『下手の横好き』がもたらしたもの

 まずは、国語辞典を使った言葉の定義から始めましょう。私の手元にある国語辞典によれば『下手(ヘタ)』とは、「技術などのうまくないこと、また、その人。」とあります。また、その反対語は、『上手(じょうず)』とありました。さらに、『下手の横好(よこず)き』という言い回しがあって、「へたのくせに、そのことをひどくこのむこと。」とありました。ちなみに、『上手(じょうず)』は、「たくみなこと・人。」という意味があります。さらに、『横好き』とは、「専門ではないことをむやみに好むこと。」と、私の手元にある国語辞典にはありました。
 このように、私の辞書の引き方には、クセがあります。『下手の横好き』という一つの言い回しの意味を知るために、その言葉に関連する項目をいくつも調べて、その意味内容と語感をおおまかにつかんでみるわけです。
 その上で、私の『下手の横好き』の話を致しましょう。最近私は、40代を過ぎた頃に東京の神保町の書店で買った、大村平(おおむらひとし)さんの『行列とベクトルのはなし ●線形代数の基礎』(日科技連出版社)という本を読むことに再挑戦していました。行列とベクトルに関しては、私が高校二年の数学IIB(「すうがくにびー」と読みます。)で学びました。ところが、1年間それを教えてくださった非常勤講師の先生がかなりクセのある先生だったので、私はちゃんと授業内容を習得できませんでした。その顔や姿が、俳優の伊藤淳史さんにそっくりで、毎回黒板に5、6枚分になる多量の数式を書き連ねて授業を進める、かなりマニアックなタイプの数学の先生でした。そして、「イコース(イコールの別の言い回し?)」とか「ギャクギョ〜レツ」と授業中に声を張りあげるのが特徴的な先生でした。私としては、どんどん黒板に書き進められる数式を、ノートに書き写すのが精一杯で、その授業内容についていくのも、それで精一杯でした。
 要するに、私は、10代の学生時代に、ベクトルや行列という数学の道具を学ぶ機会がありました。にもかかわらず、その道具がもともとどういうモノか、あるいは、どのようにして使いこなすものかということをほとんど理解できませんでした。そのために、H大学の文科系に入学して数学を教養科目の一つに選択して三角行列を学んだのですが、そもそもの基礎も、それからの応用も、どちらもできませんでした。行列もベクトルも、足し算と掛け算の計算ばかりで、面倒くさかったのですが、そうした計算が得意なコンピュータと何らかの関係があることは、どこからか聞いて私は知っていました。しかし、どこでどうコンピュータとつながっているのかを、私は何も知りませんでした。そうした事情が、40代を過ぎた私に、上述の『行列とベクトルのはなし』という本を買わせたのです。しかし、当時の私は、その本を開いても、本の内容に興味がわきませんでした。それを読み進めることができず、頓挫(とんざ)を繰り返していました。
 つまり、そんな私には、数学的な才能やセンスが少しもありませんでした。そのことに気がつかないで、年を重ねてきてしまいました。それはまるで、あの『やまとなでしこ』というフジテレビドラマの登場人物の欧介さんが、若くして数学の道をあきらめて実家の魚屋を継いだという話に少し似ていたかもしれません。そう言えば、私の母なんかも、算数や数学が得意だったのに、高等数学で解析Iや解析IIを学んで、その授業についていけなくなったそうです。そう、私は母から話で聞いたことがあります。
 にもかかわらず、私自身は、数学に対する興味を若い頃から持ち続けていました。それには、数学Iと数学IIIを高校時代に学んだ某先生(名前を忘れてしまいました。)の授業中にポロっと言われた「この問題の解き方や答えが、わからなくてもいいですよ。無理にできなくてもいいですよ。」というひと言ふた言があったからだと思います。その数学の教師らしからぬ教えが、私には忘れられませんでした。その先生は、「世の中には、高校で学ぶ数学よりも、ずっと解決が困難な問題が沢山ある。」と、しばしばその根拠を示されていました。ですから、私は大人になっても、数学のわからなさが数学を嫌いになる、ということにならなかったのだと思います。ちなみに、私の母にしても、当時の高等数学に挫折したと言っても、今でも物事に対する分析力があって、80歳を過ぎても頭がボケているようには見えません。
 私の、数学に対する『下手の横好き』が、今でも続いているのは、こうした事情によるものだと理解できたと思います。それで、50代なかばの私は、上述の『行列とベクトルのはなし』を読んでみたわけですが、今度は内容がよくわかりました。私たちが普段使っている普通の数値というのは、実は『1行x1列の行列』であると見ることができるということです。そして、ベクトルは、『1行xn列あるいはn行x1列の行列』(nは自然数)と見ることができるということです。つまり、複数個の数値をひとまとめに扱うということは、私たちの日常生活で頻繁にあることであり、その特殊な場合が、普通の単独の数値やベクトルの形をとっていると、見ることができるのだそうです。
 このように複数の数値を一まとめにして扱うということは、コンピュータのプログラミングにおけるデータ(つまり、情報)の扱い方にも通じています。もちろん、行列の複雑な計算が足し算と掛け算ばかりで、コンピュータの演算向きであることは先に述べた通りです。行列の基本的な考え方は、私たちが普段気づいていないだけで、本当は、いたるところでいろんな応用がなされているのが現状なのです。しかも、これまでは、そうしたことを逐一私たちが知らなくても困らない、そういった世の中が長く続いていたとみることができます。
 ところが、人工知能やロボットの進歩によって、私たち人間の仕事が奪われるとか、良からぬうわさが流れるような世の中になってくると、それを検証するための道具を私たちが持っていない、ということを痛感させられます。人工知能もロボットも、私たち大多数の人間にとっては、ある意味ブラックボックスの機械であり、修理や微調整などの制御(コントロール)が効きません。そういうものを人間の使う道具として認めていいものなのかどうかを、私たち一人一人は判断しなければなりません。
 確かに、『行列』というもの一つをとってみても、それを知らなくても世の中で私たち一人一人は生きて行けます。現に、『行列』は、高等数学では扱われなくなっていると、私は風の便りで聞いています。高校時代に『行列』なんて学んだって、ものにならないならば、時間のムダです。それなら、それを学ばない方が合理的です。それでもいいのかもしれません。高校で勉強したけれど『行列』の何たるかを理解できなかった私が言うのだから、そのことに間違いはありません。
 だから、私は、こうした『ムダな勉強』を他人には強制しません。私は、ただ『下手の横好き』として、私の個人的な意見を述べたいだけなのです。私は、ただ行列やベクトルの基本的な知識や、それに基づく演算と応用の仕方を学んでみたかっただけです。それに関連して、一次変換や逆行列行列式や連立1次方程式などを学びました。すると、今度はそれらが多変量解析や、そのうちの回帰分析を理解するために役立ちました。さらにそれは、人工知能による機械学習の一部である『深層学習』(ディープラーニングとよばれているもの。)の理解につながりました。詳しい内容はへし折りますが、人工知能機械学習を理解するためには、行列計算により回帰分析を行うか、微積分の考え方で逐次近似をおこなって、連立1次方程式を求めます。あるいは、非線形回帰分析を行って、ロジスティック曲線や放物線などの非線形回帰式を求めます。こうしてできた方程式を利用して、評価関数というものを作り、そこから得られるデータをコンピュータ(機械)に記憶させて、機械学習を実現している、と私は大雑把に理解しました。つまり、私の頭の中では、『下手の横好き』から始まって、それが『人工知能ディープラーニング』までつながってしまったということなのです。
 したがって、こんなふうに考えられます。私たち人間が、人工知能と同じやり方で行列計算をやったとしても、どこかで計算を間違えてしまうでしょう。たとえコンピュータ並みに正確に計算できたとしても、膨大な計算量のために時間がかかり過ぎて、時間切れになってしまい、使いものにならないでしょう。おそらく、そうなるだろうと確信できました。こうした予測から言えるのは、「機械が人間の代わりになれる。」ということではなくて、もともと「人間が機械の代わりになれない。」という真実なのです。
 こうして、私は「人工知能やロボットが人間の仕事を奪うのではない。」ということを証明しました。こうした証明は、「人工知能やロボットを熱望するクライアントやその研究者から、夢や希望を奪ってしまう。」ことになってしまうかもしれません。しかし、人工知能やロボットの進歩を私たち大多数の人間が恐れないこと、それらの研究開発が建設的に行われること等々のメリットを考えるならば、このような私の証明は、決してムダなものにはならないと思います。