葛飾柴又に行ってみる

 去年は早々に一年の計を立てて長野県へ戻って作業を始めたものの、物凄い寒さに出くわして仕事が思うように進まなかったり、レタスの苗床のほとんどがモグラにやられてひどい目に遭いました。そのように出鼻をくじかれて、結局全体のスケジュールが遅れて、計画したことの半分くらいしか実行できなかったりと、憂き目を見る始末になったことは、多々反省すべきことでした。
 今年は、そうした今までの方針を変えて、じっくり計画を練ることにしました。あわてて長野県に戻らないで、東京の実家でぐずぐずしているのはそのためです。実は、実家と私に関係する諸問題の解決や、多少の金銭にからむ個人的な事務手続きなどもいろいろあって、東京にいる間にそれらを処理しなければなりませんでした。そうしてもたもたしている間に、案の定、今年の冬の冷え込みが厳しくなってきました。急いで長野県に戻っていたら、去年の二の足を踏むことになっていたことでしょう。一年の計画を立てるのは、これからでもまだ遅くはないと思いました。
 13日の金曜日に(と言っても、特に不吉なことはなかったのですが)そうした用件の一つをこなす都合で上野駅の近くへ行きました。その帰りに、ふと京成上野駅に寄ってみたところ、急に柴又へ行ってみたくなりました。そして、私は8年ぶりに柴又を訪れました。(実は、本当に行きたいと思った場所は、その先にあります。あとでそのことを書きます。)
 柴又駅を出るとすぐに、寅さんの銅像が目に入りました。よく見る風景ですが、どこかのオバサンたちが寅さんの銅像の前で写真を撮っていました。私は、帝釈天への石畳の道を歩いて行きました。団子を売っている『とらや』もありました。
 そのうち、横を通り過ぎたいくつかのお店の中から「お帰り。」「お帰り。」と声がかかって私はびっくりしました。私はここ数年、現実世界ではマドンナと出会わない寅さんのようではありますが、東京に一年に一回は実家に帰っています。けれども、寅さんと同じようなカッコをしているわけではなく、今回だって頭に安物の黒のニット帽を被っているような姿です。寅さんに間違われるはずはないのです。私のすぐ後ろを振り返ると、小学一年生くらいの坊やが「ただいま、ただいま。」とお店の人たちに挨拶していました。それで、私の疑念は晴れました。
 帝釈天に着くと、そのお堂に入らずに手を合わせたり(次に行く目的地があって、長居をできなかったためです。)、おみくじを取ってくれる獅子舞いロボットを見たりしました。お水をかぶっている観音様が手を合わしているので、私はその正面に一人で立って手を合わせてみました。その観音様と面と向かって手を合わしてみると、ちょっと不思議な気持ちになりました。
 この葛飾柴又の帝釈天は、私の実家からちょうど真っ直ぐ東にありました。(亀有駅は、私の実家と帝釈天との真ん中あたりに位置しています。)私が初めてここを訪れたのは8年前でした。その時は、ここを訪れることが本当の目的ではありませんでした。
 今回も、やはり同じで、葛飾柴又は、真の目的地への通過地点に過ぎなかったのです。本当の目的地は、そこからさらに江戸川の土手に行って、その江戸川の向こうの、はるか高台の上にありました。もう8年もそこへ行っていないので、今回そこへたどり着けるか、それは定かではありませんでした。あらかじめ地図やネットなどで、その位置を調べてこなかったので、江戸川の土手にのぼってみても、どこにそれがあるのか見当がつきませんでした。そこは、小説『野菊の墓』の文学碑がある場所でした。私がどうして、そういう場所に関心を持つようになったのか、そして、今回無事にそこへたどり着けたのか、という話は次回の記事に記載したいと思います。