PТAに対する野次馬的見解

 最近、学園を舞台としたテレビドラマを観ていて、少し私の心にひっかかるものがありました。その中でも特に、バカリズムさんの脚本でPТAを風刺したドラマ作品を観て、現在の親御さんの気持ちってそんな感じなのかなあ、と思うところがありました。すなわち、児童の保護者は、なるべくPТAの仕事は受け持ちたくないと思っている人が多いということです。
 私は、人の子の親になったことがありません。しかも、教職に就いたこともありません。だから、親御さんの気持ちも、学校の先生の気持ちも、本当のところ実感してはいません。確かに私は、H大学時代、教職課程の授業に全部出席して、教育実習にも行きました。けれども、教員採用試験を一度も受けることなく、サラリーマンになる道を自ら選びました。そのような私の生い立ちからして、それに対する見解は、PТAを外野から批判し評価する、いわゆる野次馬的なものにしかならないのかもしれません。それでも、何かの参考にはなることでしょう。だから、ちょっとだけ目を通していただいても、損はないかもしれません。
 私が小学校の児童だった頃のPТAはどんな感じだったのかと申しますと、兎に角、すごいというイメージがありました。PТAの会長さんが、学校の近所で小さな病院の医院長をなさっていました。また、二人の小学生の息子さんを持つ、教育熱心なお父さんでした。学校の競泳大会があると、PTA会長の名にかけて、二人の息子さんが必ず一番をとらないといけないような、すごい熱の入れようでした。一緒に泳ぐ相手に、PТA会長の息子さんがいると聞いただけで、ビビる子が少なくありませんでした。このような学校行事があると、権威あるPTA会長さんの機嫌をうかがって、皆が忖度せずにはおれない雰囲気が周囲に満ちておりました。
 そしてまた、当時は、PTAの全国組織というものが、某消費者団体なみに幅をきかせていました。後にアニメ『デビルマン』の漫画原作者で有名になられた永井豪さんの、少年雑誌や単行本での連載漫画『ハレンチ学園』が、そのPTA組織によって全国的な有害図書扱いにされました。あるいは、土曜の夜にテレビでやっていた『キイハンター』という番組の女性ヒロインが、悪を倒す格闘中にパンチラを見せるので、教育上、子供に好ましくないからテレビを観せちゃいけない、などという情報発信も、当時のPTAからはなされていました。
 このように、中学高校で生徒が自主的に行っている風紀的な役割を、小学校のPTAは担(にな)っておりました。加えて、盛り場のゲームセンターで児童が年長の不良にからまれて誘い込まれる事例もあり、保護者や先生が定期的に見回りをするということもありました。実際に私が知っているPTAは、以上のような感じでした。
 最近、私には、もう一つ気になることがあります。生徒や児童に関わる問題が、テレビのニュース情報番組で取り上げられると、決まって専門家さんの口をつく言葉が気になるのです。「子供は、地域(の責任)で育てるべきだ。」という常套手段と呼ぶべく文言です。子供のことで何か社会的事件が起きるたびに、そのような主張が聞かれます。しかし、残念なことに、その後の経緯(けいい)をたどってみると、その時その時の掛け声にしかならないことも多いようです。
 野次馬的な私から申せば、Parent(親)とTeacher(教師)のAssociation(会)、すなわち、PTAが地域に根ざして機能していることが、「子供は地域(の人々の協力)で育てるべきだ。」という理念の第一歩なのだと思います。親や先生のしつけの行き過ぎ、その体罰の問題、子供同士のいじめの問題、モンスターペアレントの問題、半グレや不良化から子供たちを守る大人の責任問題、子供の自殺や自傷行為の問題等々、PTAが関わるべき課題は少なくありません。それらの課題あるいは問題は、いずれも学校の先生や教育委員会にすべての責任を負わせて解決できるものではないと思うのです。
 人の子の親は、どうしても学校の先生や教育委員会に、その責任のすべてを負わせてはばかりません。どうしても、学校の先生や教育委員会の持つであろう『社会的な権威』にすがりがちです。落ち着いて考えてみればわかりますが、そんな権威など、何処にも存在してはいません。それは、親御さん自身が子供の頃に植え付けられていたある種の幻想にすぎないと思います。
 現に、学校の先生にしても、教育委員会にしても、地方公務員の処遇であることを、私たち市民は忘れてはいけません。野次馬的に申すならば、地方公務員が子供たちの規範にならなければならないという、筋や道理など何処にもないのです。誰も異存はないと思いますが、例えば、警察官は、市民社会の治安を守ることが地方公務員としての職務です。それと同様に、教師(学校の先生)は、国の教育カリキュラムで定められた知識や技能を子供たちに教えることが地方公務員としての職務です。それ以外の問題や責任を、学校の先生に押しつけることは、本来はできないはずなのです。『学校の先生』という、庶民が勝手に造り上げた虚像(例えば、一生好きな勉強を職業としてやっていけるなんて幸せなことだ、みたいな庶民の思い込み)が、教師という地方公務員の職務遂行を妨害していることは明らかなのです。
 したがって、「子供たちは地域で育てるべきだ。」「子供たちの面倒は地域でみるべきだ。」という考え方は、これからの日本社会のあり方として、見逃せない重要ポイントだと思います。学校の先生が偉いのではなくて、周りの様々な大人が偉いのだと、子供たちに体感して納得してもらえることが大切なのです。そのような地域社会を作っていくために、PTAは重要な役割を実は担っているはずなのです。その意思決定機関のあり方として、現存のPTAは、PTPA(Parent & Teacher & Policeman Association)やPTCA(Parent & Teacher & Counselor Association)などの協議会組織に発展するかもしれません。将来、地方自治体の管轄下で、警察や児童相談所の職員とも連携したそれらの組織が、子供たちの命や人権を守るために機能してくれるといいと思います。野次馬的に考えてみても、地域に根ざした活動を、それらの組織が担ってくれることを将来的に期待してやみません。
(蛇足として、以下の事柄を付け加えておきます。最近まで『ブラックポストマン』というテレビ東京制作のドラマを、地元テレビ局の夜中の放送で観ていました。子供たちの命や人権を守るべきはずの、地方自治体の長、警察の長、医師などの大人たちが、まるで逆のことをして、地域の市民や子供たちを苦しめるというストーリーでした。そこで立ち上がったのが、何の権力も持たない郵便配達員でした。その帽子と制服に『P』のマークが付いていて、警官(Policeman)の代わりに、そのポストマン(Postman)が、その地域社会の悪や不条理に立ち向かって、逆に犯罪者として嫌疑をかけられる、という面白いドラマでした。)