品格の街に想う

 かつて渋谷は若者の街ではなかった。そこで、若者に多く来てもらって、商売繁盛につなげたかった。私は、商売繁盛が悪いとは言っていません。しかし、毎年ハロウィ―ンの時期に若者たちが集まる渋谷の街をテレビのニュースなどで観て、なぜか複雑な気持ちになりました。二十歳(はたち)前の私が知っている、少なくとも半世紀前の渋谷の街は、現在のこんなふうではなかった。もっと品のある、つまり、上品な雰囲気の漂う街でした。
 テレビのニュースを観ていると、今回の渋谷のハロウィ―ン規制は「渋谷区長さんの判断だから仕方がない。」みたいなことを言ってシラけている若者もいたようです。けれども、それは、本当は違います。そこに住んでいる人たちの自治というものを、これを機会に学んで欲しいと思います。また、若者は、本当は「かごの中の小鳥」であって、早く大人になって欲しい。かつ、学校でなかなか学ぶことのできない日本の近代史が、現代とどのようにつながっているのかを勉強して欲しい。等々、要望が多くて申しわけありませんが、それらの課題を一つ一つクリアにしていけば、大人たちの想いも理解できるようになるし、現在の日本しか知らない外国の人たちにも本当の日本を知ってもらえる情報を発信できるようになると思います。
 私は、子供の頃、父親の車に乗せられて、渋谷東急デパ-トの五島プラネタリウムに連れて行かれました。その時は、ミニスカ-トみたいに丈の短い半ズボンをはかされて、こざっぱりとして、ぴちっとした上着を着せられて出かけました。普段は、チンピラがかける円いサングラスと溶接工の作業着姿の、私の父も、その日ばかりは頭のてっぺんから足の先まで正装でした。下町の、さらに下町から来たガラの悪さを、渋谷に常連でおこしになる山の手の上品な方たちに見られたくなくて、私の父は、きちっとした服装をしていたのだと思います。
 それくらい、東京の下町と山の手の間には、様々な点で格差がありました。生活面では、下町の庶民性に対する、山の手の気品の高さは、誰の目にも明らかでした。教育面でも、まず教科書が違う。つまり、学力にも大きな差がありました。下町の学校で学んだ人よりも、山の手の学校で学んだ人のほうが学力が高くて、東大合格者の数が圧倒的に多い。その他の受験難関大学の合格者数を比べても、山の手の学校出身者のほうが圧倒的に多い。レベルの高い大学に合格して、レベルの高い会社や職業に就くのは、山の手で生まれ育った人たちに多いことを、私は若い頃から思い知らされてきました。つまり、この教育格差は、どうしても縮めることはできない。東京の下町で生まれ育って生活をしてきた私にとっては、それは山の手コンプレックスになっていました。
 そもそも、山の手の人々の品格あるいは上品さはどこから来たのか、ということを日本の近代史をたどって学んでみましょう。幕末の薩長を中心とする官軍が、江戸城を開城した頃から、その歴史は始まります。その時、江戸(後の東京府)へやって来た長州藩薩摩藩ゆかりの武士(士族)や商人たちの多くが、現在の世田谷(せたがや)区あたりの地に居を構えて、そのご子息がそれを継いで、世田谷の住宅地の始まりとなったと言われています。後に日本語の標準語となった「です」「ます」という語尾(接尾辞)は、もともとは彼らの話し言葉であり、現在でもその影響の大きさを残しています。これまでの江戸の下町の文化に対抗して、明治時代に入って彼らも山の手の文化を作りました。それが、渋谷の街をはじめとする品格のある文化となったわけです。
 確かに、小説家太宰治さんの『斜陽』で描かれているように、没落する華族(元は士族)もいらっしゃったとは思いますが、それがすべてではありません。明治・大正・昭和と時代が移っても、その生活面や教育面でのレベルの高さを維持できた人々も少なくなかったと、私は想像しています。彼らが、この日本で高い生活レベルや品格を持って、社会で活躍してきたからこそ、日本は世界に肩を並べる国家として認められている、と申しても過言ではありません。
 だから、近年の若者が集まる渋谷の街をみると、ちょっとがっかりします。大人たちは、若者たちの生きるパワ―やエネルギ―にばかり期待して、街の再生を期待します。しかし、若者が、反抗期という爆弾をかかえて成長している、いわゆる『馬鹿者』という側面を持っていることをてんで無視しています。だから、大人にとっては期待はずれのことをしてしまうのです。他人事ながら、とても残念に想います。