テレビドラマと漫画原作に思うこと

 私は、1986年リリースの渡辺美里さんの『My Revolution』が好きでした。ただし、その曲を単体で好きだったわけではなくて、当時オンエアされていたテレビドラマ『セーラー服通り』のオープニング主題歌として好きだったのです。シングルレコード盤も買いましたし、牛次郎さんの原作本も買いましたし、ドラマと同名のマンガ単行本も買いました。でも、ストーリーの原作本やマンガ単行本を買って読んだのは、テレビドラマでたびたび露呈されていた『柔らかいシーン』、すなわち、お色気の部分をそれらに期待していたわけではありません。このドラマのオープニング映像とその主題歌の組み合わせが、余りに見事だったために、それと似たような(ただし、必ずしも同一ではない)作品の雰囲気をもっと知りたいと思ったからです。
 つまり、その作品の雰囲気というものは、テレビドラマがその原作に忠実だから、視聴者から好かれるというものではないと思います。どんな作品でも、それを作る人が違えば、同じ内容を作っても微妙に違うものになります。また、一人の人間が作った作品と、複数の人間が協力して作った作品が違うこともよく起きることです。
 原作に忠実なテレビドラマを作るために、それでは、原作者が脚本家をやったらいいのかと言うと、そう簡単にはいかないと思います。プロの漫画家が、プロの脚本家と同じスキルがあるとは必ずしも言えないからです。漫画の原作者が、自身の思うようなテレビドラマに(監督し制作)することは、至難の業(わざ)であると言えます。その場合、漫画の原作者が、かわいそうに思えました。
 テレビドラマの一視聴者である私は、その原作が漫画であろうとなかろうと、あえてその原作は読まないことにしています。つまり、テレビドラマと漫画は、お互いパラレル・ワールドの中にあると考えています。それぞれが真実であり、それぞれの道のプロが作った世界観を、視聴者や読者が楽しめればいいのです。
 以前私が『ぼくは麻里の中』という深夜のテレビドラマを観て、しばらく後にその原作の漫画単行本を古本屋さんで見つけて買って読んだ、ということをこのブログで書きました。確かに、そのテレビドラマをよく観ていなかったので、全体のストーリーを知りたいとは思いました。でも、漫画単行本を読んでいる時は、その作者の押見修造さんがどんな絵の組み合わせで物語を作っているのかが重要で、テレビドラマのことはほとんど考えていませんでした。テレビドラマで池田エライザさんの演技がちょっと良かったとは思いましたが、原作漫画中の麻里さんが、池田エライザさんに同じか似ている必要は全くないわけです。また、別の例を申しますと、『北斗の拳』のアニメに関しては、原作漫画はよく読みましたが、アニメはほとんどテレビで観ていません。漫画は、原哲夫さんと武論尊さんの作品であり、私はそっちが好きでした。テレビアニメについては、原作漫画のストーリーや決め台詞を踏襲していることくらいしか、私は知りませんでした。
 あと、17年くらい前にTBSテレビの昼ドラでやっていた『砂時計』という作品は、今でもある意味で印象に残っています。男女の4人の主要人物を12人の俳優・子役さんを使って表現していました。つまり、4人の人物の、小学生時代・中高生時代・大人時代の3つの時間が同時に進行していくために、12人の役者さんが同時に必要となった、というわけです。私は、このようなのドラマのインパクトに引かれて、毎回そのテレビドラマを観ていました。そしてまた、そのドラマのオープニング映像もその主題歌も良かったと思います。
 ただし、その原作の漫画はいまだに読んでいません。後に映画化もされたそのテレビドラマに、漫画の原作があることは、以前から知っていました。けれども、どうしても原作を読みたいとは考えませんでした。私にとっては、子供期・思春期・成人期の4人の主要人物の関わる時間列が同時進行して、現在・過去・未来のシーンがたびたび入れ替わるという、このテレビドラマの大胆な仕掛けを12人もの役者さんが同時に演じているという、その事実があるだけで十分だったのです。
 そんな私にとっては、テレビドラマが原作に忠実かどうかなどということは、小さなことに思えました。視聴者や読者などの『受けとる側』が想像しなければならないことは、それを制作している側がどんな思いで作っているのかということです。良い作品を作れれば、作者は満足できるでしょうし、下手な作品を作ってしまったならば、作者には後悔が残ります。しかし、『受けとる側』は、そうした『作る側』の苦悩を知ってか知らずか、作品に対して批判的になりがちです。時に、それは非情でさえあります。つまり、そのことを強く自覚して反省をしていないことが多々あるのです。したがって、作品を『受けとる側』は、テレビドラマであろうと、原作漫画であろうと、それぞれを『作る側』にもっと好意を寄せて応援してあげないと、本当はいけないのかもしれません。

『ノンマルトの使者』を再評価する

 以前、ウルトラセブンの『ノンマルトの使者』において「キリヤマ隊長の判断は正しかったのか?」というブログ記事を書きました。彼の判断の是非を議論していると、らちが明きそうにないので、今回のブログ記事は、もう少し違った視点から述べてみようと思いました。
 ウルトラセブン第42話『ノンマルトの使者』を、私は子供の頃にオンエアで観ていました。この番組のいつものパターンとして、宇宙人が、連れて来た怪獣を地球上で暴れさせて、地球を侵略しようとします。すると、地球防衛軍の極東支部にある『ウルトラ警備隊』が、地球を守るために宇宙人や怪獣を武力攻撃します。多くの場合、隊員の彼らがピンチに立たされると、M78星雲からやって来て地球に潜入していたウルトラセブンが現れて、宇宙人や怪獣を倒してくれます。今回の『ノンマルトの使者』も、武力強化された改造潜水艦で攻撃してくる宇宙人や、巨大な蛸みたいな怪獣が出てきて、海洋へ進出して開発を進める地球人に攻撃を仕掛けてきました。ところが、モロボシダンやアンヌ隊員を前にして、海辺で現れた正体不明の少年が、ノンマルトの側に味方した発言をしてきます。私は、「何とも不思議な話だな。」と子供心に思いました。
 今、このエピソードを考えてみると、その少年の言っていたことは、本当だったのか、それともウソだったのか、ということが問題になります。本当だったとするならば、「ノンマルトは地球の原住民で、現在の地球人が侵略者だった。」ということになります。逆に、ウソだったとするならば、「ノンマルトが、その少年の魂を地球侵略のための情報戦に利用した。」ということになります。しかし、残念なことに、キリヤマ隊長の即断で、ノンマルトの海底都市が殲滅(せんめつ)されてしまった以上、その真偽は確かめられなくなってしまいます。
 しかしながら、それですべてが完結したというわけにはいきません。それで、視聴者たる私たちの心に何が残るのか、ということが大切だと思います。毎週、このテレビドラマで私は「悪い宇宙人や怪獣によって地球が侵略される」ことを、当たり前のことのように観ていました。しかし、そのうちに、「侵略されるばかりだと思っていた地球人が、実は、侵略する側になってしまっているかもしれない。」という懸念が、不意に頭をもたげてきました。
 最近の出来事で置き換えるならば、地球人→イスラエル人、ノンマルト→パレスチナ人、ウルトラ警備隊→イスラエル軍、ノンマルトの海底都市→ガザ地区、怪獣や改造潜水艦→ハマス、というような図式も成り立つかもしれません。ガザ地区を含むイスラエルの領土で近年どのようなことが起きているのか、という克明な記録が必要とされていることが、これからの我われ人類にとっては重要なことと言えると思います。もっとも、こんなことを考えているようでは、欧米のなだたる大学などの入試に挑戦しようとしても、失敗することが目に見えています。でも、それでも、それ以前に、私たちは、まともな人間でなくてはなりません。欧米人と無理やり肩など並べなくてもいいのです。つまり、私が思うに、この『ノンマルトの使者』のような映像コンテンツを知っている日本人は、それだけでも自らが世界に誇れる存在だと言えます。

創作力にまさる想像力を育てよう

 私は高校2年の時、文芸部の部長になりました。そこで、顧問の先生に初めて挨拶をしに行きました。その先生は、別の学年で国語を教えている、40代の女性教師でした。「今度、文芸部の部長になった、黒田です。小説や詩を書いています。」みたいなことを申しましたら、その先生はこんなことを教えてくださいました。「作品を創作するのは楽しいかもしれませんが、まず文学作品を読むことが大事ですよ。」とおっしゃって、桑原武夫さんの『文学入門』を読んでみては、と薦(すす)めてくれました。そこで、私は、さっそくその本を買って読んでみました。
 それまでの私は、小説や詩を書けることが、すなわち、その創作力こそが、文学活動の全(すべ)てであると信じていました。しかし一方、その桑原武夫さんの『文学入門』を読んでみると、すぐれた文学作品を鑑賞することが、その人を豊かにするということが述べられていました。すぐれた文学は、作者自身が興味を持ったものに関して、その真実の切実さを、誠実さと明快さと新しさをもって読者に伝えるもの、すなわち、感じさせ体験させるものでなければなりません。つまり、文学の本当の目的は、すぐれていると万人が認めてくれる作品を創作することにあるのではありません。ある程度の価値があると認められた文芸作品を、私たち自身が理解して、その限りある人生の糧にしたり、日常生活を営む普通の心を支えて、彩り豊かにすることにあるのです。
 例えば、私は、子供の頃からテレビドラマやアニメを数多く観てきました。そして、それぞれの限られた番組の時間内で、それがどんなことを表現しているかが理解できると、極(きわ)めて幸せな気分になりました。しかも、それが、私の心の中に抱えている問題や内容とたまたま一致していたならば、「そんなことを考えているのは、自分一人じゃないんだ。」とラッキー(lucky)に思って、かえって元気づけられました。だから、それを「けしからん。」とか「盗作だ。」などと思ったことは一度もありません。
 そういえば、先日の私は、夜の音楽情報番組をテレビでたまたま観ていました。2023年に注目されたJ‐POPSの曲を、ミュージシャンや音楽プロデューサーさんらが選んで、それぞれのランキングで紹介するという内容でした。それを観ているうちに、私は、藤井風(ふじいかぜ)さんの『花』という曲が好きになりました。テレビで観た後で、ネットのYouTubeでも、その曲を見つけて何度も聴いてみました。
 「咲かせにいくよ、内なる花を」とか「探しにいくよ、内なる花を」とかで、少しその歌詞に揺らめきが感じられました。特に、この『内なる花』が意味するところはアレではないかと、私は思い当たりました。その人にしかわからない『花』たるものを無理やりに公(おおやけ)にすることなく、内に秘めて温めてこそ、幸せに人生を全(まっと)うできるのかもしれない。などと、そんなふうに考えて、独自の想像力を膨(ふく)らませていました。そして、そのようなことをすることは、楽しいことだと思いました。だから、それは、ああでもない、こうでもない、と苦心の挙句にやっと作品の完成にたどりつくみたいな、そんな創作力よりも、ずっと合理的な活動に私には思えました。果たして、皆様は、いかがなものでしょうか。

理解度は試されていた

 これは、私が今年の1月1日に経験した2つの出来事を切り取って書いてみたものです。その時、私は長野県の某アパートの一室で一人でテレビを観ていました。誰かが目撃者や証人として居たわけでもありません。つまり、まったくの私事(わたくしごと)なので、これから私が述べることをきっと信じていただけないのかもしれません。しかし、なるべく事実を逸脱しない範囲で、その時に私が経験したことと考えたことを正直に述べておきたいと思います。
 今年の1月1日の午後4時2分ごろ、私はテレビでバラエティ番組を観ていました。すると、その画面に緊急地震速報のテロップが出て警報音が鳴りました。さらに、私の携帯電話にも緊急地震速報のアラームが鳴って、その2、3秒後に地震の揺れを感じました。(携帯電話の緊急地震速報は、昨年の5月5日以来のことでした。)その時、私はとっさにテレビのスイッチを切りました。そして、地震の揺れをその場で座って、注意していました。縦方向の揺れは、一瞬ちょっとだけでしたが、その次の横方向の揺れが2分間近く続きました。最初は、一方向とその反対方向へ大小複数回の揺れがありましたが、そのうちに各方向にぐるっと一回転する揺れがおきました。そしてまた、どちらかの方向へ横揺れしたかと思うと、突然その横揺れが治まりました。
 それから少しして、テレビのスイッチを付けたらば、能登半島震度7地震があったことを知りました。また、各地の震度がテロップに出ていました。けれども、私の居た地域は震度1と表示されていたので、驚きました。あれだけの横揺れであったならば、実家のある東京だと震度4か5だな、と思いました。
 また、同日の午後11時すぎのことです。テレビでドラマを観ていたらば、急に画面が変わって、再び能登半島震度7地震があったと報じていました。その時の、各地の震度の範囲が、地図の映像で表わされていました。けれども、私の居た地点が震度4の範囲に含まれていたので、これまた驚きました。なぜならば、わたしが、そのドラマを観ていた夜の11時前後は、地震の揺れを全然感じていなかったからです。至って静かな夜でした。女性容疑者の犯行動機がわからないうちに、そのドラマが中断してそのまま終わってしまったので、少しモヤモヤしていました。けれども、その夜に能登半島震度7があった時に、こちらに地震がなかったことのほうが、もっと不思議でモヤモヤしました。
 そこで、私は、仮説を立てて、想像してみました。私が居た場所については、余り詳しいことは言えませんが、周囲を山に囲まれた、盆地の中の高台みたいな場所です。したがって、津波の心配はまったくありませんが、過去に水害があって、水路があちこちに整備されている地域です。普段は水の少ない流れの小川にしか見えない水路が、大雨が降るとあちこちから水流が集まってきて、支流が濁流になっているような地域です。中山間地みたいな地域でもあるので、交通の便が悪くて、最寄のスーパーやホームセンターまで徒歩で片道1時間から2時間もかかる場所です。
 長野県だから、周囲を山に囲まれているのは当たり前です。しかし、よく考えてみてください。山って、もともと地面が隆起してできたものですし、断層がなかったら山にはなっていません。つまり、私は、断層(注・活断層とはかぎらない。)に囲まれて、暮らしているのと同じなのです。ここで、『断層』と聞くと、ある種の恐怖をおぼえる人がいるかもしれません。けれども、そうとも言えないような気がします。これは私の憶測かもしれませんが、断層のない地盤の柔らかい広域の地層ほど、地震の揺れで液状化や流動化がしやすいのかもしれません。地盤が堅いゆえに、断層はあっても(注・地すべりには注意が必要。)、多少買い物には不便でも、台地や高台のほうがより安全なのかもしれません。
 今回の地震について言えば、午後4時2分の地震は、能登半島震度7地震が、長野県の方向に揺れが伝わって、長野県に対して緊急地震速報が出ました。能登半島と私の居た地点との間にはいくつも断層があって、震源地の深さが浅かったこともあって、縦揺れ(P波)はほとんど伝わりませんでした。しかし、横揺れ(Q波)は、震源地の深さが浅かったゆえに、大きな揺れが水平方向に、断層から断層へとリレーして伝わりました。いろんな方向へ横揺れしたのは、あちこちにある断層がそのようなことで共鳴現象を起こしたためと、私には考えられました。また、午後11時すぎの能登半島震度7地震は、新潟県の方向に主に揺れが伝わったため、私の居た地点には、その間の複数の断層が邪魔をして(つまり揺れを吸収して)、大きな地震の揺れが伝わってこなかった。と、そう私には考えられました。
 そう言えば、東日本大震災の時のことを思い出しますと、私の居た地点では、その当日の夜中に、がたんと一回地盤が少し沈んで2、3秒くらい横揺れしました(震度2か3くらい)。それ以降は、体に感じるほどの揺れは一度もありませんでした。ところが一方、私の実家のある東京からの情報では、その3月11日以降も、東北地方と関東地方ではしばしば余震があったとのことでした。つまり、私の居た地点と東北地方・関東地方との間では、何らかの断層が邪魔をして、東日本大震災の余震が伝わりにくかった。と、そう私には考えられました。
 すなわち、「『断層』を悪者扱いするのが正しいことなのか、疑わしい。」というのが私の意見です。もちろん、専門家さんがおっしゃるとおり『活断層』には気をつけなくはいけません。また、それぞれの地域の地層や地盤の固さに配慮することも必要です。しかし、「断層があるから、日本中どこにいても危険だ。」と考えることは、過剰防衛意識なのではないかと思います。「断層があるから、山があるから、私たちの生活が守られてきていた。」という過去の事例も、本当は少なくなかったはずです。
 言うまでもなく、私たちの生活は、しばしば様々な自然現象に打ち負かされてきました。が、それでも、そういう自然現象とうまくやっていく術も、太古の昔から少しずつ会得してきていたはずです。日々の生活に各人が忙しい私たちに、それを理解できるだけの余力があるのかどうかは不明です。しかし、それでも、そうした自然現象の脅威に毎日をただ不安に思うのではなく、もっと良い方向に考えを進めていくことは必要なことです。そういったことへの理解度が試されていることって、私たちが気づいていないだけで、本当はしばしばあることなのかもしれません。

何と、南斗六星を見た!

 夏場から秋にかけて、今年も忙しい日々が続きました。そのために、どうしてもブログ記事として書くことができなかった事柄がありました。ここのところ、やっと、それを書ける余裕ができましたので、書いてみることにしました。

 先ほど述べたように、私の仕事は、今年も夏場が忙しくて、毎晩、夜中まで作業をしていました。これまで、本当に夜空を見上げるヒマも無かったのですが、今年はあえて作業の合間に、夏の晴れた夜空の星座を探索してみました。まずは、誰でもやることですが、北の夜空の北極星を探すために、北斗七星のひしゃく形の並びと、カシオペア座のダブリュー形の並びを見つけました。それから、頭上の夜空に、はくちょう座とこと座とわし座のそれぞれの一等星が形作る『夏の大三角形』を確認しました。さらに、ちょうど南の夜空に赤い一等星を中心に、ほぼ逆S字型に星らが並んでいるさそり座を見つけました。実を言うと、そうしたことは、今までも何度かやってきたことではありました。
 さらに、今年は、夏の南の夜空をよく見てみることにしました。さそり座のすぐ上に、将棋の駒の形の、ほぼ五角形の星の並びは、へびつかい座です。そういえば、このへびつかい座は、かつてのテレビドラマ『白線流し』の最初のほうの放送回で登場していて、その劇中で、重要な役割を果たしていた星座でした。
 それから、さらに今年は、さそり座のすぐ左隣にあるはずの射手(いて)座を見ることにしました。そこには、小さなひしゃくかスプーンのような星の並びの『南斗六星』があります。北斗七星と大きさを比べると、かなりコンパクトですが、確かに形は似ています。半人半馬の射手座のほぼ後ろ足から上にたどっていくと、それは容易に見つかりました。8月の半ば頃の夜9時頃に、私はそれを初めて見つけました。また、10月の夜7時頃にも、南西の空低く傾いていてはいましたが、同じくそれを見つけました。その頃には、さそり座はほとんど見えなくなっていましたが、その『南斗六星』は簡単に見つかりました。
 これは余談ですが、これまでの私は、頭上のはくちょう座の星の並びにはよく気がついて、関心を持っていました。星座に関する本によると、南十字星に対抗して、北十字とも呼ばれているそうです。その見つけ易さから、はくちょう座は、多くの人が関心を持っている星座のひとつと言えましょう。ところが、今年の私は、わし座のひし形の星の並びに興味を持って、しばしばそれをながめていました。ひょっとすると、はくちょう座よりも、そのわし座のほうが、夜空に占める面積が広いのかもしれない、と思いました。ちょっとした発見です。そう思って、わし座を、今年の私はながめていました。

 さて、少し別の話題を付け加えておきましょう。『南斗六星』といえば、漫画『北斗の拳』の南斗聖拳を思い出す人も少なくないかもしれません。(少なくとも、私はそう思っていました。)実は、私も『北斗の拳』の読者の一人として、コミックス単行本を第1巻から第9巻あたりまで買って読んでいました。その第1巻と第2巻では、北斗神拳ケンシロウ南斗聖拳のシンと対決します。そして、致命傷を負ったシンから「おれの命はあとどれくらいだ」ときかれて「1分だ!!」とケンシロウが答えるシーンがあります。ところで、当時、某アニメ雑誌(『アニメージュ』)の投稿欄に、そのパロディで「6本だ!!」という絵入りの一般読者投稿がありました。ケンシロウの、人差し指を立てた、血のりの付いた手が、一瞬、指6本に見える、という投稿でした。その真偽はさておき、私はそのギリギリの本編の絵柄を見て、『北斗の拳』第1巻と第2巻を買おうと決めました。
 実は、作者の側もまた、このことを気にしておられたのかもしれません。ケンシロウの指がちゃんと5本であることをはっきりと描いているシーンや、両手3本づつの指、すなわち、6本の指で敵の攻撃を受け止める技が描かれるシーンなどが、後に登場してくることを考えますと、作者の側も、そうした投稿に無神経でいられなかったのかもしれません。一方、読者の側としては、そのような絵柄をエキサイティングに感じさせる本編に魅力を感じていました。『北斗の拳』という漫画の人気の秘密は、実は、そんなところにあったのかもしれません。

 あともう一つ、この『北斗の拳』という漫画における最大のナゾ(と私が勝手に思い込んでいること)について述べておきましょう。なぜ『南斗六聖拳の最後の将』が、ケンシロウのかつての恋人で婚約者のユリアだったのかということです。本編によると、ユリアが幼い頃からそのように決められていたのだ、ということになっています。そのように、劇中で決められているのだから、それ以上その理由を考えても仕方がない、というのが正解なのかもしれません。しかし、大人の私は、ある意味で馬鹿なのか、それでは納得がいきませんでした。一体、ユリアは南斗聖拳という暗殺拳のどんな使い手だったのだろう、と考えてしまったのです。
 そこで、私は、暗殺拳をきわめた究極の姿の一つを想像するに至りました。ときに、劇中のユリアは、容姿が美しく、しかも、その精神は慈母のごとく優しい人として描かれております。それゆえ、劇中では、多くの男性たちに慕われていました。婚約者のケンシロウのみならず、ラオウも、トキも、シンも、ジュウザも、その他多くの男たちの心を恒(つね)に奪っている存在でした。そこには、『男殺し』の概念を超えた、しかも、『暗殺拳』の概念をも超えた、究極の姿があると考えられました。だから、『南斗六聖拳の最後の将』としてふさわしかったのです。このような一例からもわかるように、この『北斗の拳』という漫画は、懐(ふところ)が深い内容を感じさせる究極の漫画だったと言えましょう。

チェスゲームの考察

 今日の午前中に、NHK総合テレビのワールドニュースを観ていたら、戦争・軍事のトピックスばかりでしたが、特集でアメリカのニューヨークで行われているチェスパーティが紹介されていました。アメリカでは、コロナ禍の期間中に、ネット上での対戦チェスをする人が増えたのだそうです。その余波を受けて、コロナ明けの今日では、チェスゲームを楽しむ人々が増えているとのことでした。
 そう言えば、私は、中古のVAIOブックパソコンに付録で付いてきたフリーセルソリティアなどのカードゲームを、そのコンピュータを相手によくプレイします。余談ですが、トランプ(trump)というのは英語では『切り札』という意味です。だから、アメリカのトランプ前大統領は、『切り札』前大統領という実は凄(すご)い意味の名前になります。なお、私の持っている英和辞典によると次のとおりです。日本語のトランプを意味する英語は”cards”です。”play cards”で「トランプをする」。”be at cards”で「トランプ遊びをしている」。”His favorite pastime is cards.”で「彼の気晴らしはトランプだ。」という意味です。これらの”cards”はいずれも、52枚ほどのカードでひとまとまりなので、単数扱いとなります。
 話しを戻すと、最近になって、それにチェスゲームが加わりました。チェスゲーム自体は、もともとコンピュータに入っていたのですが、どうやって考えプレイしたら勝てるのか、よくわからなかったので、これまで滅多に手をつけませんでした。
 もっとも、チェスゲーム自体には、若い頃から興味がありました。チェスボードと駒を買って、(日本語で書かれた)入門書を読んでみました。また、マイコン内蔵のコンピュータチェス盤を買って対戦してみたり、UNIXワークステーションでGNUチェスプログラムを見つけてきて、MS-DOSパソコンに移植して、コンピュータと戦ってみたりしました。そしてまた、東京神田の洋書本屋さんへ行って、チェスの専門書を英語の原書で買ってきて、所々を読んでみたこともありました。それが、20代から30代にかけての、私の努力の全てでした。がしかし、肝心なことがわかっていなかったようです。したがって、どうやってゲームに勝てるのかが、どうしてもわかりませんでした。
 ちなみに私の半生を振り返ると、同じようなことは、他にもありました。高校時代の体育の時間に、サッカーをやっていた時のことです。私が子供の頃に住んでいた地域では、サッカーよりも野球が盛んで人気がありました。だから、私とその同級生は、野球ではどうやってプレイしたならば勝ちにつながるかがわかっていました。しかし一方、サッカーとなると、どうやってプレイしたならば勝てるのかがよくわかりませんでした。だから、体育の授業でせっかくサッカーをやっても、ボールを敵側に蹴り合うことに終始してしまいました。結局、ボールが双方のゴールネットを揺らすこともなく、授業時間が終わってしまいました。私とその同級生は、何でサッカーが面白いスポーツなのかを理解できずに終わってしまった人が多かったようです。
 私の、チェスゲームに対する興味もそれと同じようなものでした。多少の興味はあっても、どうやってプレイしたらいいのかわからなくて、結局途中で投げ出してしまう。勝つためのゴールに向かって、考えあぐねてしまう。もったいない話ではありますが、誰にでもそういう経験をすることはよくあることなのかもしれません。
 この年末年始に、たまたま私は、VAIOブックパソコンでチェスゲームを立ち上げてしまいました。フリーセルソリティアをやろうとして、誤って立ち上げてしまったのです。それで仕方なく、コンピュータとチェスの対戦をするはめとなりました。以前にも、フリーセルソリティアの代わりに、時たま対戦したことはありましたが、勝ち方のわからない私の負けが続いていました。ところが、今回初めてコンピュータと対戦して勝つことができました。おそらく、まぐれでしたが、勝ったことが余程うれしかったのでしょう。その後は連勝続きとなりました。
 これまでの私がなぜ勝てるようになったのかを、考えてみることにしました。コンピュータ側の強さをレベル2のままで続けていました。そこで、レベル10まである強さを1つ上げて、レベル3にしてやってみたところ、またまた連勝続きとなりました。そこで、さらに考えてみることにしました。すると、いくつかの戦うコツを心得ていることに気がつきました。まず、日本の将棋と比べると、西洋のチェスは、1ゲームの所要時間と手数が短いので、先が見えない手が少ないということです。
 将棋の序盤にあたるオープニングゲーム(opening game)では、将棋と同じように定跡があります。そのいくつかを知っていると、序盤で不利になることはほとんどありません。各駒の配置、すなわち、フォーメーション(formation)を部分的に知っているだけでも、全然違います。次に、中盤で心得ることは、駒の損得です。日本の将棋のように、取った敵の駒を捕虜にして、寝返らせて使うことはできません。しかし、相手と駒の取り合いになる時に、少しでも位の高い敵の駒を取ることができれば、味方の戦力の合計が相手のそれを上回って、有利が確定します。日本の将棋よりも、その影響がはっきりと表れて、わかりやすいと言えます。そして、終盤になると、盤上の駒数が減って、生き残った駒の効き筋が多くなって、その威力が倍増します。そのことを利用して、王手にあたるチェック(check)、あるいは、詰みにあたるチェックメイト(checkmate)に持っていくことがコツです。
 今回私は、コンピュータチェスのかなり弱いレベルで、それらのコツに気がついて、勝つことができました。日本の将棋と比べると、ゲームとパズルの要素がコンパクトにまとまっている感じがします。ある意味では、日本の将棋と比べて、習得しやすいかもしれません。たとえば、体力に限界を感じている人であっても、いくつかのコツさえつかめば、低いレベルのコンピュータチェスに勝てるかもしれません。あと、もう一つだけ、重要なコツを伝えておきましょう。日本の将棋と西洋のチェスとは、似て非なるものだと思います。だから、将棋のことは、チェスの競技中は、すっかり忘れておくといいかもしれません。

『月着陸CG動画』に物申す

 最初に断っておきますが、私は物理学者でも宇宙開発の専門家や研究員でもありません。H大学文学部を卒業しているので文学士の称号は持っていますが、科学技術者ではありません。しかし、日本の月面着陸CG動画を見るたびに、いつも疑問に思うことがあります。テレビなどで時たま目にするたびに、その月面着陸のCGイメージ動画が、どうにも変に思えて仕方がないのです。
 ちなみに、私は、アポロ11号の乗組員が月面に立ったことを、子供の頃にリアルタイムで知っています。また、その前に、レインジャー計画やサーベイヤー計画無人機が月着陸のための探査を行っていたのも知っていました。そんな子供の頃の私は、アポロ計画の月着陸船イ-グル号を描くのは苦手でしたが、無人探査機サーベイヤー1号を描くのは得意でした。
 では、日本の月面着陸CG動画のどこが変なのかと申しますと、月面上空で、まるでUFOが宇宙空間からそのまま飛来したかのごとく、無重力でゆっくり移動しているさまが変なのです。
 月にだって重力はあります。地球の1/6だと言われています。しかし、それを強調しすぎていると思います。想像してみてください。地球上で、あなたは50m先に野球のボールを投げられるとしましょう。地球上の重さの1/6になったボールを、あなたが月面上で投げるとして、果たして300m先に投げることができるでしょうか。おそらく、地球上で投げたのと同じような放物線を描いて、その手前で落下するはずです。つまり、地球の衛星である月には、イトカワリュウグウなどの小惑星とは比べ物にならないほどの質量があるので、その重力を甘く見ることはできないと思います。
 それじゃあ、アポロ計画で月に降り立った乗組員が、月面上で飛び跳ねていたのは何だったのか?と年配の方々は言うかもしれません。確かに私も、月面上で彼らが飛び跳ねていた映像を何度も見ました。でも、それは彼らが本当に飛び跳ねていたにすぎません。普通に歩いて、あのように月面から浮き上がるのは無理です。重い宇宙服を着ていても、月面上での移動は容易(たやす)いと見せつけていたに過ぎません。
 それに、私は、月周回人工衛星『かぐや』から送信されてきた映像を、いまだにCGではないかと疑っています。そのように、時々疑念を抱いていないと、見た目をうのみに信じて、大切なことを見逃してしまうような気がするからです。実際のところは、そんなにフェイクではないのでしょう。けれども、あのように月面上空をゆっくり移動する様子を映像で見せつけられると、月面上で低空低速で移動できることが当たり前に思えてしまうものです。しかし、月面上は真空で、空気抵抗を利用したいかなる揚力も利用できません。したがって、見た目よりも実際には、高度は高く、速度も速かったはずです。そうでなければ、人工衛星『かぐや』は月を周回するどころか、その周回軌道に入れずに、月面上に落ちてしまったはずです。
 繰り返し申し上げますが、月面上および月面上空には大気がありません。宇宙空間と同じように真空ですが、月の重力はあります。地球上のような空気抵抗がありませんから、その重力による加速度の影響をもろに受けます。しかも、地球上と同じふうには空気抵抗が使えませんから、気球の浮力も、パラシュ-トの減速力も、飛行機の翼やヘリコプターのローターなどの揚力も得ることができません。ロケットエンジンの逆噴射による加速度に頼るしか、月の重力加速度に抗(あらが)う力はない、と思っていいと思います。
 そこまで屁理屈(へりくつ)を言うのならば、証拠を示せとおっしゃるかもしれません。そんな皆様のために、私は月面の軟着陸を簡単にモデル化したゲームを用意してあります。2013年2月27日付けの『レトロな軟着陸ゲーム』または2019年12月2日付けの『Jスクリプトの使い勝手を学ぶ』などの、私のブログ記事で公開していた、そのゲームを以下の例のごとく操作してみると、一つの答えにたどりつきました。(なお、このゲームでは、消費燃料の値を入力変更して、『押す』ボタンをクリックすることによって、その回数分、一定時間の降下や上昇の移動をするものとしています。)

高度500、速度-50、燃料120の初期条件から、
降下開始!
 消費燃料0で6回降下 → 高度は113 速度は-80
降下中
 消費燃料35で2回降下 → 高度は13 速度は-20
 消費燃料30で1回降下 → 高度は6 速度は5  ※
 消費燃料0で2回降下 → 高度は7 速度は-5  ※※
 消費燃料5で1回降下 → 高度は2 速度は-5
 消費燃料9で1回降下 → 高度は-1 速度は-1 (残留燃料6)※※※
着陸成功!!


 降下開始時は、燃料節約のために、エンジンを止めて(消費燃料0)、自由落下をさせます。
 最初から燃料を使うと、着陸寸前に必要とされる燃料が足りなくなります。また、着地までの時間が長くなっても、滞空時間が長くなって、燃料が足らなくなります。だから、ある程度の高度に下がったところで、逆噴射をして燃料を消費します。
 消費燃料35→35→30で降下して、逆噴射の結果が速度5で初めてプラス(上昇)に変わります。(※)
 さらに、その結果、高度も少し上昇するため、速度5が速度-5になるまで再びエンジンを止めます。(消費燃料0)(※※)
 消費燃料5で降下速度-5を維持した後、消費燃料を適度に使って減速して着地を目指します。(※※※)

なお、この※※※において、
 消費燃料10で1回降下 → 高度は0 速度は0 (残留燃料5)
または、
 消費燃料11で1回降下 → 高度は0 速度は1 (残留燃料4)
も着陸成功!!です。

ただし、
 消費燃料12で1回降下の場合は、 高度は1 速度は0 (残留燃料3)ですが、
残りの燃料を使っても、ハードランディング(速度-5)となって失敗します。


 「こんなお遊びをして何の証拠になるのだ。」と、のたまう方々もいらっしゃることでしょう。しかるに、このゲームで表現された簡単なモデルによると、着陸船の高度によって燃料の消費量が違うことがわかります。そしてまた、月の重力による加速度に対して、どこでどれだけ逆噴射の燃料を使ったら効果的なのかを、このようなモデルを通してチェックすることも重要です。ただ均一に燃料を消費するだけでは、重力加速度を減じて衝撃のより少ない着地(注・軟着陸あるいはソフトランディングとも言う。)をするのは不可能です。さらに、次のような事態も想定されます。重力加速度に抗(あらが)うために、とてつもない量の燃料を消費してしまいます。よって、燃料切れで月面に激突してしまうことだって十分にありえます。
 私が子供の頃に見た漫画の中で、月面などへ着陸できる宇宙船が描かれていました。それを描いた漫画家が誰であったかは記憶にありません。しかし、その宇宙船には、着陸時の衝撃を緩和させるためにしっかりと広げられた三脚の足が付いていました。そして、降下上昇中の燃料が足りなくならないように、ロケットの胴体の周りを取り囲むようにいくつもの増設用燃料タンクが付いていました。そのような宇宙船の形態を今になって考えてみると、意外と合理的で科学的に描かれていたことに気づかされます。
 そして、先にも述べましたように、私はいまだに『かぐや』から送信されてきた映像が、CGではないかと疑っています。そのような私の申すことですから、このような、月着陸CG動画についての疑念は、きっと皆様に信じてもらえないかもしれません。でも、そんな私としては、大谷翔平選手の口調を真似て「月着陸に本当に成功するまでは、憧れを捨てましょう。」などと申してみたいところなのです。その実(じつ)を申せば、憧れに頼って夢がかなうほど現実は甘くないのかもしれません。