レイ・ブラッドベリの『みずうみ』を考える

 アメリカの小説家レイ・ブラッドベリは、「ポオの衣鉢(いはつ)をつぐ幻想文学の第一人者、SFの抒情詩人」と、ネット上で数多く紹介または評されています。言うまでもないかもしれませんが、ポオとは、あのエドガー・アラン・ポーのことです。また、衣鉢(いはつ)とは、『えはつ』とも読みます。『師である僧から弟子に伝える、袈裟と鉢』のことだと、小学館の国語辞典には書かれています。すなわち、「師や前の人から受け伝える、大切な仕事や奥義」のことだとも書かれています。ネット上でも、彼を純然たるSF小説家というよりも、抒情的なSFを含んだ幻想小説あるいは怪奇小説の作者とみている意見が多いようです。
 もっとも、私は、H大学のアメリカ文学の講義やゼミで、このレイ・ブラッドベリさんを勉強していません。従って、彼についての、専門的な予備知識とかは全くありませんでした。彼について勉強する機会はあったはずなのですが、若い頃の私は、その機会に全く気づきませんでした。ただし、全くの偶然で『みずうみ』という彼の作品の一つを知りました。そして、そのまま現在に至っているという状況です。
 偶然にも、若い頃の私は、連日のラジオ番組で、その二人の小説家の作品のラジオ劇を聴いていました。以前このブログ記事でも少しだけ述べたことがありますが、それは『名作をたずねて』という10分ほどの短いラジオ番組でした。まず、その1日目は、エドガー・アラン・ポーの『黒猫』でした。次に、その2日目は、レイ・ブラッドベリの『みずうみ』という作品でした。
 ところで、前者の『黒猫』は、よく知られていると思われます。が、後者の『みずうみ』に関しては、知らない人も多いのではないかと思われます。どちらも、幻想怪奇短編小説の傑作と言ってしまえばそれまでなのですが、ストーリーやテーマが全く違います。この2つの短編小説の関連性は無いと言ってもよいくらい違うのです。
 後者の『みずうみ』は、恋愛小説の要素も含んでいます。以前私は、恋愛小説の短編ばかりを集めた本を買ったことがあります。その本には、いろんな小説家の短編作品が載っていました。その中の一つに、このレイ・ブラッドベリさんの『みずうみ』という作品も入っていました。
 主人公の男性の『私』は、奥さんとの新婚旅行で、昔子供の頃に遊んだ湖の浜辺に戻ってきました。そこで、昔、目の前で行方不明になった初恋の女の子が湖の中から発見されたことで、意識が変わって、新婚の奧さんが見知らぬ女性(”a strange woman”)に見えてしまった。という、恋愛小説とも怪奇小説ともとれる不思議な作品が、この短編小説(あるいは、わずか10ページほどの掌編小説)だったのです。
 ネット上の、ある関連記事に目を通していたら、レイ・ブラッドベリさん自身は、「現実にありそうなことを書くのが『幻想小説』であり、一方、現実にありそうにないことを書くのが『SF小説』である。」というふうな区分けをされていたそうです。それからすると、私の勝手な想像にすぎないことになってしまいますが、何かSF的な背景を私は感ぜずにはいられないのです。つまり、この『みずうみ』という小説の内容を後ろから支えている、ある『SF的な仕掛け』に注目したいと思います。
 この作品に初めて出会った頃、私は人間の心の不思議さに気を取られていました。すなわち、主人公の男性『私』の感傷的な心の抱く幻想ばかりが気になっていました。そのくせ、この作品における『みずうみ』の存在が、今一つよくわかりませんでした。その『みずうみ』自体に何らかの目的意識があったとしたら、それが何であるのか全くわかりませんでした。だから、若い私の頭の中では、この小説は、恋愛幻想小説の域を出ることはできなかったわけです。
 しかし、この作者は『火星年代記』をはじめとするSF小説をいくつも書いています。この『みずうみ』は、この作者にとっては初期の短編作品に含まれていますが、最近では、多分にSF的な(つまり、サイエンス・フィクション的な)仕掛けおよび『からくり』が仕組まれているような気がします。私としては、そのメカニズム的な説明によって、この小説における『みずうみ』の存在が裏付けられ、理解できることに気がつきました。
 ところで、『タイムマシン』という、SF小説によく登場する機械を考えてみましょう。この機械は、いまだに現実には存在しません。架空の機械と言えます。さらに、小説でも映画でも、タイムスリップ現象を扱った作品は数知れず、そのことを前提としたさまざまな考えや理論も日々増えることを禁じえません。
 しかし、『タイムマシン』や『タイムスリップ』は理論的には可能でも、メカニズム的に可能なのかどうかの議論は、なおざりにされているような気がします。理想や夢や仮説は語られるけれども、科学的に実証や実験や実現ができるのかどうかは語られていません。
 そこで、私はこんなふうに考えてみたのです。この『みずうみ』という小説の中で、主人公の男性の少年時代に同じ年だった少女は、少年の目の前で行方不明になって、少年が大人になった10年後に、あの頃のままの姿で、彼の目の前に現れました。その代償に命は失ったものの、時を超えて、彼と再会をしました。そして、少年時代に彼が抱いていた恋心をよみがえらせることに成功しました。このストーリーからは、恋愛の不思議を感じさせるため、これは恋愛小説なのだ、と当然考えられます。けれども、その少女の側に立って考えてみると、『みずうみ』の中に取り込まれることによって、その代償に命は失ったものの、10年後にタイムスリップしたとも考えられるわけです。
 そのように考えてみると、『みずうみ』とは、自然に存在する巨大な『タイムマシン』のようなものであると言えます。『タイムマシン』と同じようなメカニズムを持った巨大なものが自然に存在する、とも言えます。つまり、この小説における『みずうみ』とは、そのような存在であると理解できるのです。このような仕掛けが、この小説の背景を支えて描かれていることに、最近の私は気がついたというわけです。
 「こんな10ページほどの小さな小説の中で、そのような巨大な自然のメカニズムやエネルギーを描けたというところに、レイ・ブラッドベリさんの非凡な才能が感じられる。」と、そう私は思いました。