ゆりカゴから墓場までとは言いますが…

 確か、この言葉は、「人が生まれてから死ぬまでの面倒をみる。」という意味の、社会保障制度のキャッチフレーズみたいだったような気がします。しかし、近年の日本においては、もっと違う意味を持ちつつあります。
 私は、東京の実家から歩いて10分のところにあった、助産所(通称お産婆さん)で生まれました。その当事者である私の母の話によると、お産の時に亡くなってしまう妊婦さんもいたそうです。そうした過去の惨事の影響でしょうか、近年の日本では、病院で子供を産むことが当たり前となっています。
 また、重病や老衰で亡くなる人も、病院以外でよりも、病院内で亡くなることが多いようです。私の祖父も祖母も、私の実家で晩年を過ごしていました。歩けなくなって寝たきりになっても、私の母に介護してもらっていました。がしかし、体調を悪くしてからは、病院に入院していました。そして、やがて病院で息を引き取りました。なお、私の父も、重病で病院の入退院を繰り返していくうちに、60代のなかばに胆のうガンの末期で助からなくなって大学病院で亡くなりました。
 このように、近年の日本では、「生まれるのも亡くなるのも、病院で」という人が、日々増えていると思われます。『病院』という言葉の位置づけよりも『命院(みょういん)』すなわち『命(いのち)の医院』という言葉の位置づけになっているようです。つまり、現代において日本の病院は、「命のやりとりをするのに不可欠な場所」という意味合いを強めています。したがって、そこがひっ迫するということは、自ずとそこでの死者が増えるということです。そしてまた、それは至極当然のことであり、それほどショックなことではないと言えます。
 こうした日本国民にとっての病院などの医療機関とのかかわりの変化は、もうすでに「今の時代に合わない」という兆しをメディアに露呈しています。(注・私が子供の頃は、今とは逆でした。感染症が流行している時期、すなわち、感染拡大や市中感染が懸念されている時期に、感染症が疑われる人は病院へ行ってはいけない、ということが鉄則でした。今は時代が変わって、一般的に逆のように思われているようです。)広く知られているように、JA(旧農協)がつい最近、組織改革をされました。次は、きっと日本の医療の抜本的改革が近い未来に不可避となることでしょう。日本のメディアには、それを注視する責任がずっと伴うことになると思います。(相変わらずの場当たり的な見方をしないでほしいと願うばかりですが…。)