憲法について知ってもらいたいこと

 今日は、憲法記念日という祝日でした。テレビを観ても、数多くの番組で日本国憲法について話題にしていました。憲法を改正するか改正しないか、第9条はどうするのか、といったことも話されていました。
 実は、私は、これまで選挙などで、護憲派の人たちを応援していたのですが、昨今のニュース等を観ていると、やはり自衛隊のことは、日本国憲法に明記したほうが良いように思えました。なぜならば、日本国民が、自衛隊に守られているのは事実だと思われるからです。
 確かに、日本国憲法に明記されている平和国家の理念は大切なことです。それは、北朝鮮に関するニュースを観るたびにそう思います。まさに、それは、昔の軍国主義の日本がそのようであったのではないかと、考えさせられます。国民への戦意高揚の仕方が、昔の日本のそれと似ているような気がしてなりません。
 日本が法治国家である限り、日本国民が憲法を守るのは義務だと言えます。また、憲法は、国民生活の基幹となるものだとも言えます。しかし、憲法がいついかなる場合においてもオールマイティーであるかと言えば、そうではないと思います。それは、国民の人権や自由や平等を守るものとされますが、日本国憲法は日本国民のためにあるものなのです。つまり、その国の憲法と言うものは、その国の人々のためにあるものであって、外国人の立場からしたら、それに従う義務さえありません。日本国憲法に従って、現在の日本人がどんなに平和国家の理念を唱えようと、戦争放棄を訴えようと、他国の首脳およびその国民が、それに同調するとは限らない、ということを私たち日本人は、一人一人肝に銘じておく必要があります。
 昔、テレビの某バラエティー番組中に、誰かが「国籍不明の潜水艦が、日本の近海でうろうろしている。」というようなことを、冗談っぽく発言していました。それを聞いていた私は、「それが、もし、本当だとしたら、国家機密じゃないか。軽々しく発言しちゃ、ダメじゃないか。黙ってなきゃいけないじゃないか。」と思いました。それを視聴したほとんどの日本人は、「そんな根拠もないこと、あるわけないじゃないか。」と考えて、事実として信じなかったようです。そして、そのようなことは、すぐ忘れてしまったようでした。
 ところで、私たち日本国民の多くは、北朝鮮拉致問題のことを、それほど深刻には考えていなかったと思います。しかし、フィクションを用いて考えてみれば、日本の近海に出没する国籍不明の潜水艦の乗務員(普通、工作員という言葉を使いますが、ストレートに言えば軍人)が日本人を拉致して、『平和国家』から連れ去ることは容易なことと言えましょう。何の痕跡も残さず、一度連れ去られたら、その人は二度と日本に帰還することはできなくなってしまうことでしょう。北朝鮮に限らず、どんな国であっても、そのことがばれないかぎり、本当のことは言わないと思うのです。
 つまり、日本国憲法は、日本国民の自由や人権を唱えているにもかかわらず、日本国民の中に拉致被害者を生んでしまい、いまだにこの問題を解決できていないのです。こうした拉致問題に限らず、世界の歴史を振り返ってみれば、燃料を積んだ補給船や、多くの観光客を乗せた客船が、海上で原因不明の沈没をしたことが、戦争の前触れになった例がいくつかあります。そうしたことは、憲法がいかに平和国家を唱えていても、その国の領海内でおこりうることです。
 つまり、憲法というものは、自国の国民が、自らの過去を反省して、より良い国民生活と国家を目指すものであって、一方、他国の悪意(反日運動や慰安婦問題なども含みます。)に対しては、全く無力であることを、これからの私たち日本人は知らなければなりません。なお、本当のところを言いますと、私が護憲派の人たちを応援するのは、そのことを今以上に護憲派の人たちに理解してもらいたいからと言えます。
 よって、私は、こう思います。憲法が、現状に合わない理念を唱えるのは、いっこうにかまわないと思います。一般的に言えば、憲法改正しなくてもいいという意味です。しかしながら、日本人が、いつまでも過去の戦争の記憶にばかりとらわれて、中国や韓国や北朝鮮などの現実の近隣諸国との情勢に目をつぶってしまうのであれば、国民の安全を心配している日本政府の、第9条の憲法改正を受け入れなければならないと思います。