コンピュータを理解するということ

 今から10年ほど前のこと、私は地元にある大きな本屋さんの蔦屋(ツタヤ)書店で、『あなたはコンピュータを理解していますか?』(梅津信幸著・サイエンスアイ新書)という本を見つけて買いました。この本の副題に「10年後、20年後まで必ず役立つ根っこの部分がきっちりわかる!」と銘打ってあったので、若い頃コンピュータ・プログラマだった私は興味を引かれてこの本を買いました。
 ところが、本を開いてびっくり、コンピュータの特定のプログラミング言語には、この本の中では全く触れていませんでした。若い頃にコンピュータ・プログラマだった私は、まず、それを残念に思いました。なぜならば、コンピュータの動作を理解するには、特定のコンピュータ・プログラミング言語に習熟していることが第一だと思っていたからです。今では実際、子供の頃からコンピュータのプログラミング言語を学ばせる傾向に世の中がなっています。そうしたプログラミングの経験もなしに、本当にコンピュータのことを理解できるのかどうかが疑問でした。
 その本の各章には、以下のような内容理解のためのキーワードが付けられていました。第1章はエントロピー、第2章はチャネル、第3章は有限オートマトン、第4章は参照の局所性・メモリ階層、というふうに情報科学情報理論をにおわす言葉が並んでいました。その一方では、各章のタイトルや内容には、みそ汁の塩分濃度とか、油田のパイプライン、伝言ゲーム、自動販売機、人生ゲーム、カースト制などの、一見コンピュータとは関係ないような言葉が使われていました。それらの言葉によってわかりやすく説明され表現されているものが、コンピュータの根本的な仕組みや理論でした。私は、その数学的あるいは理論的な内容に、かえって退屈になってしまい、飛び飛びに各章を読んでいました。この本の内容を理解する上では、プログラミング言語の習得など、ほとんど必要がなく、意味がなかったようです。残念なことに、私にとって、そのことがむしろ障害となって、この本の内容を理解しがたくしていました。
 あれから10年近く経ってみると、世の中の流れや、私の考え方も少しずつ変わってきました。巷では、人工知能が、人間の思考能力を超えて将来大変なことになると騒がれてきました。その過熱気味な風潮を、脇っちょから冷静に眺める余裕が私にはできていました。
 この年末年始に東京の実家に帰った私は、足立区の竹ノ塚駅から少し北の方向にあるお寺へ一人で墓参りに行きました。その帰りに、竹ノ塚駅前の本屋さんで、人工知能に関する書籍を探して2時間ほど立ち読みをしていました。将棋の記者さんの著作や、コンピュータ関連会社につとめていた人の著作や、対戦型AIゲームを作っていた人の著作や、数学の学者さんの著作などに目を通していました。人によっていろんな観点や意見があるものだな、と半(なか)ば感心して、比較的に新しい書籍を探しながら、店内で立ち読みしていました。私としては久々に、ブルーバックスの本を集めた棚を前にしました。ブルーバックスは、ご時世柄、コンピュータ関係の技術書・工学書が増えているように感じられました。
 ふと、その中で、私はある考えが気になって仕方がなくなりました。「コンピュータが考え学ぶということは、人間が考え学ぶということと、もしかして全く違うのかもしれない。」「人間は、コンピュータの仕組みをちゃんと理解できていなくて、むしろ勘違いしているのかもしれない。」そういった疑念が、私の中に浮かびました。それで、『人工知能はいかにして強くなるのか?』(副題は『対戦型AIで学ぶ基本のしくみ』。小野田博一著・ブルーバックス)という本を買いました。私は、それを現在少しずつ読んでいます。
 それとは別に、前述の『あなたはコンピュータを理解していますか?』という本を、私はまた最近部屋の奧から引っ張り出して読んでいます。そのまえがきを読み直していたら、多少、気になることが次のように書かれていました。
 「機械に何かを自動でやらせようとするとき、自然界の動物と同じにする必要はありません。草原のチーターは4本足で走りますが、自動車は回転する車輪でずっと速く走ります。鳥は羽ばたいて宙に浮かびますが、飛行機はプロペラやジェットで空気を後ろに噴出して、羽ばたかなくても浮き上がります。そして、鳥よりもずっと高く、速く、遠くまで飛んでいきます。無理に動物と同じにしなくたって、動物よりももっと合理的な方法が見つかったら、それを使えばいいのです。」(梅津信幸著『あなたはコンピュータを理解していますか?』からの引用)
 この文章を読んで、「いや、動物などの自然から人間が学ぶことだって多いよ。」と反論する人も多いと思います。あるいは、「この文章に書かれたことは『当たり前のこと』であり、全く議論の余地のない、ただの理屈さ。」と判断する人も少なくないと思います。もしくは、「動物と機械を比較することからして間違っている。」と指摘する人もいるかもしれません。「そもそも、動物などの自然物が、機械などの人工物と比較できるはずがない。」と多くの人は思うかもしれません。
 私は、そうした様々な反響や反応に、少々疑念があります。確かに、このまえがきの文章が言わんとしていることは、一つの考え方にすぎないのかもしれません。ただし、私たちにとって一番大切なことは、こうした考え方が出てくる背景にあると思われます。そのことを考えてみると、現代の私たち日本人は、肝腎なことに目をつぶって、耳をふさいでしまっている、と言えるかもしれません。
 このまえがきの文章が一番に伝えたいことは、「機械や道具を作る(あるいは、設計する)」ということの本質です。人間は、機械や道具を作る際に、必ずしも動物など自然界の真似や模倣をしているわけではありません。自然物と人工物とが同じ目的を持ったものであったとしても、それらの仕組みや性能が異なっていることは、よくあることです。そうした真似や模倣を全く否定するわけではありませんが、そうするよりも優れた方法や合理的な方法を私たちが見つけられたならば、きっと、そっちの方法を使って機械や道具を作る、ということなのです。つまり、人間が機械や道具を作ることの本質は、「従来とは全く違う仕組みや性能の『もの』を造り出してしまうこと」にあった、ということなのです。
 昨今の私たち日本人は、しばしば『日本のものづくり』ということを口にします。しかし、そうした機械や道具を作る上での本質とか基本的なことを、通常それほど意識はしていないような気がします。それでいて、はたして『日本のものづくり』が本当にできるのか、疑わしいところです。だから、「(人間の作った)人工知能が、人間の思考能力を超えて大変なことになる」などと騒いでいるのは、いかがなものかなと私は思うのです。
 だいぶ批判的な意見をしてしまいました。しかし、今回私が述べたい主旨は、こうした批判をすることではありません。この本のまえがきでは、さらに次のように述べられています。
 「人間が考えるのと同じ意味で『考える』という言葉を使うとしたら、コンピュータは何かを『考えている』とはいえません。でも、『人間と同じ仕組みにしなかった』からこそ、10万円のコンピュータでも1秒間に数十億回の計算ができるまでになりました。数億人を相手に、間違いなく情報を送り届けることができるようになりました。いずれも、人間と同じやり方を目指していては不可能だったことばかりです。現在の私たちは、そんな『コンピュータ』という多数の存在に囲まれて暮しています。」(同書からの引用)
 このように、コンピュータの仕組み内では、少なくとも、人間と同じように考えたり感じたりはしていなかった、ということがわかります。もともと、人間とは違う仕組みで動いている、すなわち、計算ばかりしているのがコンピュータという機械なのです。いかなる人工知能も、そうしたコンピュータという機械の上で実現されているに過ぎない、ということを私たちは理解するべきなのです。
 「私の見るところ、残念ながら多くの人々の理解は「コンピュータだかなんだか知らないけど、中で機械が必死に『考えて』いるんじゃないの?」というレベルにすぎません。」(同書からの引用)
 私たちの多くは、コンピュータというものを、少しでも身近な機械や道具として使いたいがために、きちっと理解せずにあいまいな理解のままにしておきがちです。そのために、つい私たちは、コンピュータという機械の本当の姿、あるいは、道具としての本当の姿を見誤(みあやま)ってしまいます。
 もちろん、私は、コンピュータやロボットなどの機械を、私たち人間のパートナーと見てはいけない、などと言うつもりはありません。しかし、それらの機械のことをちゃんと正しく理解してあげないと、いずれ私たち人間の誤解が罪を作ることになると思います。だから、私は、コンピュータを機械あるいは道具として、その独自の仕組みを理解する必要があると考えるのです。