映画館で観た『ハリマオ』という映画

 1989年に私は、松竹系の映画館へ和田勉監督の『ハリマオ』を観に行きました。『怪傑ハリマオ』と言えば、三橋美智也さん歌唱の主題歌を私は思い出しますが、テレビやラジオのドラマは一度も視聴したことがありません。ストーリーもよく知りませんでした。それで、陣内孝則さん主演の『ハリマオ』という映画を観に行ったのですが、映画館の大きなスクリーンで繰り広げられた幾つかのシーンにびっくりしてしまいました。
 それらは残虐なシーンと呼ぶには、一瞬の出来事のシーンであまりにスカッとしていて、見た当初は恐怖感がわきませんでした。映画を観終わってからしばらくして、そのなまめかしいシーンを思い出しました。けれども、それは東京大空襲で、焼け焦げたマネキン人形のような無数の死体が写っている写真を見た時と同じで、それほどショックを感じませんでした。
 私が『ハリマオ』という映画を観て記憶していたことは、そのストーリーでもなければ、そのキャストでもなければ、そのテーマでもありませんでした。それは、マレー半島にあった日本人の集落と中国人(華僑)の集落でそれぞれ起きた虐殺事件のシーンでした。日本人の集落には中国兵が、中国人の集落には日本兵が、それぞれ襲撃を繰り返していました。その応酬のたびにさらに虐殺が繰り返され、その一部分が映画館の大スクリーンに視覚化されているというような感じを受けました。
 日本人の子供か、それとも、中国人の子供か、それとわからぬ一瞬のうちに、その子供の首が、中国兵もしくは日本兵の銃剣によって吹っ飛びました。虐殺に対する報復として、新たな虐殺がやり返されました。何が善で、何が悪なのか、全くわからない混沌とした状況を映画館の大スクリーンで観ながら、私は心の中で、どこかを彷徨(さまよ)っていたような感じでした。言い換えれば、銀幕に映し出される登場人物一人一人の悲しみや苦しみに対して、観客の私は、「何もしてあげられない」という無力感に苛(さいな)まれました。
 現在の私は、どうしたらそのような不幸の連鎖を断ち切ることができるかを考えることができると思いました。それは、相手が、こちらの言動をどう見ているのか、どう感じているのか、どう考えているのか、等々をこちらがよく知ることだと思います。相手の言動がどうだこうだ、ということではないのです。そして、その作業は、国家政府や公務員に全面的に任せるのではなく、それよりも、はるかに数の多い普通一般の人たち(国民)が一人一人考えて、答えを出す作業が望ましいと思います。
 そのような視点を利用して、例えば、領土侵略と尖閣諸島問題の関係を考えてみましょう。もちろん、今回は、国家政府や公務員や当時の東京都知事の言動にも、できるだけ言及しないことにします。あくまでも、日本や中国の大多数の庶民の感じ方や考え方を中心にして、考察してみましょう。実際には、いろんな考え方や主張があることでしょう。しかし、個人の権力の大きさではなく、人間の数からすれば、国家政府とその公務員は、国民全体からすればそのわずかな一部でしかありません。いくら国民全体を代表しているからといっても、それには限界があるのかもしれない、ということが、そのうちにわかるようになるのかもしれません。
 まず、尖閣諸島中国漁船問題は、領土侵略とは関係がないので、ここで取り扱う必要はありません。先日決まった特定秘密保護法で公務員を取り締まれば済むことです。また、中国で起きた一連の反日運動についても、ここで取り扱う必要はありません。なぜならば、その反日運動そのものには何も見えてこないからです。その反日運動の背景にあった、日本に対する中国の人たちの不安を知ることが大切なのです。
 それらの事柄よりも、尖閣諸島を日本が国有化したことに、その問題の始まりがあったと言えましょう。誰でも知っていることだと思いますが、現在の中国は共産主義国であり、その領土は全て国有化されているという建前になっています。従って、中国の庶民の目からみれば、日本が尖閣諸島を国有化したということは、すなわち「日本が尖閣諸島に領土を広げた。」もしくは「日本は、尖閣諸島を足がかりにして、中国への領土侵略を将来、狙っているのではないか。」というような憶測が生まれてくると思います。しかしながら、その疑惑を完全に払拭するような日中間交渉が政治的かつ外交的に行われた、というニュースを私は一度も聞いたことがありません。
 そのような中国の庶民が抱きそうな憶測に似たようなことを、私たち日本人の側もしています。「中国が、尖閣諸島にこだわるのは、日本への領土侵略を将来、狙っているのではないか。そこを拠点として、沖縄を次に狙っているのではないか。」と、ざっと憶測していると思います。
 確かに、日中両国で冗談ではなくて、本気でそれを考えている人もいるでしょう。しかし、少なくとも日本人の私は、尖閣諸島を国有化したことは、中国への領土侵略が目的ではなかったと主張します。別の理由があったと思いますので、それを私の推測するところで後で述べたいと思います。
 確かに、過去の歴史を振り返ってみると、「満州は日本の生命線である。」とか「中国への軍事的進出は、日本が経済的に生きのびるためにやむをえない。」と考えていた日本人が多くいました。そういう考えの日本人がこの世に存在したのは、歴史上の事実です。しかしながら、1945年に太平洋戦争が終わってからは、そういう考えの日本人は皆無になったと言っていいと思います。現在では、日本人の誰一人として、中国への領土侵略など考える人はいないと思います。ただし、そのことこそが、中国の人たちに一番伝わっていないことなのです。
 日本が尖閣諸島を領土として守ろうとしているのは、中国の軍事力と政治的影響力が拡大していくことに脅威を感じているからにほかなりません。その誤解を完全に払拭するような日中間交渉が政治的かつ外交的に行われた、というニュースも私は一度も聞いたことがありません。
 私が考えるに、日本政府が尖閣諸島を国有化せざるをえなかったのは、以下のような事情があったからだと思います。そこを国有化していないと、そこに日本国民のうちの誰かが居住したり、何か建造物を作ってしまうことが起きかねなかったと思います。国がそこを管理していれば、国の許可なくして、誰もそこに居住することはなく、何もそこに建造されなくなります。いずれも、国が許可しない限りできなくなります。そのことによって、中国や台湾の人たちとの、現地での衝突という不測の事態を防ぐことができ、日本人の生命と財産を無傷で守ることができるようになるわけです。
 たとえ尖閣諸島の付近に石油資源があったとしても、日本はそれを採掘しないと思います。人類の過去の歴史を振り返ってみればわかることです。そうした資源の奪い合いは、国際紛争に発展しやすいからです。当然、そこは、国民生活が営めない危険区域となるわけです。そもそも、尖閣諸島の付近にそうした資源が眠っているというのは、紛れもない事実なのでしょうか。結果として、それは東アジアの状勢を不安定にするしか意味のない情報ではないのか、と私は疑っています。
 どう考えてみても、『ハリマオ』という映画に見られるように、お互いを疑い、敵意を抱き続けることばかりでは、良い結果をもたらすはずはないと思います。せめて、日本と中国の多くの普通一般の人たちが疑心暗鬼を生じないよう、何か良い手立てを考える必要があると思います。