異国の唄 蘇州河辺(中国語の唄)の動画鑑賞

 はじめに、某動画サイト(YouTube)での検索で『蘇州河辺』の唄の動画にたどり着けなかった人のために、ちょっとだけテクニックを紹介しましょう。日本語ウィンドウズの標準システムでは、中国語で使われる漢字(簡体字繁体字)を表示して使うことは普通はできません。しかし、昔の日本文で使われていた漢字というものは、繁体字として今でも東アジアで使われているものがあります。(台湾や華僑の人たちに感謝しましょう!)それを利用すると、例えば『蘇州河邊』という文字列が作れます。この『邊』という漢字は、日本では『辺』の旧字体に当たります。日本語ウィンドウズの「スタート」ボタン→「すべてのプログラム」→「アクセサリ」→「システム ツール」→「文字コード表」を選択します。そこで『MS ゴシック』や『MS ゴシック』などの日本語TrueTypeフォントを選びます。後は『しんにょう』の部首の漢字グループを探して、画数の多そうな漢字の中から『辺』の旧字体である『邊』という文字を見つけて、「コピー」ボタンを押せばそれが文字列に貼り付け可能なデータになります。『蘇州河辺』という文字列の『辺』を範囲選択して、クリップボードにある『邊』という文字をそこに貼り付けます。そして出来た『蘇州河邊』という文字列をコピーしてクリップボードに記憶させておきます。それをYouTubeの検索枠に貼り付けて、検索ボタンを押せば、その唄に関する動画がぞろぞろとたくさん出てきます。興味のある方はお試しください。(後でわかったことですが、『ベ』を仮名漢字変換すると、旧字体の『邊』を簡単に得ることができます。必要な方はお試しください。)
 私は、YouTubeの動画サイトにこの唄の動画がこんなにあるとは思ってもみませんでした。そのことを知るまで、私はちょっとだけカン違いをしていました。前回のブログ記事で紹介してはみたものの、それほどの唄ではなかろう。また、NHK教育テレビの中国語講座で紹介してはいたものの、やはりそれほどの唄ではなかろう。中国で一時期だけしか流行っていなかった、いわゆる『流行歌』の一つに過ぎなかっただろう、と本心では思っていたからです。 
 ところが、だいぶ前のレコードを収録したものもあれば、最近の歌唱もありました。さらに珍しいことに、その歌手は老若男女いろいろでした。老いも若きも、男女の区別なく唄えるなんて、滅多にないことです。さらに、独唱もあれば、デュエットもありました。あの美しいメロディはほとんど変わらないのに、曲の伴奏は様々にアレンジされていました。動画そのものに関して言えば、最近アップされた動画が少なくありません。きれいなメロディは、人の心からそう簡単に忘れ去られないからかもしれません。しかも、そうした動画に対して評価が低いものは探すのに苦労するほど少ないです。
 それらの動画のコメントには、何と、中国語の歌詞の内容を英訳したものさえありました。この唄は、少なくとも日本国よりも遠い英語圏の人にもその良さが認められていたのです。その歌詞を英語に翻訳したものは、とてもていねいに理解しやすく訳されていました。日本のほうが中国に地理的に近いのに…と思いつつ、私は少しばかり口惜(くや)しく思いました。日本にとって中国は近いけれど遠い国であり、そう思わないと例えば喧嘩になってしまうのかなあ。つまり、日中友好でどんなに頑張ってきた人たちがいたとしても、結局尖閣諸島の問題でご破算になってしまうのかなあ、と悲しく考えてしまいます。日本人も中国人もお互いに疑心暗鬼になってしまうことは、過去の歴史の多くが語るところです。
 でも、文化的な交流を考えると、中国大陸なしには今の日本を語ることはできません。広い意味での文化交流を考えるならば、お米だって漢字だって仏教だって、中国大陸もしくは中国という国が無かったならば、今の日本はもっと別の国になっていたはずです。それだけの影響力を実際に私たちは中国から受けているはずなのに、その日常は何も影響が無いかのように平然としています。中国から飛んでくる黄砂にどれだけ私たち日本人は気を使っているでしょうか。
 そんなことを聞いたって愚問だよ、と答える人が多いかもしれません。それはきっと、私たちが隣人から干渉されるのを嫌って、隣人に対して無関心や無感動になっていることと同じなのかもしれません。その隣人との間に何も無いうちは問題は起きませんが、何かやりとりしなければならなくなったら問題なしには済まされません。その時の準備として少しでも互いのことを理解できる何らかの仕組みが欲しいところです。それは何気ない、日常的でありふれたことで十分なのかもしれません。私が中国の唄に興味を持っていたのも、そうしたことの一つだったと考えられます。