年を取ってわかったこと

 私事(わたくしごと)で申しわけありませんが、今日は、私の56回目の誕生日になりました。誰に祝ってもらうというわけでもありませんが、現在無事に生きているだけでも、私には儲(もう)けものだと感じられます。
 ここ2週間、長野県に戻ってはみたものの、寒さのために、降ったら融けない雪が障害となって、屋外の作業が進められません。やっと、最近になって日中の陽射しが強くなってきたのですが、まだまだ寒い日々が続いています。無理をして屋外で作業をしても、体力の消耗に見合うほどの成果は期待できないと思いました。かえって、去年の末に経験したように、風邪で喉と鼻をやられて、体調を崩してしまうのが明らかでした。
 ここのところ、デスクワークに徹することが多くなりました。去年一年間の収入と支出の記録整理を、レシートの山や、精算書や支払明細書、口座通帳や小遣い金銭帳などをもとにして、まとめる作業を延々とやっています。税務署へ提出する確定申告や、今年の作業で必要になる資材の注文をするための資料を作らなければならないからです。それと同時に、生活費をちゃんと把握しておかなくてはいけない、という目的もあります。20代30代のサラリーマンの頃は、そうしたことは全く手をつけたことがありませんでした。けれども、40代50代になってみると、毎年十分な出来ではないものの、そうした検証を続けていくことが大切だとわかってきました。
 ところで、「一つ年を取る」というと、昔は、数え年(かぞえどし)といって、誰でも一月一日を迎えると一歳ずつ年をとる、という風習があったそうです。私の祖父は、明治生まれの人間でしたが、その年の始めの一月一日になると、必ず一人だけ不機嫌になっていたのを憶えています。祖父の言うのには、「みんな自分より若くて、これから先があるのに、自分は一人だけ年を取って、誰よりも先に死んでしまう。それが、みじめで仕方がない。」ということでした。だからこそ、日々悔いのないように生活することが大切なのですが、そうした道理が私の祖父には通用しませんでした。そのことに思いがいたると、余りに寂しくて、何の努力もしたくなくなり、何の気力もなくなる、という様子でした。
 そのようなことを祖父が思っていたことには、それなりの背景がありました。私の祖父は、明治時代の生まれで、最終学歴は長野県の小学校でした。また、片親の家庭で育ったためか、利己的な性格になってしまいました。長野県の上山田温泉で、タクシーの運転手をやっていて、そこで女中をやっていた私の祖母と知り合ったのですが、祖母もまた、片親の家庭で育っていました。この二人は、東京の浅草に出てきて、そのうちに足立区の梅田(現在私の東京の実家があるところ)に引っ越してきたのですが、そこで私の父が生まれました。中学を卒業して、私の父が働き出すと、祖父は仕事をやめてしまい、名目上は私の父の働く町工場の社長になりました。けれども、その生活の実態は、私の父に仕事のことはすべて任せっきりで、私の父と母の働きぶりを監視しつつも、祖母と共に隠遁生活にはいってしまいました。ただし、祖母とは相変わらず夫婦仲が悪く、険悪な人間関係がその後も亡くなるまで続いていました。
 要するに、そうした背景から言えることは、(私の祖母もそうでしたが)私の祖父は、利己的な性格が強かったということでした。当時の私の家は、表向きは、熔接業の町工場で、大家族でした。けれども、それは、あくまでも表向きはそうであっても、世間が一般に考えているような実質が伴っていませんでした。そのひずみが、祖父や祖母の態度に表われていたとも言えます。
 家族に囲まれた中で、一人孤独を感じてしまうという、祖父の非合理な心情は、私の父を通じて、若い頃の私にも伝染してしまいました。おそらく、それが、私の東京の実家の、子々孫々に伝わった悪しき伝統になってしまったのです。そんなもののために、私は、学校や会社に通うようになっても、集団の中でなじめずに、人間関係にいやな思い出ばかりを残すことになってしまったのです。過去を振り返りたくない、あるいは、思い出したくないという気持ちが、若い頃の私を、この社会の中で何に頼ることもできない、根無し草のようにしてしまったのです。
 やがて、そんな私は、私自身の死に場所を求めて、都会を離れて地方に移ることを決めました。こんな私でも、地べたでのたれ死ぬ権利くらいはあるだろうと考えたからです。このことは、今考えてみると、多分に偏った考えであって、それを誰から叱責されても当然かもしれません。ですが、20代30代の私は、東京で、中小企業の会社に勤めていました。どんなに長時間労働をしても、過労死や過労自殺してもそれが当たり前という環境で、若い頃から生き延びてきてしまいました。それ以上に厳しい環境に置かれない限りは、決してギブアップはしないという人間になってしまったのです。
 しかし、地方で働いているうちに、それなりの苦労はあったものの、新たに学ぶべき点が出てきました。まさか40代を過ぎて、そうしたことを学ぶとは思ってもみませんでした。それが、東京の実家で生活してきたことへの反省をすることにもなりました。例えば、JAの部会で、生産者のおじいさん達に連れられて、視察研修に行ったり、温泉に行ったりしました。また、青年の会や壮年の会で、JAのいくつかの行事に参加してもみました。そこでは、ボランティアに近い、利益や打算を超えた参加協力をして、集団に関わっていく、という訓練を重ねることとなりました。
 そのようなことによって、現在の私は、個人が集団についていくにはどうしたらよいか、ということを学んでいます。それは、多くの会社のように、経済的な運命共同体の意識があればいい、ということではありませんでした。まず先にあるべきことは、人との関係をむやみに乱さない、人と無理なく協力することができる、ということなのでした。
 集団の中で、一人で勝手に暴れて周囲に迷惑をかけたり、一人で不機嫌になって自ら離れていく人を、今でも時々見かけます。若い頃の私自身を反省しても、それとそれほど変わらないことをやって、学校の同級生や会社の同僚から離れていったことが何度もありました。その時に私は、「集団が、私自身を見捨てた。」と決まって言いわけをしていました。けれども、その実際は、全く逆だったのです。「私自らが、集団から離れていった。」というのが本当の事実だったのです。
 私が生まれ育った家庭は、サラリーマンの家庭ではなかったので、それは致しかたなかったのかもしれません。家庭というのは、一番小さな規模の集団です。その集団が一人一人バラバラだったのならば、社会に適合できない人間になったとしても、誰も文句は言えないと思うのです。現在の日本の場合、個人の権利が尊重されるのは良いとしても、その理想を育(はぐく)むはずの家庭に問題がないのか、はだはだ疑問に思われることがあります。
 それはともかくとして、私自身はどう考えているのかを最後に述べておきたいと思います。確かに、一つ年を取って、身体的にも精神的にも、前よりも少しずつ衰えてきているのは、仕方がないと思います。年を取っても、いつまでも若い頃のように元気だというのは、一つの理想なのかもしれません。しかし、それが人生の全てではないような気がするのです。むしろ、私の場合は、若い頃のように、極端で無理な考えを望まないふうに変わってきたと思います。その上で、問題が問題として残ってしまうのは、仕方がないと思うのです。
 私の仕事の経験から申しますと、これまでずっと解決できなかった、あるいは、改善できなかった問題点でも、2、3年間毎日考えてきた結果、突然のひらめきでその問題が解消できたという実例が2、3ありました。ですから、個人で考えられる範囲のことは、すぐに問題が解決できないからといって、それをそう簡単に断念しなくてもいいんじゃないかな、と思うようになりました。制限時間のある、学校のテストじゃあるまいし、そう簡単に答えが出たら、価値も面白さも無いんじゃないかな、と思うからです。