『レインボーマン』の主題歌・挿入歌から言えること

 先日、地元で『きゅうりの大先生』と呼ばれている八十代半ばを過ぎたおじいさんが「あのくたらさんみゃくだいぼだい。あのくたらさんみゃくだいぼだい…。」と唱(とな)えているのを私は聞きました。「もしかして、レインボーマンなのか?」とか「そのおじいさんは、レインボーマンをテレビで見て知っていたのだろうか?」などと私は憶測してしまいました。実は、そのおじいさんは禅宗曹洞宗の一派)を信仰していて、それはそのお経の言葉だったのです。
 というわけで、今回は実写特撮ドラマやアニメとして日本のテレビでかつて放映されていた『レインボーマン』について述べたいと思います。特に、実写モノのドラマのほうは世界的にも例を見ない(というか、どの国のテレビも真似のできない)オリジナリティの高いドラマ作品だったと思います。政治的に見ても体制的に見ても、ほとんど放送不可能なものがなぜ当時の日本でできたのかと申しますと、愛と平和と自由に対する当時の日本人の問題意識が高かったからに他なりません。
 そのドラマの詳しく正しい内容については、ネット上に文章で公開されているものがいくつかありますので、そちらを参考にしていただきたく思います。私としては、このドラマのOP・ED両主題歌と挿入歌について、意見を以下に述べます。それらは、『行けレインボーマン』『あいつの名前はレインボーマン』の両主題歌、『ヤマトタケシの歌』『死ね死ね団のテーマ』というタイトルがそれぞれについています。それらについての問題点や意見について、私は述べたいと思います。
 このドラマはもちろん子供向けに制作されたものだったと思います。当時多感な思春期だった私は、このドラマを見ていろいろと考えさせられました。当時の日本人は高度経済成長期を経て、欧米人から『エコノミック・アニマル』と呼ばれていました。経済成長で金銭面・物質面は豊かになったものの、精神面・文化面は貧しかったという意味が、その言葉には含まれていました。
 そのことの真偽はさておき、日本人を恨んでいる外国人がいるということをこの番組のフィクションの世界で、当時の私は知ることができました。それは、(今になってみると)ウイルスに対するワクチンのようなものだったと思います。従って、テレビのニュースなどで中国の反日デモを見聞きしても、韓国の従軍慰安婦問題の関連のことを知っても、感情的にならずに冷静に事の次第を見守ることができました。
 要するに、『レインボーマン』という番組は、日本の体制や、特定の個人や団体を批判したり攻撃することを目的とするドラマではなかったわけです。『愛の戦士』と呼ばれるレインボーマンが、昔の罪のために国籍不明の外国人に恨まれ虐(いじ)められる日本国民を、それでも守ろうとして悪と戦う、その愛の深さをテーマとしたドラマだったのです。
 そのことは、この番組の4曲の主題歌・挿入歌を視聴すれば、さらにそれらの歌詞をちゃんと知れば、もっと良くわかると思います。ただし、いくつかのネット動画に見られるような、特定の個人や団体を批判・攻撃するようなものは、適切でないと思います。『あいつの名前はレインボーマン』や『死ね死ね団のテーマ』の歌詞をよく読むとわかると思いますが、それらは決して日本人の自虐ではなく、日本人自らに対する蔑視でも憎悪でもないということを理解するべきだと思います。その歌詞の字面(じづら)だけを追えば、自虐にも蔑視にも自己嫌悪にも取れましょう。しかし、それを日本人自らが表現していることに、私は賢明さを感じるのです。日本人自身が、自らのことをよくわかっていなかったとしたら、そのような歌詞の表現はおそらく生まれてこなかったことでしょう。日本人自身が、自ら反省して、善悪を道徳的にきちっとしているからこそ、そのような明快で痛快な歌詞を書けるのだと思います。また、ありふれた言葉かもしれませんが、それらの歌は、音楽的にも面白くできていると、私には思われました。
 私個人の意見で申し訳ありませんが、この『レインボーマン』というテレビ作品こそ、中国や韓国の人たちに日本のテレビ番組の一つとして観てもらいたいと思うのです。その結果、このドラマの主旨が、日本人の自虐や自己嫌悪と取られてしまうかもしれません。また、ミスターKや死ね死ね団は、彼ら外国人への当てこすりと思われてしまうかもしれません。しかし、大事なことは、他にあります。戦後の日本人が考えていることそのものを、このドラマのテーマから彼らに感じ取ってほしいのです。侵略戦争の金銭的補償でうまく伝えられなかった、日本国民の自責の念をそうしたドラマの内容を通じてわかってほしいのです。すなわち、あの日本の敗戦から、日本国民が引きずってきた気持ちを、中国や韓国の人たちに少しでもいいから知ってもらいたいと思うのです。従って、なぜレインボーマンが『愛の戦士』と呼ばれるのか、彼らに是非ともわかってほしいと思います。
 日本人は、決して歴史認識がないわけでも、それがおかしいわけでもありません。もちろん、中国や韓国の人たちに、そう思われても仕方がないことは事実です。でも、立場や考え方が違う人や国が、同じ歴史認識を持っていることのほうが怪しいし、おかしいと思います。(私はそう思うのですが、どうでしょうか。)いずれにしても、互いに相手の立場を見抜いて、どこがどう違うのか。相手がどんな事情を抱えているのか、どうしてこちらからそれが見えないのか等々を探ることは、決して無駄な作業ではないと思います。現に、中国や韓国の人たちは、日本国民がどれだけ自責の念を抱えてきたのかを推し量ってもいないし、わかってもいないと思います。(それもまた、仕方のないことかもしれませんが…。)
 『赤いコーリャン』の作家がノーベル文学賞を取れるのでしたら、『あいつの名前はレインボーマン』や『死ね死ね団のテーマ』の歌詞はそれと同等の芸術的センスがあるのではないか、と私は心の内で密かに思っています。少なくとも、旧日本軍の兵士の悪行よりも、『死ね死ね団』の日本人殲滅(せんめつ)作戦計画のほうが現実的でスケールが大きいような気がするのです。