『マッチ売りの少女』について

 (燃えきったマッチの一束を持ってうずくまっている小さな亡骸(なきがら)を見て、)この子は暖まろうとしたんだね、と、人々は言いました。けれども、少女がどんなに美しいものを見たか(… 略 …)だれひとり知っている人はありませんでした。 ― 新潮文庫『マッチ売りの少女』からの引用

 アンデルセンと言うと、誰でも知っているアンデルセン童話の作者です。彼は貧しい靴屋の子に生まれましたが、昔話を読んで聞かせてくれる父と、深い信仰心を持っていた母の間で育てられたそうです。彼の希望は、都会に出て舞台俳優もしくは声楽家になることでしたが、どちらの夢も叶えることができませんでした。彼は、国外へ放浪の旅に出て、そのうちに、多くの作品を書くようになりました。
 童話と言うと、普通は子供のための読み物であり、大人がそれを読むのは子供に読み聞かせるためのもの、それだけのものと思われがちです。しかし、実はその子供が大人になってからが重要だったのです。大人になってから、アンデルセン童話として知っている物語をいくつか読んでみるといいでしょう。私のような大の大人は、絵本を買って読むことに抵抗があるかもしれません。それならば、文庫本などでアンデルセンの原作の翻訳物を読めばよいのです。冒頭に掲げた引用は、『マッチ売りの少女』の一番最後に書かれた部分です。
 寒さに凍えることもなく難なく年を越せた人々は、小さな亡骸(なきがら)を見て、哀れむように「かわいそうに」と言います。しかし、その少女がマッチが燃えるほんの一瞬でも幸せな気持ちを感じたことを、生きている誰もが想像できなかった、ということを作者は言いたかったのです。
 アンデルセンの作品のある批評家の意見によれば、「現世で貧しい人々は死ぬことにより幸福になれる」という暗い世界観に基づくものだと評しています。確かに、アンデルセンのほかの作品にも、『貧困』と『死』と『幸福』の3つのキーワードが結びついているものを少なからず発見することができます。そして、それが北欧の宗教的な世界観であるという意見はある程度正しいかもしれません。
 そこで、私は「生きている人々が本当の幸福を見出せない、という現実をアンデルセンは指摘している。」と言い換えたいと思っています。つまり、『マッチ売りの少女』という物語は、少女の運命が問題なのではなく、哀れな少女を目撃した人々の様子が重要なのです。
 このことは、例えば、『はだかの王様』という彼の作品を見ても明らかだと思います。王様が裸であることを小さな子供が言うまで、誰も大人は疑心暗鬼で、本当のことを口外できません。当たり前のことですが、小さな子供は素直だから、見たとおりのことを口にできるのです。しかし、大人はいろんなしがらみがあって、たとえ王様が裸であるとわかってしまっても、それを正直に口に出すわけにはいきません。もちろん作者は、その小さな子供をほめているのでも、大人を批判しているのでもありません。正直な子供が物語の中心なのではなく、大人が取らざるおえない状況を指摘していることが重要なのです。好意的に見るならば、それが大人というものだと、胸を張って主張しているととらえるべきかもしれません。
 マッチ売りの少女が馬車に跳ね飛ばされそうになったり、靴をなくして裸足で歩く様は、その物語を読んでいるだけでも痛々しく可哀想なことです。しかし、どんなに不幸な人間でも幸せを感じることができるのだ、ということをこの物語を読んで私たちが知ることができるならば、この少女の亡骸(なきがら)を見てただ可哀想だとしか思えなかった街の人びとよりも、私たちは幸せになれるのではないでしょうか。そのことを知り実感できるのは容易なことではないかもしれません。ですから、作者はあえてこの物語の最後の部分で、生きている街の人びとの様子をそのように記したのだと思います。