とある価値観の場外乱闘に興味を持つ

 私は、大学の専攻が、文学部の英文学科でした。なので、H大学の卒業論文として、イギリスの小説家トマス・ハーディの作品『ダーバヴィル家のテス』をとりあげました。論文作成当初は、本作品のストーリーに即して、主人公の女性は一体何者なのかという視点で論文をまとめようとしていました。ところが、この小説作品の参考文献をいくつも調べていくうちに、それまでは思ってもみなかったことに興味を引かれることになりました。そのため、それまでに書きためていた論文の下書きを破棄して、全て書き直すはめとなってしまいました。
 当時の若い私に一体何があったのかと申しますと、だいたい次のようなことがありました。この小説の作者は、作品のタイトルと本文との間のページに副題として’a pure woman’と一言だけ書きました。この『清純な女性』と単純に日本語で訳されている、この一言が、実は大問題だったのです。当時の19世紀のイギリス社会でも、また、あるいは、現代の日本においても、この小説を読んでそれを評価する人々の間では、物議をかもすもととなりました。この小説の主人公のテスという女性は、果たして『清純な女性』と言えるのか、それとも、『清純な女性』とは言えないのか、という問題に、老若男女の意見や評価が真っ二つにわかれることとなったのです。つまり、これは、この小説のそもそもの存在価値を問う、賛否両論の大問題なわけです。
 当時の私は、ナスターシャ・キンスキーさん主演の映画『テス』くらいは知っていました。しかし、それほど切実な動機もないまま、この小説を卒論のテーマに選びました。しいて言えば、桑原武夫さんの著作『文学入門』の巻末に掲げられた、『世界近代小説五十選』という作品リストを見て、当時の私がまだ読んでいなかったイギリスの小説の一つとして選んだだけのことでした。しかし、作者の記した’a pure woman’という一言に込められていた真意が一体何だったのかを知りたくて、H大学の図書館に何度も通って、私自身の卒論のために参考文献を片っぱしから調べることになりました。
 その結果わかったことは、いろんな人がいろんな意見を述べていて、一つとして同じ意見はないものの、相反する2つの説に集約できるということでした。先にも述べましたように、主人公の女性テスを’a pure woman(清純な女性)’として肯定する説と、それを否定する説です。例えば、主人公のテスは「どんなに運命に振り回されても自身の愛を貫く『清純な女性』だ。」とする説と、「否(いな)、彼女は『清純な女性』なんかではない。現に二人の男性と肉体関係を結んでいるではないか。」と反論する説があります。そのように意見の対立があるのは明らかです。
 私が調べたところでは、そのどっちつかずに見える説もありました。ただし、その根拠をよくよく吟味してみると、完全な中立ではなくて、肯定説と否定説のどちらか一方に近いことがわかりました。あるいは、一部の中立説は、作品の評価を保留するという形で述べられていました。したがって、この小説から読者それぞれの受ける印象が、タイトルと本文との間に’a pure woman(清純な女性)’という副題の一言があることによって、二分されてしまったことは明らかだと思います。
 当のトマス・ハーディ自身は、そのことをどう思っていたのか、ということは誠に興味深いことです。今となっては推測するしかないのかもしれませんが、私なりにそのことを次のように考えてみました。この小説の本文を読んでみると、作者が自然を賛美して描いている部分が多く見当たります。英語の原文を読んでみるとわかりますが、自然の中にいる人間は、生き生きと描かれていて、ある意味、なまめかしくさえ感じられる描かれ方をされています。そのような自然界では、女性が清純かそうでないかは全く議論にもならないことです。そんなことは、生物学的すなわち自然科学的に考えてみても、全く意味がありません。そんなふうに、私は、作者の気持ちを想像しています。
 しかし、同時にまた、人間は、その時その場所で定められた『人間社会のしきたり』に従って生活していかなければなりません。その社会(人間たちのしがらみ)の中で、望まない運命に翻弄されて、つらい気持ちを我慢して生きていかねばなりません。そのような人間社会の中では、個人的な思いや行為が罪深いと見なされて、他者から叱責を受けたり、石を投げつけられるようなことも当然あります。作者トマス・ハーディは、この小説(フィクション)を通じて、そのような個人へのいわゆる同情票もしくは応援メッセージとして、あの『清純な女性』という一言を、その小説の副題として付け加えたのだと思います。
 とするならば、あの『清純な女性』肯定説・否定説の対立を、現代的にはどう考えたらいいのか、ということになります。それについて、私はこう考えます。この小説が、作者トマス・ハーディの意図するところを離れて、場外乱闘的な賛否両論で多くの読者や評者を巻き込んでしまうという、そのこと自体に重要なポイントがあるのです。
 卒論提出当時の私は、それを『作品の独り歩き』と結論づけています。私の卒論を審査した教授からは、その先の考察が知りたいという意見を承りました。残念ながら、私は、文学修士・博士という研究者への道には進みませんでした。そして、サラリーマンとして社会の荒波に揉まれる運命を選びました。しかし、だからこそ、かえって作者トマス・ハーディの真意みたいなものが、今の私に、現実としてわかってきたのかもしれません。
 その『作品の独り歩き』について述べる前に、まず触れておくべきことがあります。今になって私が考えていることは、その『清純な女性』という言葉の背景にあったものは、現代的に考えて一体何なのか、ということでした。つまり、それは、男性から見た一方的な価値観、あるいは、男性目線による『偏った価値観』があることだと思います。(男性の私が、なぜ男性に厳しいのかと疑う人もいるでしょう。しかし、私は、女性の側に甘いわけではありません。人間として公平なだけです。)すなわち、エンジェル・クレアという男性が、テスと過去のあやまちを打ち明け合った後に、どうにもならなかった彼の絶望の根っこにあった、ある種の価値観に注目しました。特に、私は今でも未婚者なため、結婚した男性は、最低でも一度は、彼と同じような気持ちになることを知っています。男性は、女性が思い描いているよりも、はるかに弱くてデリケートなものなのです。
 この小説のストーリーによると、エンジェル・クレアは、彼自身が過去に犯した過ちをテスに打ち明けて、彼女に許してもらいました。ところが、女性であるテスの打ち明けた過去のあやまちをどうしても許すことができず、その場で彼女から遠ざかってしまいました。後になって彼はそのことを後悔するのですが、そのことのためにテスの心は失意のうちに荒(すさ)んでしまいます。ついには、彼女は殺人を犯してしまい、法で裁かれ死刑となります。
 このようなアンチなストーリーは、この小説発表当時の19世紀イギリスのヴィクトリア女王時代の、とある価値観と関係がありました。「男性の愛する女性は『貞淑すなわち清廉潔白で清純』でなければならない。」という、当時の社会に押しつけられていた価値観がありました。
 もちろん、当時のイギリス社会において、そのような『個人に押しつけられた価値観』が悪かったとは一概に言えません。このような『個人に押しつけられた価値観』が社会にあることによって、当時のイギリス国民はまとまることができて、政治的にも軍事的にも経済的にも隆盛をきわめていたことは、世界の歴史を学んでみれば明らかなことです。一方、トマス・ハーディのような小説家の作品は、そのような当時としては不評で、やがて彼自身が小説家の筆を折るという結果となりました。
 すると皮肉なことに、この『ダーバヴィル家のテス』という作品が作者ハーディの手を離れて、『作品の独り歩き』を始めたと、私は推測しました。つまり、『作品の独り歩き』とは、小説などの作品が、その作者の手を離れて、多くの読者や評者・研究者の手に委ねられ、その主導権が引き渡されることなのです。作者は亡くなっても、作品は残って生き続ける、という現象です。作者がこの作品の副題として付け加えた『清純な女性』という一言が、人間社会に現存する『押しつけられた価値観』というものの一つを読者の意識に浮き上がらせて、作品の評価を二分するほどの物議をかもすこととなりました。そのことが、『ダーバヴィル家のテス』という文学作品をこの世から忘れなくさせてしまった、と私は思うのです。この小説が、それがきっかけでこれまで読まれてきたと考えると、その不遇な運命と同様に、その運命の皮肉さを感ぜざるをえません。