『ポゴシプタ』の日本語カバーに挑戦!

 突然かもしれませんが、韓流ドラマファンの皆様、お待たせしました、と言っておきます。今からすると、やや古い韓流テレビドラマになってしまうかのもしれませんが、『天国の階段』というドラマがありました。その主題歌だった『ポゴシプタ』という曲を、今回は私なりに日本語カバーしてみようと思います。
 『天国の階段』というと、このドラマのヒロインの、チェ・ジウさんの役が壮絶な最期をとげるという物語でした。一方、『冬のソナタ』というドラマでは、あのヨン様の役が、視聴者の懇願で死を免れる最終回に変更されたと聞いています。この違いは何なのかな、と私は今でも思うのです。
 それはともかく、ある日の夜に私は、東京の自宅で、私の母がNHKのテレビで『冬のソナタ』の再放送を視聴しているのを発見しました。私の母は、滅多にテレビのドラマなどは観ないので、私は不思議に思いました。さては、ヨン様を見たくてドラマを観始めたのかな、と思い、私の母に訊(き)いてみました。ところが、そうではなかったようです。私の母によると、共演のヒロインのチェ・ジウさんの表情の変化が面白いので、途中からドラマを観始めたのだそうです。私の母は、芸能界とは縁もゆかりもない人間でしたが、まさか、そういうことに興味を持つとは思いませんでした。それにまた、こうも考えられました。その『冬のソナタ』というドラマは、人によってはそういう楽しみ方もできるのかもしれない、と私は思いました。
 さて、『天国の階段』のドラマ主題歌に、話を戻しましょう。ハングル(韓国語)で『ポダ』は、普通「見る」という意味の動詞ですが、「(用事があって)会う」という意味も持っています。「〜したい」は、動詞の語幹に「ゴ、シプタ」を付けます。この場合、『ポダ』の語幹は『ポ』なので、『ポゴシプタ』となり、「会いたい」という意味になります。
 実は、この曲は、ネット上で見ても、ハングルから日本語へちゃんと翻訳されています。いくつかの日本語訳を閲覧することができます。また、その日本語カバーについても、すでにいくつか創作されています。その中でも、私がYouTube動画サイトで見つけたものの一つは、松井五郎さんの訳詞で、かなり印象的な日本語歌詞でした。「愛の強さが、二人を壊した」という日本語歌詞がありました。私が、原曲の歌詞を普通に日本語に翻訳すると、そのような強烈な表現はできないと思いました。でも、私は、そのような日本語カバーの歌詞に大いに興味を持ちました。
 そこで、私も、私なりにこの曲の日本語カバーの歌詞を作ってみました。



   『あなたに会いたい』


どんなに待っててもだめさ
泣いてる君には 会えない
傷つけるしか できない
僕などやめときなよ


あなたに 会いたい
惨(みじ)めになるくらい
泣きたい ひざまずいて
まっさらにできるのならば


(*)
夢中で愛した君を 思いが
求めているけれど
愛を言いわけにして
引きとめられない


(**)
よくないけれど
死ぬほど 会いたいよ


あなたに 会いたい
惨めになるくらい
会わずに いるべきだと
あなたのためだと 信じて


(* ** くりかえし)


忘れて しまいたいよ!



 原曲の歌詞では、「ポゴシプタ/ポゴシプタ」の繰り返しですが、私の作った日本語歌詞では、あえて「あなたに/会いたい」にしてみました。そのタイトルも、それにならって『あなたに会いたい』としてみました。誰が誰に会いたいのかを明確にすることによって、日本語歌詞の主語・目的語を省略しても、それほど支障が出ないことを狙ってみたからです。
 原曲の歌詞の中で、「(「会いたい」と死ぬほど欲している)こんな僕自身を嫌いになるほど」という意味のフレーズがありました。私は、ちょっと変な感じがしたので、どういうことなのかと考えました。その結果、彼自身がイヤになるほど、相手の女性に会いたいと欲している様子を述べている、と考えられました。その、どうしようもなさ・情けなさを、彼自身が惨(みじ)めと感じている、その様子を私は日本語で表現してみました。
 また、原曲の歌詞には「全て無かったことにできるならば、君にひざまずいて泣きたい」という意味のフレーズがありました。まず、「ネゲ ムルプ クルゴ シプタ」で、「君にひざまずきたい」という意味になります。現在、私の手元にある『パスポート朝鮮語小辞典』によれば、「ネゲ」は「君に」、「ムルプ」は「ひざ」、「ゴ シプタ」は「〜したい」という意味に対応します。しかし、「ムルプ クルダ」という動詞に関しては、その辞書には載っていませんでした。そこで、その言葉を含むハングルの文を、インターネット上の無料翻訳にかけてみました。おそらく、それは韓日の機械翻訳なのだと思いますが、うまく翻訳されて、日本語の「ひざまずく」の意味であることがわかりました。
 次に、「全て無かったことにできるならば」という意味の原曲の歌詞を、どういうことなのかと考えてみました。この曲の主人公の男は、相手の女性に恋していた思い出に縛られて、彼女に会いたいという抑えきれない欲求に苦しみもがいていると考えられます。そうした記憶や苦悩などを全て忘れることができたら(つまり、それらが全て無かったことにできるならば)、と彼は考えるわけです。私の場合は、「全て無かったことにできるならば」というフレーズを、さらに意訳して、「まっさらにできるのならば」という日本語の言い回しにしてみました。
 『真っ新(まっさら)』という言葉の原義からすると、少しずれた意味用法になってしまっているかもしれません。「まっさらのシャツ」という意味用法で、すなわち、「ま新しくなったシャツ」という意味で使われるのが普通だからです。ただし、ここで、「コンピュータの中をまっさらにして、新しいソフトウェア・システムを導入する。」という文の場合を考えてみてください。すなわち、この場合は、「コンピュータの中の、これまでのデータは全てクリアにして」という意味用法と同じに考えていただきたいと思います。
 こうしたことから、この曲が伝えたいことは、相手の女性に「会いたい。」という抑えがたい欲求と、それとは裏腹の「会ってはいけない。」という彼の男としての良識(?)との、心の中の葛藤であったと言えましょう。そうした内面の心情の葛藤が、この曲の見せ場であることは疑いありません。
 もっとも、この曲は、(当たり前のことかもしれませんが、)それを聴く人の感性に訴えてくる部分が強いと思います。原曲のメロディー(旋律)が、特に美しいと思います。そのメロディーに乗せられた歌詞の表現する、「会いたいけれど、会ってはいけない。」という複雑な気持ちが、微妙に聴く人の心を捕らえるのだと思います。
 もちろん、原曲の、曲全体の内容表現としては、その歌詞の内容や表現などが、意外と簡潔、あるいは、単純明快に思われるかもしれません。かえって、そのせいで、聴く人の側に訴えてくる感情的なものが大きいと言えます。すなわち、それこそが、この曲の一つの大きな特徴と言えるのかもしれません。