メイド・イン・ジャパンって何ですか?

 今年の1月末から2月上旬あたりにNHK総合テレビで放送の『メイド・イン・ジャパン』というドラマを見ていた人が、私の周囲にも少なくなかった、ということを私はかつてのブログ記事で書きました。そのことを少しだけ説明しておきます。
 最近私は、地元の直売所の総会に参加したところ、あるサラリーマンの人と出会いました。彼は、その直売所の会員であるオヤジさんが病床のために、その代わりに出席したのだそうです。話によると、彼は、先日まで名古屋へ出張していたそうです。ところが、その『メイド・イン・ジャパン』のドラマを自宅のテレビで観たかったので、急きょ名古屋から帰ってきたのだそうです。
 また、私は、父の十三回忌の法事のため、『メイド・イン・ジャパン』の最終回を観た翌日に東京の自宅に帰りました。すると、群馬の工場に勤めている私の弟と出会いました。私の弟は、テレビのニュースやドラマに興味が無くて普段はそれらを見ていない人間なのですが、なぜかこの『メイド・イン・ジャパン』のドラマに関しては、あらすじを詳しく知っていました。私はそれにひどく驚かされました。
 ところで、この『メイド・イン・ジャパン』というドラマは、良くも悪くも、いろんなことを考えさせられるドラマであったようです。ここからは、私の観点から、それを述べてみたいと思います。このドラマの主人公は、会長から会社破綻の危機を救うよう特命を受けます。そんな主人公が、部下の一人にこう詰問されます。「『メイド・イン・ジャパン』って何ですか。」「『メイド・イン・ジャパン』は、一体どこにあるんですか。」その問いに対して、主人公は堂々と前に進み出て、その右手で自らの左胸を叩いて「ここだよ。」とあっさりと言い切ります。
 はたから見たら、その『メイド・イン・ジャパン』が形だけになっていることは、厳然たる事実から明らかなことでした。かつてのタクミ電機への、主人公の『熱い思い』が、そうした『一人相撲』まがいの言動につながったと見られます。私なんかも、主人公が自らの胸を叩いて「『メイド・イン・ジャパン』は、ここにあるんだよ。」とか、ドラマのラストシーンで「私たち日本人こそが、『メイド・イン・ジャパン』なのだから。」と語る場面をオン・エアーで見て、驚愕せずにはおれませんでした。
 常識的に考えて、『メイド・イン・ジャパン』とは日本製品というモノに"MADE IN JAPAN"と刻印されたものと、私は思っていました。それが、このドラマの主人公の胸のうちにあるとするならば、それはモノではないことになります。また、『私たち日本人』が『メイド・イン・ジャパン』だとするならば、日本人って"MADE IN JAPAN"と刻印されたロボットかサイボーグかアンドロイドだと言いたいのかな、などと変テコな想像までもしてしまいました。会社にとっての個人が歯車扱いにされてきたからといって、人間をロボット扱いするのは良くないんじゃないかなあ、と余計なことを考えてしまいました。私が抱いたこのような妄想イメージは、このドラマの訴えようとしている本筋のテーマからは、大きく外れてしまっていることでしょう。けれども、それを承知で言わせてもらいます。日本人が今でも反省しなきゃいけない点、すなわち、「人を人とは思わないこと」がしばしば正当化されてしまうことと、そうした姿勢は無関係ではないと私は思っているのです。
 だから、このドラマのラストシーンの「私たち日本人こそが、『メイド・イン・ジャパン』なのだから。」と主人公が述べるくだりが、日本語の表現として今ひとつ私の心にはしっくりと来ませんでした。くどいようですが、『メイド・イン・ジャパン』と言うと何か工業製品のようで、日本人が工業製品のように産み出されて育てられてきたかのようなニュアンスが感じられます。おそらく主人公は、「私たちの精神そのものが『メイド・イン・ジャパン』なのだから、心配することはない。」とか「私たち自身に『メイド・イン・ジャパン』の精神があるのだから、心配することはない。」と本当は言いたかったのだと思われます。
 主人公のそのようなセリフを好意的に見るならば、こうも考えられます。それは、主人公が『メイド・イン・ジャパン』に対して熱い思いを持ち過ぎていたために、そのセリフを言うに際して、そんなふうに口が滑ってしまったのだ、と解釈することができます。主人公がそのセリフでわざと言葉を滑らせてみせることによって、視聴者へ何らかのメッセージを伝えようとしたと考えられます。すなわち、「『メイド・イン・ジャパン』って一体何なのか、視聴者のみんなもそれぞれ真剣に考えて下さいネ。」というのが、そのメッセージの内容なのだと思います。そうした問題提起によって、『メイド・イン・ジャパン』について、視聴者各人がいろいろとそのイメージを持ち、考えを持つことが大切なのだと思いました。
 このドラマの本筋のテーマを、現実に照らして考えてみると、上に述べた主人公の言動がそれほど変ではなかったことに気づくと思います。実際の私たちの周りに"MADE IN JAPAN"と刻印された日本製品があるのかどうか、調べてみるとわかります。最近私がそれを調べたところ、百円ショップで買ったちっぽけなストラップ付きキーホルダーや、各種サイズの大学ノートくらいしか見つかりませんでした。「『メイド・イン・ジャパン』は、一体どこにあるんですか。」というドラマのセリフが、現在の私たちの生活の中で実感できると思われます。電化製品にいたっては、現在皆無(かいむ)と言ってもいいほど、私たちの生活の中から『メイド・イン・ジャパン』がなくなっていると思われます。
 とは言うものの、私は例外的に、"MADE IN JAPAN"と刻印された工業製品を所有しています。かつて東京国立科学博物館のコンピューター展示室に、あのIBM5550と一緒に展示されていたカシオのVL−TONEという電子おもちゃを、私は32年前に上野の東急百貨店(現丸井上野店)で買いました。故障がなく長持ちで、今でも、単三乾電池4本で、電卓機能と音楽機能が楽しめます。その機械の正式名は"Electronic Musical Instrument & Calculator VL-1"で、その機械本体にも箱にも"MADE IN JAPAN"と書かれています。小さな機械にしては音楽機能が多機能なので、その詳細の説明は別の機会に譲(ゆず)ります。その中で一つだけ紹介すると、A.D.S.R.と呼ばれるミニシンセサイザー機能が付いていて、オリジナルな音が数値の設定で一億通り作れるそうです。それでいて、当時としては、VLSI(大規模集積回路)チップの応用商品として、試作品並みの低価格で買えました。当時の上野東急デパートの文具コーナーでは、ちょっと高価な電卓くらいの扱いで売られていました。(ネット上でこの機械に関する記事が多くあることを発見して、その知名度に私は驚嘆しています。)
 そのVL−TONEに限らず、『メイド・イン・ジャパン』の商品というのは、なにかしら特徴があって面白いようなイメージが私にはあります。たとえ外国の人たちに見捨てられたとしても、(内需拡大にならないかもしれませんが)少なくとも私たち自身が国産品を見捨てないことが必要なのかもしれません。