そんなに耳が良いというわけではないけれど…

 それは、私が5歳か6歳の頃のことです。その日は、長野県篠ノ井から、私の母が「篠ノ井の叔母さん」と呼んでいた、私の祖母の義妹にあたるお婆さんが東京の私の実家に来ていました。そのお婆さんと、祖母と、孫の私の3人で、浅草の国際劇場へ、芝居とコンサートを見に行きました。
 私は、二人のお婆さんが昼の部で芝居を観ている間、観客席の外の廊下を駆け回っていました。一人で階段を駆け上がったり、駆け下りたりしているうちに、そこが一階なのか二階なのか三階なのかが判らなくなりました。それに飽きて観客席に戻ると、夜の部が始まるところでした。
 その夜、そこで東海林太郎(しょうじたろう)さんのコンサートが開かれる予定でした。若い人はもちろん彼がどんな歌手であるかを知らないことでしょう。幼い私も、テレビでしか見たことがありませんでした。ロイド眼鏡をかけて、燕尾服を着た彼は、スタンドマイクの前でいつも直立不動で歌いました。そのスタイルは彼独特のもので、子供たちの間でもふざけて、直立不動で歌う真似をする奴が必ずいました。

     泣くな よしよし ねんねしな
     山のカラスが鳴いたとて 泣いちゃいけない ねんねしな

という彼の『赤城の子守唄』を、幼い私でさえ知っていました。
 「さあ、東海林太郎さんが出てきて歌うよ。」という祖母の声に従って、私は自分に割り当てられていた席に座りました。その席は、舞台の真ん中のスタンドマイク全体が少し顔を上げればすぐ近くに見える運の良い席でした。舞台の真ん中に一番近い最前列の席から、3番目に後ろの席の、その幾つか左横にずれた位置、つまり、歌手が立つであろうそのスタンドマイクを斜め前から見上げる位置が、私の席でした。
 ところが、その時間が過ぎても、東海林太郎さんは現れません。観客席からはざわめきが起きていました。そのうちアナウンスがどこからともなく聞こえました。「東海林太郎さんは、体調不良のため、ここへ来られなくなりました。その代役として来られました三沢あけみさんに歌ってもらいましょう。」というような場内マイクによる説明がありました。そして、三沢あけみさんが舞台に登場して、二、三曲披露しました。
 私はその時に初めて『島娘の唄』を聴きました。生(なま)で間近で歌手が歌謡曲を唄うのを観るのも、私には初めてでした。実は、そんなタイトルの演歌や歌謡曲はありません。『島のブルース』が本当のタイトルでした。でも、幼い私にとって、それは『島娘の唄』でした。
 あとからわかったことですが、長野県伊那の出身者が唄うのを、長野県篠ノ井の在住者と長野県長野市の出身者がその孫を連れて、東京の劇場で観ていたことになります。東京でのこういうめぐり合わせは、長野県出身者同士ではよくある話でした。そして、お互い長野県出身者であることを知らなかったということも、よくある話なのでした。
 それはさておき、それから四十五年の月日が流れて、NHK総合テレビの『歌謡ショー』を先日たまたま見ていたら、三沢あけみさんがその『島のブルース』を唄っているのを拝見しました。そして驚いたことは、あれから四十五年も経っているのに、唄い方が全然変わっていないことに気がつきました。少なくとも、私の耳にはそう聞こえました。私の耳が特別良いわけではありません。でも、45年前に偶然にも生で聴いたのと、同じふうにテレビを観ていて感じました。確かにそれは、幼い私が耳にしたのと同じ『島娘の唄』でした。
 なお、同番組では、小柳ルミ子さんの『瀬戸の花嫁』を久しぶりに本人歌唱で視聴することができました。この唄がヒットして、もう四十年になるそうです。それをどう評価したかを、私は述べることはできません。もともと私は、音楽評論家ではありません。と言い逃れをしていますが、その理屈はこうです。私はオリジナルを酷評することはできないからです。なぜならば、オリジナルを批評することは、評価の基準を失うからです。まあ、その理由も逃げになってしまいましたが、その本人歌唱はおおかた良かったと思います。私の代わりと言っては何ですが、39歳の主婦の方(この曲のヒットした時には、まだ生まれていなかったようです。)のはっきりした意見を参考までに挙げておきます。彼女もまた、小柳ルミ子さんの『瀬戸の花嫁』をテレビでたまたま見かけたそうです。その感想は、「小柳ルミ子さんは、その年齢にもかかわらず、(ボディが)美しかった。」ということでした。このこともまた、歌手として観客に影響を与える重要な点の一つに違いないと私は思いました。