そこら辺にいる女の人よりもずっとキレイ

 私の母は、二十歳前後の頃、東京都の新宿で暮していました。18歳の頃、長野県の地元の高校(松代高校)を卒業して、ある程度の自由な生活を求めて、東京へ単身出立しました。地元の松代駅から(当時は、機関車に引かれた客車だったそうですが)夜行列車に乗っていきました。その見送りをしたのは、私の母の、母親一人だったそうです。
 もしも、あの時、私の母が、東京に出る決心をしていなかったならば、その父親のつてで、長野県内の農家にお嫁入りさせられていただろう、とのことでした。そういう人生を私の母が選ばなかったことは、今の長野県の若い人たちの多くが、都会の生活に憧れて、生まれた育った実家を出ていくのと、同じ感覚だったのかもしれません。あの頃の東京は、高度経済成長期の前夜ともいえるほど、地方から見たら光り輝いていたようです。
 実際には、高度経済成長期の前夜の東京といっても、若い女性の労働賃金は、現在から比べるとかなり低くて、毎月、給料日が来るまでの生活はギリギリだったそうです。私の母によると、毎月の給料日前日になると、食べ物を買うお金も無くて、住んでいたアパート近くの公園の水飲み場に行って、水を飲んで空腹を満たしたこともあったのだそうです。(私は、こうした話を母から聞かされるたびに、あの頃の高度経済成長とか所得倍増とかいうことが、必ずしも多数の弱者を助けるためのものではなかったと感じていました。)
 けれども、若い頃に親の反対を押し切って、東京に出てきたことは、私の母にとって悪いことばかりではありませんでした。やはり人間は、(特に長野県の人はそうですが)いろんな考えや見方の他人の中で揉まれたほうがよいのです。都会に出て、いろんな家庭や会社などの人間関係を経験することは、本当にプラスになることだったと言えます。それは、現代社会の人間関係が意外と狭いものになりつつあることと、正反対のことだったと言えましょう。
 たとえば、そんな私の母からこんな話を聞いたことがあります。少し前に亡くなられた島倉千代子さんについての話です。島倉千代子さんというと、いつも和服を着て歌っていたというイメージが、現在の私たちにはあると思います。ところが、私の母は、島倉千代子さんの街頭デビューを、当時の新宿でたまたま見かけたそうです。その時の若い彼女のいでたちは、和服ではなく、セーラー服だったそうです。そんな話を聞いて私は思うのですが、現在の私たちが知らない過去のできごと、そのちょっとしたできごとというものが、意外とあるものなのです。つまり、現在の私たちが知っていることというのは、意外と視野が狭かったりするのかもしれません。
 同様なことで、私の母からこんなことを聞かされたことがあります。「新宿で、当時ゲイ・ボーイと呼ばれる男の人たちを見かけたことがあるよ。その人たちは、男なんだけど女のかっこうをして、そんじょそこらにいる女の人よりも、ずっとキレイだったよ。」という短い話でした。若い頃の私は、その話を黙って聞いて、何も質問しませんでした。私は、東京生まれの東京育ちでしたが、『ゲイ・ボーイ』という言葉に何の興味もわきませんでした。女性の姿や仕草をしている男性という、単純なイメージさえ頭に浮かびませんでした。ボーイと付くから、結局、彼らは男に違いないとか、歌舞伎の女形のように、お化粧さえすれば、女性より女性らしく化けることができるのだろう。という程度のありふれた想像しか、これまでの私はしていませんでした。
 ところが、最近、NHK総合テレビで『女子的生活』というドラマを観てから、そんなふうだった私の意識が一変することとなりました。(実は、ここからが今回の私のブログ記事の本題です。)
 最初、たまたまこのドラマの主人公を第1話の途中でチラ見をした時は、「そういう趣味の男性だな。」と感じただけでした。そして、すぐにテレビのチャンネルを他局に変えてしまいました。ところが、第2話の予告編を別の機会にたまたま見かけました。すると、一つのシーンがちょっと気になって仕方がありませんでした。その女装をした主人公が、イケメンの青年と二人で、少し背の低い女性を挟んで、どこかの商店街を歩いているという映像です。その3人の姿が、あまりに当たり前っぽく私の目には映ったのですが、どうも気になって仕方がない。その予告編の短い1シーンが、かえって私の興味をそそることとなったのです。
 私は、そのドラマの第2話を観ることになりました。それを観ているうちに、主人公のミキという人物は、ただ女子の性格やかっこうをしているのではなくて、いろんなことを思ったり考えたりしているのだということが、私にはわかりました。その結果として、女子のような生活をしているということが段々とわかってきて、私は、このドラマの中に引きこまれてしまいました。特に、このドラマの主人公が職場で働くシーンを、私は観ていたのですが、全く違和感がありませんでした。
 私は、別に性同一性障害があるわけではありませんが、男女の性差にあまりこだわらなくなってきました。(かれこれ57歳の誕生日を迎えますが)この年齢で「男だ。」「女だ。」とどちらかに意地を張って生きるのは、人間として見苦しいような気がするのです。だから、このドラマの主人公の人間性に、共感をおぼえてしまうのかもしれません。
 そして、あの予告編シーンの彼らの真ん中の女性が、本当は男性としてこれまで生活してきた人だと、ドラマの第2話をずっと観てきてわかりました。しかし、そんな彼に対しても、私は少しも違和感がありませんでした。そんな調子で、私はこのテレビドラマの第3話と第4話(全4話)を今日まで観ていました。
 このドラマの主人公は、トランスジェンダーという設定ですが、そうした細かいことに目をつぶるならば、「なぜゲイ・ボーイは、その辺にいる女性よりも、ずっと女性らしくてキレイなのか。」という問いに、私なりに答えられると思いました。そう確信できました。
 私は、『性同一性障害』という言葉は、あくまでも医学上あるいは学問上の用語であって、他人を差別するために使われてはならない思うのです。人は誰でも、何らかの障害を持っているものです。でも、そうした何らかの障害を持つ人を差別したり虐(いじ)めないのが、現代の常識と言えましょう。
 私は、子供の頃から運動神経障害でした。これまでの人生で、みんなとは違うこの障害のおかげで、本当に悔しい思いをしました。それを苦手意識のせいだと思って、他人の2倍も3倍も努力と苦労をしたこともありました。でも、結局、それは良くも悪くもその人の個性であり、一生私自身に付きまとうものだったのです。それを「みんなと違う」と言って差別したり虐(いじ)めたり、怪我や病気扱いにするのが、これまでの社会の常識であり習わしでした。しかし、現代の社会では、いかなる障害を持っていたとしても、その障害を、個人として生きる『個性』に変えていくことが求められるようです。正確に言えば、世の中の意識がそうなりつつあると言えましょう。
 ですから、この日本社会で、一般の女性よりも、ずっと女性らしくてキレイな男性がいても、ぜんぜん不思議でも奇異でもないと思うのです。この人間社会で、そのことで誰にも迷惑をかけなければ、それもありかな、と私は思うのです。