野菊の墓文学碑

 伊藤左千夫の『野菊の墓』は、政夫と民子のいとこ同士の淡い恋愛とその悲劇を描いた小説です。私は、この小説を若い10代の頃から知っていました。しかし、その本を買って読んでは捨ててしまうということを何度も繰り返していました。この小説を、ある時は読みたいと思い、またある時は読みたくないと思ったからでした。ただそれだけの理由だったのですが、この小説が今でも絶版にならないのはちょっと不思議な気がしました。
 今から8年前に、私は江戸川周辺の地図を見て、偶然にもこの文学碑がある場所を知りました。その地図を頼りに、初めてその場所を訪ねました。
 葛飾区の柴又駅から徒歩で江戸川の土手に出ると、土手の下の川べりに矢切の渡し細川たかしさんの歌っていたあの『矢切の渡し』です。)の船着場が見えるのですが、私がそこに着いた時刻には舟が行き来していないように見えました。そこで、私は川の上流の方向に架かった長い橋を渡って、千葉県側の向こう岸に歩いて行きました。大回りの道筋になってしまいましたが、葱やキャベツが沢山できている広い畑の間の道を通って、その先にある南北に伸びた高台の下にたどり着きました。持参の地図に従って道を南下していくと、『野菊の墓』の文学碑がある高台のすぐ下に到着することができました。
 今回は急に思いついて出かけてきたので、地図を持ってくるのを忘れてしまい、おぼろげな記憶を頼りに高台に上りました。どこもかしこも住宅地になっていて、その文学碑のある所がわからないまま、私はとぼとぼと歩き続けました。
 幸いにも、矢切神社の近くで案内板を発見しました。私は、その案内板に書かれた地図に従って、その文学碑がある場所にたどりつくことができました。夕日はすでに、遠くの山々の裾に沈もうとしていました。見覚えのあった鉄の歩道橋には、『野菊の墓文学碑』と『野菊苑』の文字が記されていました。私は、石の階段を上って、その歩道橋の上を通って、『野菊の墓』の文学碑にたどり着きました。夕空はすでに富士山のシルエットになっていました。この文学碑のそばには、お寺とお墓がありました。それらすべては、8年前と比べると、みな掃除が行き届いてきれいにされていていました。
 8年前に私がここへ来た時には、その文学碑の近くにリンドウの花が咲いて枯れた跡がありました。政夫さんはリンドウのような人だ、という小説の中の一節が思い浮かびました。しかし、その時ここには、野菊が咲いた跡はどこにもありませんでした。民子さんは野菊のような人であった、という意味のことが小説では書かれていましたが、そこを訪れた季節が悪かったのか、野菊がどこにも見当たりませんでした。リンドウも野菊(ヨメナ)も秋に花が咲くと言われます。けれども、現実に私が見たものは、リンドウの花が枯れた跡だけでした。何の根拠もない想像かもしれませんが、その時の私には、政夫と民子の二人は例え花に生まれ変わっても結局一緒になることが許されない運命だったのではないか、とさえ思われました。
 そう言えば、私は現実の世界で、この『野菊の墓』に似た運命の二人を知っています。当人たちに差しさわりがない程度で書いてみましょう。この小説の主人公の政夫さんにあたる『彼』の観点から小説風に書いてみようと思います。
 彼には、同い年の異性のいとこがいました。仮に『民さん』と呼ぶことにしましょう。結論から言うと、彼が東京の会社で昼夜問わず働いている間に、その『民さん』は親の勧めでとうとう結婚してしまったそうです。『民さん』は、どういうわけか、それまでいくつもお見合いの話を断り続けていたそうです。十分な給料をもらっていて生活が安定している公務員の男性とのお見合いの話でさえ断っていたそうです。
 しかし、『民さん』の父親が胃がんのために余命一年位しか無いと知って、これまで世話になった親に花嫁姿を見せて安心させたくて、とんでもない男との結婚を決意したそうです。長野県の親戚の話によると、その男は、『民さん』が11才の頃に初めて出会った『彼』のように体のひょろひょろした人付き合い悪そうな男だったそうです。ただし、その男には、自営業をしている両親がいて、妹と弟がいたそうです。それは『彼』の家族構成と同じでした。結婚式に呼ばれた親戚の人たちは口々にこうウワサしたそうです。「相手の男が好きで結婚したんじゃなくて、相手の家族と結婚したんだよ。」(『民さん』は、このように今の世の中には珍しい、自分のことより他人に対して思いやりのある優しい女性なのだ、と『彼』は私に胸を張って申します。私はどちらかと言うと、東京育ちでスレているのでそうは思いませんけど…。むしろ『民さん』みたいな人には怒りをおぼえます。)
 彼は、虫の知らせか、ある夜一人で寝ている時に、彼の体の半分がちぎれてなくなってしまうように感じたそうです。(まるで、SMAPの『僕の半分』という歌のようです。ただし、この話は今から二、三十年前のことでした。)『彼』の母は、何か理由(わけ)があったのか、『彼』には何も告げずに、『民さん』の結婚式に出席したそうです。
 『彼』はいまだに、『民さん』がどこへお嫁に行ったか知らないそうです。先方も、長野県の親戚も、『彼』に何か恨みでもあるかのようにその先を教えてくれないそうです。
 私は傍観者として思うのですが、人の世はもともとうまく行かないのだから、理想ばかり追いかけていてはいけないのかもしれない。他人に見栄ばかり張っていてはいけないのかもしれない。自らと相手の気持ちの両方に対して素直にならなければ、結局ムダにいがみ合って苦しめあうだけなのだ。といった教訓を私は得ることができました。(私は近年になって長野県で働くようになったので、長野県で生きる人たちが苦労している側にも立てるようになったのです。)
 実は、『民さん』は、18才で地元の高校を卒業した後で上京して、5、6年ほど東京の銀行で働いていたそうです。長野県出身で、同僚や上司からも最初はいじめられたそうですが、持ち前の社交性を発揮してそれを乗り切ったそうです。父親の親戚の家にお世話になっていたそうです。『彼』はそのことを知らず、長野県にある『民さん』の実家へ行っても『民さん』に会えないことを寂しく思うだけだったそうです。『民さん』は『民さん』で、東京にいるのだから、父親が胃がんであることを知って長野に帰省するまで、東京でいつか『彼』に会える日を楽しみにして毎日を送っていたようです。
 私が『彼』から直接聞いた話ですが、こんなことがあったそうです。彼が11才の時、長野県長野市の山布施(やまぶせ)の部落にあった彼女の実家に行ったそうです。それまで、彼は彼女について何も知りませんでした。
 『民さん』は、『彼』の母の一番仲の良かった妹(すぐ下の妹)の娘でした。顔は中の下(ちゅうのげ)で美人ではありませんでした。ちょっと顔が醜い感じがしました。おかっぱの髪の毛が少し伸びた感じで、背が低くてチビでした。スカートの下にパジャマをはくような人でしたが、田舎者という感じがしなくて、その辺が『野菊の墓』の小説の中の民子さんに似ていました。
 実は、『彼』は同級生の女子とは誰とも気が合わなかったし、口をきいたこともほとんどありませんでした。そのことはずっと変わらなかったのですが、なぜか『民さん』とだけはちょっと話しただけで馬が合うとわかりました。そのうち『民さん』は、同級生の男子とうまくいかないんだと、『彼』に打ち明けはじめました。そこから、『彼』と『民さん』は二人だけで何時間も話を続けていました。長話をしてしまうのは長野県人の特徴ですが、まさか同い年の異性のいとこと長々とあれこれ話を始めるとは『彼』も考えてみたことすらなかったそうです。それ自体すごい奇跡だったのですが、初対面であったにもかかわらず、二人ともそれが当たり前で自然なことだと思っていたそうです。
 私はこの話を聞いて、「うーむ。」と思わず腕を組んでしまいました。『彼』はまた、『民さん』に何か言おうとすると、彼の考えていることと同じことを先に相手に言われてしまうことが少なくなかった、と言っていました。そう言えば、私なんかも、直接会ったこともない人のブログを見て、(大したことではないのですが)私が思っていたのと同じことを先に書かれてしまうことがあったりします。私は、そんな時、私とその人とはたまたま価値観が同じなんだな、と思ったりします。だから、『彼』と『民さん』とが価値観が同じか、似たもの同士だったことは、私にはよくわかりました。不可能なことはわかっていますが、『彼』が出会った頃の『民さん』に私も会ってみたくなりました。
 世の中には、生活などの価値観が合わなくて上手くゆかず、そしてお互いに我慢しなければならず、ついには別れてしまう男女だって少なくありません。もしも私が本当に人の良い『フーテンの寅さん』であったならば、そして、そのように『野菊の墓』の運命のような二人の事情をすべて知っていたならば、きっと何とかしようと奮闘努力したはずです。