私のプロフィール 映画『アンデルセン物語』を見に行く

 前回のブログ記事で、いきなり『マッチ売りの少女』について書きましたが、それにはちょっとわけがありました。私が6才か7才だった頃に、誰か大人に連れられて実家の近くにあった映画館へ行ったことがあります。そこで、東映動画の劇場用アニメ『アンデルセン物語』を見ました。
 貧しい靴屋の息子のハンス少年が、靴を直してもらいにきたおじさんと出会います。君には翼がある、とそのおじさんから言われて、それからいろいろと不思議なことが起こるというミュージカル風の物語でした。「翼を広げて、ごーらん。広げてごーらんー。」という始まりの軽やかで明るい主題歌が、このアニメ映画のエンディングを飾っていました。そのおじさんというのは、シルクハットを被ったイギリスの紳士のような姿をしていましたが、実は妖精で(フジテレビドラマの『プロポーズ大作戦』で俳優の水上博史さんが演じた妖精を思い出してしまいますが…。)、空飛ぶ傘(アンブレラ)で空中に浮き上がることができました。
 私は、このアニメ映画を見て、どうしても忘れられないシーンがありました。今でも、と言うか、年を取れば取るほど、どうしてこのアニメ映画が子供向けだったのか、疑問が深まるばかりなのです。
 例えば、特別な赤い布地で作られた赤い靴のエピソードです。赤い靴をはいた少女は、どういうわけか赤い靴に踊らされます。本人が疲れて嫌だと言っても、靴が勝手に動いて止まりません。そして、どうしても脱ぐことのできない赤い靴にあっちこっちへ引っ張り回されます。とうとうその少女はぐったりとして身動きしなくなってしまいました。
 当時私は子供心に、それがどういことか全くわかりませんでした。赤い靴をはいた少女が、ぐったりと倒れてしまうことに合点がいかなかったのです。彼女はそれほど悪いことをしたわけではないと、私は同じ子供の立場で思いました。たとえ悪いことをしたとしても、「子供だから」という理由で許してもらえなかったのか。赤い靴の少女をこんなに痛めつけて、そんなことがこの世で許されていいのか、とまで、その頃の私は思いました。
 また、マッチ売りの少女が馬車に跳ね飛ばされそうになるシーンを見て、私は子供心にショックを受けて何も言えませんでした。彼女は、何も悪いことをしていません。なのに、もう少しで通りがかりの馬車に轢かれそうになり、地面に転んでしまい、馬車の上から怒鳴り声を浴びせかけられます。売り物の大切なマッチ棒が地面にバラバラに散らばってしまいました。そのようなことが、当時6才か7才の少年だった私には、どうしてなのか、全くわかりませんでした。
 今になって思えば、私はその時初めて、不可解で不条理な世の中の一面を知ったのだろうと思います。ただし、映画で目の当たりにしたとは言うものの全くそれを理解できず、決定的な解答を得られぬまま、言い換えればクエスチョン(Question)のまま、今日まで生きて来てしまったようなのです。大人になった私は、これは、道徳で言う所の勧善懲悪や仏教における因果応報の思想では説明できない、キリスト教における原罪(人が持って生まれてくる罪)を表現しているのだと考えてもみました。がしかし、私としては、それでも十分納得できたとは言えないのです。
 この劇場用アニメを制作した人たちは、アンデルセンの原作の趣旨を忠実にアニメ化することを主眼としていたと思います。このアニメーションは絵の線がきれいで、アニメーターの技術としてはかなり配慮がなされて作られていたと思います。その一方、アンデルセンの原作の内容が含んでいるこうした不条理さや不可解さを純粋な心の子供たちに見せることについては、それほど注意が払われていなかったようです。
 世の中は、善や真であることを信じるだけでは生きてゆけない。悪や偽なることも含めて、もっと複雑で広くて大きなものであることを知らなくてはいけない。それでも勇気を出して、心の翼を広げることが必要だったのかもしれない。と、幼い時にこの劇場用アニメを見てショックを受けた私は、今ではそう思います。もし過去の或る時に、勇気を出して、例えば視野を広げたり社交性を発揮できていたならば、きっと私なりの答えが見つかったかもしれません。かくして、この『アンデルセン物語』という劇場用アニメは、幼い頃の私にそのきっかけを与えようとしていたのだな、と気がつきました。それで、『マッチ売りの少女』の原作を改めて翻訳物で読んでみようと、ふと私は思いついたのでした。