大人の世界に正解はない

 今回は、しばしば取り上げられるこの言葉に関して、日本人として考えてみたいと思います。時も折(おり)、テレビのニュースや情報番組を観るたびに、新型コロナウィルスの話題でもちきりになっています。その中国の武漢における鮮烈なデビューは、日本人の誰しもがその状況を映像で見てショックを受けたことと思われます。が、私としては、その新型ウィルスそのものの感染拡大を心配し恐れるよりも、情報そのものの感染や過度な汚染を恐れています。テレビで話をする人の口から発せられる意見・事実あるいは推測のいかなる情報においても、「新しい状況に直面して、心配で怖い」という感情的な情報が暗に含まれているように思われて、ちょっと心苦しい気がします。

 私は、もともと優等生でもエリートでもありませんから「どんな苦境にも負けるな。」などとは言えません。現に、若い頃には、大事な入学試験で正解が導けなくて失敗したことが何度もあります。そんな私から見ると、昨今の日本社会の人々は正解ばかり求めて、他者の行動や言動を批判しているかのようなふうにも見えます。「そんなにあなた(あるいは、あなたたち)は偉いのですか。」あるいは「そんなにあなた(あるいは、あなたたち)の判断や見解が絶対的に正しいのですか。」あるいは(どこかのクイズ番組のように)「オーディエンス(大衆)が正しいと感じているならば、絶対に正解なのですか。」などと、私は思ってしまい、そうテレビに向かって話しかけてしまうのです。

 例えば、最近よく、「新型コロナウィルスの感染の拡大が止まりません。」という言葉をテレビから受け取ってみても、どうしても疑念が生まれてしまうのです。感染者数や死亡者数などを知っても、果たしてこれからの心配や懸念を生み出す根拠が私なりにどうしてもつかめないのです。

 社会科学的に見れば、ヒト対ヒトの感染で、しかもワクチンも特効薬もない無い状態は、危機的な状態なのかもしれません。いわゆる『正解』のない状態と言えましょう。しかし、自然科学的に見れば、『新型コロナウィルス』だけが突出して異常増殖している証拠があるわけでもなく、ペストやチフスコレラなどの伝染病のような悪い衛生条件下の汚染があるわけでもないと思われます。もちろん、私がとびぬけた馬鹿なのかもしれませんが、そんなに大騒ぎして世界から非難されることなのかな、と思ってしまいます。(そういえば、日本では、放射性物質の時も同じようなことがあったような気がします。)

 実は、私は(自慢ではありませんが)インフルエンザのワクチンを一度も接種したことがありません。それでも、とびぬけて健康だったわけではなく、20代の頃に風邪をひいてお医者さんに行ったら、「インフルエンザだね。」と言われたことがありました。あの頃は、毎年のようにインフルエンザを自宅の家族からうつされて、喉が痛かったり、胃腸がやられたりしました。様々なインフルエンザウィルスに感染したおかげで、体に抵抗力(免疫力)をつけられる生活療法が自然に身について、ワクチンが完成するよりも早く抗体が体内にできるようになったようです。逆に、そうしたウィルスが感染してこなければ、永遠にその抗体ができないわけで、ある意味それは不幸なことなのかもしれません。

 したがって、今回の新型コロナウィルスに関しても、過度なウィルスの汚染でなければ、あるいは人間側の免疫力が過度に低くなっていなければ、一般人はそれほど危険を感じなくてもよいのかもしれません。

 しかし、だからといって油断は禁物です。私は、仕事柄、屋外で土をいじります。土の中には、小さな虫やミミズ、ナメクジや菌類、雑菌、細菌、バクテリア、ウィルス等々が多々うじゃうじゃいます。塵灰や汚れも半端ではありません。そうした物をすべて洗い落とせるわけではありませんが、それでも家に帰ってきたら、一応、普通の石けんを手に付けて、水で洗います。「なんだそれだけか。」と多くの人は思うかもしれません。が、その手洗いが私のように「ずさん」でも、その効果は絶大です。さらに、バスルームに入って全身シャワーを浴びて石鹸で洗って、顔も頭も首も軽く洗えば効果てきめんです。これは私の場合ですが、風邪の予防には効果があると思いました。

 アクティブラーニングがどうのこうのと子供の教育について騒がれますが、私は『明日の子供』のことより『今日の大人』を大事にしたいと思います。『明日の子供』は、『今日の大人』の背中を見て育っていくものです。アクティブラーニングだって、そもそも「大人の世界に正解はない」ということを根拠として、大人になった時に役に立つ技能の一つとして子供に教えるわけです。(しかしながら、これまで積み上げてきた科学的知識を全て否定して、未知のウィルスに人類が立ち向かえるとは、さすがに思えませんが…。)

 とにかく最後に、私が即興で考えた「大人の世界に正解はない」ことの一例を示しましょう。(即興というと、モーツアルト即興曲のようですが、私の考えたのは音楽ではありません。)「5+6=11」だと、私たち日本人は、小学生の頃の算数で学びました。だから、「5+6」の正解は「11」だと、私たちは誰もがそう答えて、ほんの少しも疑いません。なぜ「5+6」が「11」以外の答えにならないのか、誰もそれを疑わず、誰もその理由を考えないのです。なぜならば、「5+6」は「11」が正解であり、それ以外は間違えであると暗に大人から教えられてきたからです。正解以外に答えはない、あるいは、正解以外は意味が無い、という世の中に、私たちの世界はなりつつあります。

 それでは、最後に、私の答えを示しましょう。「5+6」の正解が「11」なのは、10進数の世界の話です。あるいは、時計の時分の12進数と60進数のように、12や60以上で位取りがなくて10進数に準じているような場合です。それに対して、16進数では、「1B」としないと「11」(10進数では17の値)と区別がつきませんし、8進数や9進数ではおのおの「13」や「12」となります。

 優等生の皆さんから見ると、ずいぶんと疑り深い、あくどい世界と思われるかもしれませんが、それが大人の世界なのです。