主権在民について

 現在の日本国憲法の前文の中では、「主権在民」もしくは「国民主権」について述べられています。私が今回なぜこのことに興味を持ったかを説明しましょう。一つは最近日本の多くの若者が「(外国よりも)日本がいいです。」と言っていることを私が気になっていることです。本当に「日本がいい」のかな。現在の日本人の大人が苦労しているのがわかってないんじゃないのかな。若い人もやっぱり現実逃避しているのかな。私と同年代の、彼らのモンペア(注・モンスター・ペアレンツ、monster parents)がそう言っているから、鵜呑みにしているのかな。などと考えてしまいます。
 もう一つは、もしも日本がどこかの属国になって(属国でなくてもいいのですが)国の最高責任者が外国人になったらどうなるかということです。そんなことは絶対起こらない。世界でそんな例は見たことも聞いたことも無いと言われる人は、世界の歴史をよく学んでいないと思います。
 私は高校三年生の時に、学校の授業では世界史をフランス革命までしか学びませんでした。日本史の近現代史は入試に出ないので勉強する必要がなかったのですが、世界史が大学の入試科目に入っていました。そのために、私は世界史の教科書の内容全部を三回読んで受験に備えました。すると、案の定、中国のアヘン戦争について80文字以内で述べよ、という問題が出て奇跡的に答えが書けました。最近ニュースなどで話題の中国人の「売国奴」という言葉のルーツとなったあの事件です。そのおかげで大学に合格できたと今でも私は思っているのですが、本当の自慢は最後の80文字目のマス目に「。」が入ったことでした。
 それはいいとして、私たち日本人は19世紀や20世紀の植民地時代や帝国主義のことを知らなすぎると思います。特に、外国人に支配されていた地元の人たちのことがわかっていない。学校で先生が教えただけでは、「主権在民」もしくは「国民主権」でなかった彼らがどんな思いで、どんな苦労をしたのか、ということが理解できなかったと思います。ましてや、日本人は、GHQ占領時のたった数年間以外は、外国人に国を直接支配されたことがありませんから、「主権在民」もしくは「国民主権」は当たり前だと思っているのかもしれません。でも、近隣の朝鮮半島を見てみても、そこに住んでいた人たちが当時の日本から『国家的主権』を奪われていたことは歴史上明らかなことです。後で述べますが、そのことが現在の日本の国益を損なう原因になってしまっていることは明らかです。
 よく、国の最高責任者の一人である内閣総理大臣がころころ代わるということが国内外で批判されていますが、この「国民主権」の考えからしたら全く問題が無いと私は思います。なぜならば、その人は、日本国民の代表であることに変わりが無いからです。それを批判したり不満をもらす人が言うとおり、いろいろと不便はあると思います。けれども、それを批判する人にもこう尋ねてみたいものです。「あなたは日本国民の代表がその人だと認めるつもりがあるのですか?」と訊いてみたいものです。そういう批判や不満を漏らすこと自体、「国民主権」の考え方をよく理解していないで、日本は他国の指導者の言われるままにヘイヘイと頭を下げてきた結果だったのかもしれません。
 そうは言うものの、日本国民にとって「主権在民」や「国民主権」ほどわかりづらい概念は無いのかもしれません。選挙のことに関連していることは誰でも理解できます。しかし、それだけではありません。よくわからないから、今後の憲法改正では削除しちゃいましょう、などと言わないでください。中国だって、あの島の「国民の主権」がどうだこうだと言っています。現在の中国は国土が全部国有地ですから、あの島が国民の主権の及ぶ範囲と考えているのでしょうが、それくらい大切なものなのです。
 その大切さを日本人が気づいていないような気がします。「国益」のことはわかっても、「国民主権」はよくわかっていないのです。だから、韓国の人たちの気持ちがわからないのは仕方がありません。なぜ韓国の大統領選挙が近づくとその候補者が反日になるのか、私たち日本人には、全く理解できないと思います。
 ここからは、私の考えたフィクションで述べてみたいと思います。もしも間違っていたら、これから書くことを空虚な妄想と見なしてかまいません。
 先日、NHK総合テレビで日本側の三人の論客と韓国側の三人の「日本語を聞き話せる」歴史専門家の討論会がありました。その番組を私は最後まで見ていたのですが、日本側の主張が強すぎて、フェアでないような気がしました。しかし、韓国の国営放送でも両国の立場が逆転した同じような番組が放送されたのではないのかと、容易に想像できました。そんなことが重要なのではなく、私は韓国側の三人の専門家の大人しい態度に不安感を持ちました。ほとんど何も言わないサンドバッグ状態でした。彼らの立場からすれば、下手なことをその番組で発言して、日本人の視聴者を刺激して激怒させたくなかったのかもしれません。確かに、彼らは日本のことを十分よく理解していると思いました。
 しかし、もしも私が韓国側の立場であったならば、ずばり以下のようなことを言ったと思います。(あくまでも、フィクションです。)
(韓国側)「日本は、韓国を独立国として認めてくれているのでしょうか?」
(日本側)「今は、竹島問題について話しているのです。そんなことは関係ないでしょう。」
(韓国側)「いいえ、関係あります。独島(トクト)は、韓国にとって『独立の島』という意味なのです。韓国が1945年に日本から独立したことを記念して、日本から奪った島なのです。文句ありますか。」
(日本側)「その島を日本に返してくれませんか。」
(韓国側)「それは、今述べた理由のためにできません。」
 このように、ズバッと言って欲しかった思います。当然日本人は、この議論に激昂(げっこう)すると思います。しかし、ここには大事な問題が示されていると思います。あの有名な中国の外務省の報道官の人が、日本の国会議員が靖国参拝に行ったことに対して「過去の歴史にかんがみて(略)」と最近言われたように、私たち日本人は1945年以降の日韓感情を考えてみる必要があります。
 それは、あたかも母と子の絆に例えられると思います。日本はもともとそうは思っていなかったはずです。しかし、韓国と付き合ううちに、どうしても戦前の日韓併合の時代の調子を引きずってしまったようです。つまり、韓国の側からすれば、いつまでも子ども扱い、つまり、属国扱いされている感じだったのです。私たち日本人は、そのことに気づいていませんでした。ですから、日本人がフレンドリーに気安く声をかけたりアドバイスしたつもりが、相手の韓国人にとってはいつも上から目線で、プレッシャーや挑発としてとられてしまったようです。
 そのおおもとの原因は、韓国が日本から独立する前にあったと思います。その時代、朝鮮半島を統治していた最高責任者は外国人(つまり、日本人)だったのです。外国人に国を支配されると言うのはこういうことだったのです。もちろん親日派の朝鮮の人たちが、その間を取り持っていたでしょうが、彼らは日本側の言いなりだったのではないかと思います。要するに、朝鮮の人たちによる主権在民もしくは国民主権ではない、ということはこういうことだったのです。
 それがイヤだ、という気持ちが今日の韓国の反日感情であり、国家独立の思いなのです。経済的にも軍事的にも政治的にも日本の属国になりたくない、日本の思うとおりになりたくない、というのが今でも韓国の人たちの正直な気持ちなのです。もちろん、彼らにとって親日感情などは、我慢とあきらめ、つまり、現実への妥協でしかないのです。けれども、それを表面に出せない。彼らの儒教的な考え方からすると、目上の人には逆らえない。面と向かって反抗できない、という気持ちも依然としてあるかもしれません。
 私たち日本人は、どうすればいいのでしょうか。まず、こう言うべきでしょう。「私たちは、ああだこうだと言うけれども、それは『そうしろ。』と強制しているのではないのです。隣人か友人のアドバイスと同じです。あなた方は1945年に日本から独立したのだから、たとえどんなことになっても、独立国として自国のことは自国で判断してやっていかなきゃならないと思います。」と、突きはなして日本側は主張すべきなのです。もちろん、私たち日本人はこの隣人を理解する努力を今後も続けていかなくてはならないでしょう。
 このように、「主権在民」もしくは「国民主権」ということは、多くの日本人にとって目に見えない概念かもしれませんが、国際理解のためにも意外と大切な、無視できない考えであることがわかると思います。誰もどこかの国の属国になって、その国の社会制度や生活習慣や文化や仕事のやり方などを強要されたくはないでしょう。そして、自国が、その国民主体の政府や法律や治安維持機構をもつ独立した国家であるということが、「自国はいい国だ」なんて言うあやふやな愛国心というもの以上に大切であるということがわかると思います。