの中に』という邦題から比べると、何てガサツなタイトルなんだとお怒りになる皆様もいらっしゃるかと思います。でも、この曲の歌詞に語られている内容は、現代的な視点からしても、恋愛に関する諸問題を含んでいると、私には思われました。ひょっとすると、女性の側からすると、今のご時世がら、この男性はストーカーではないのかと誤解されてしまうかもしれません。つまり、この曲の歌詞は、メロディーや伴奏の美しさとは裏腹に、女性にとっては有害な作品であり、厳しい批判にさらされる恐れがある、ということです。
 そこで、私黒田としては、責任をもって『中高年不良の主張』を気取ってみました。この曲もまた、芸術作品の一つにすぎません。不快か不潔に思う人は、聴く必要はありません。仮に、ダビデ像の裸体を見てワイセツに思う人は、その芸術性がわからないのですから、無理してそれを見る必要はないのです。
 この楽曲は、現代社会の『ガス抜き』の一つとして視聴していただくことを、おススメいたします。人間の本心は、誰もが身勝手なものです。良いところと悪いところが同居するのが普通なのに、「我こそは善であり、悪いところは決してない。」と思いこみがちです。だから、このようなポピュラーソングという音楽ジャンルで『ガス抜き』をしてあげて、その強引さとか暴力性とか残虐さを奪ってあげることが必要なのかもしれません。
 でも、そのような屁理屈は抜きにして楽しみましょう。かくも美しくも切なく、悲しいバラード曲を視聴して、現代の私たちは、曲の世界を良い方向に考えて、ことのほか想像を豊かにして楽しみましょう。

 

 

クマ問題啓発動画に思う

 あらかじめ宣言しておきますが、私はクマ愛護団体のメンバーではありません。だから、クマ問題やクマ被害に関するニュースをテレビで知ったとしても、いつでも冷静に受け止めています。
 実は、長野県では、『クマと人間の共生』ということが掲げられています。しかし、クマが人間の生活圏内に侵入した場合は、容赦ないのが長野県人なのだと思います。いくら長野県人は人が良いと言っても、「クマと仲良く暮らす。」という意味での『共生』ではないことは明らかなことなのです。
 YouTube動画における、例えば、『「熊を守るのか、人を守るのか」冬眠から目覚めた熊…その時、人間は誰の命を守るのか|猟友会・愛護団体・行政の現実』とか、『「熊を守れ」と抗議した愛護団体に、本当に熊を渡した結果…』とか、『【じゃあ、飼ってください】熊を「守りたい」と言ったその先で、誰も想定していなかった“責任”が突きつけられる|理想と現実が衝突する社会派ドラマ』とか、『ヒグマ事故は誰の責任?観光客・愛護団体・自然団体が激突した“本当の原因”』などを視聴いたしますと、フィクションとはいえ、いろいろと納得せざるを得ない現状を考えさせられます。また、ショート動画も数多くありますが、例えクマの姿が生成AIによるものだとしても、問題の本質に目をそむけることは、私にはできそうもありません。
 それらの動画に登場する『クマ愛護団体』という架空の自然保護団体の人たちの主張と行動は、一見、わからなくもありません。「熊駆除反対」という垂れ幕や、「クマを殺すな。」とか「クマは悪くありません!人間が山を奪ったんです!」「銃で解決するのは思考停止です!撃つ前にやることがあるでしょう!」とか、もっともらしい抗議をします。しかし、その反面、「山にエサを置けばいいんです。」とか「(クマに対して)対話と努力が先でしょう!」「熊は話せばわかります!」「人間が変われば、熊も変わる。」「理論上は、熊は攻撃しません。」というふうに、疑問符の?(はてな)が付きそうな発言がしばしば飛び出してきます。
 そこが、その一連の動画の面白いところなのです。その架空の自然保護団体の人たちの言動が、反面教師的な言動であることは明らかです。そのような馬鹿なことをしないでね、というメッセージを、動画を視聴した私たちに暗に伝えてくれているわけです。
 「共存は感情では成立しません。」という役場の職員さんの一言は、かなり重い言葉だと思いました。「クマを銃で殺すな。」というクマ愛護団体の人たちの主張に対して、そのような気持ちだけではどうにもならない現実があることを示していました。捕獲したクマを駆除しないことによる保護管理責任、すなわち、そのクマが暴れて脱走したらば近隣被害の補償を負わされることなどを、彼らは知って理解しておく必要があったわけです。
 つまり、その一連の動画は、クマ被害の恐ろしさをただ訴えているだけではなく、人間のとるべき言動の責任についてまで言及した、社会風刺的なドラマの映像だと言えると思います。

 

かつて抱いていたイメージとはだいぶ違っていた

 先日YouTube動画を観ていたら、IU & TEENTOPでKissing YouというKポップス・ソングを見つけました。この曲の歌詞を知ろうとして、YouTube上でいろいろ検索して調べてみたところ、私にとっては未知のガールズグループSNSDの動画にたどりつきました。
 ハングル読みでソニョシデという名のそのガールズグループの歌って踊るKissing Youという曲のステージ動画は、2014年と2008年のものが見つかりました。また、動画のタイトルや映像の中味を見ていくと、そのガールズ・グループには、”Girls'  Generation”という名前もあることがわかりました。
 と、ここで私はやっとその9人組ガールズグループが『少女時代』であるとわかりました。そもそもは、『KARA』とか『少女時代』が日本で活躍していた頃は、その名前だけは知っていたものの、私自身は当時のKポップスに興味がありませんでした。テレビで見かけたことも、ステージを観たこともありませんでした。だから、「世界に通用する韓国エンターメントが日本に送り出してきたガールズグループ」という、自分勝手に作り上げたイメージを、その頃の私は抱いていました。
 ところが、今回YouTubeで見つけた2014年と2008年の韓国でのテレビ番組やステージの動画を観ると、そのような作り上げられたイメージがまったくありませんでした。Kissing Youという曲自体も、穏やかな内容の曲でしたが、それを歌うガールズグループのメンバーたちも、どちらかというと、観客や視聴者に対して庶民的で、日本のAKB48に近いような感じでした。これならば、日本でも人気があっただろうな、という感じがしました。