先日、韓国ドラマの『秋の童話』を昼ドラの時間にテレビでたまたま見かけました。日本では、もう二十年くらい前に放映された韓流のテレビドラマでした。が、いまだにその内容の良さは多くの人たちに認められているようです。つい最近私は、地元のレンタルビデオ屋さんに行きました。そこで韓流ドラマのコーナーに寄ってみました。すると、その『秋の童話』は、全巻貸切り状態でした。おそらくテレビで見ただけでは物足りなくて、DVDビデオを借りてじっくり見たいと思った人がいたのでしょう。
このドラマでは、『祈り』というドラマ挿入歌と『Reason』というエンディング・テーマ曲が唄われていました。もちろん、どちらの曲もハングル(韓国語)の歌詞で唄われていましたが、とてもメロディーのキレイな曲でした。そこで、ネット上でも、これらの唄の歌詞を日本語訳付きで表記しているサイトが少なくありません。私も、それらのいくつかを閲覧しました。
実は私は、このドラマをテレビで見ていた時から、それらの曲はハングルではどんな言葉の意味で唄っているんだろうかとか、ハングルは得意じゃないから日本語で唄えたらいいのになあとか、私は思っていました。『天国の階段』という韓流ドラマの主題歌の『会いたい』(ハングルでは、その曲のタイトルを『ポゴシプタ』といいます。)という曲には、すでに日本語バージョンがあって、とても良い曲であることを知っていました。ですから、『秋の童話』のそれらのテーマ曲を、言葉の意味をかみしめて唄えたらどんなにいいだろう、と私は長い間考えていたのです。
ネット上で「秋の童話 祈り 歌詞」で検索しますと、それらの唄のカタカナ読みや日本語訳が付いている歌詞の紹介を見ることができます。あるウェブ・サイトでは、その『祈り』という曲(ハングルでは、その曲のタイトルを『キド』と言います。)は、次のような訳つき歌詞で紹介されていました。その一部を記述します。(ハングルの歌詞は、今回はカタカナのみで表記しました。)
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クッテン ナン ミチョ モラッチョ
そのとき 僕は まるで わからなかった
ナル ポドン クデ ヌンピ
僕を 見ている 君の 眼差し
チャグン クデ オッケジョチャド
小さな 君の 肩さえも
アナジュルス オットン ネガ シロッチョ
抱きしめられ なかった 僕が 嫌だったんだ
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このように、ハングルと日本語とは1対1の対応で語順もピッタリ同じで、逐語訳のようになっていました。ここまでハングルが完璧に日本語に訳されていれば、そのイメージも言葉の意味も完璧に伝わり、日本語でも簡単に唄えそうなものだと誰もが思うことでしょう。ところが、翻訳というものは、外国語の言葉を正確に訳せば訳すほど、注釈や補足説明が多くなって、母国語(この場合は日本語)に変換した場合に言葉が長くなってしまいます。ハングルで「ナ」は「僕」の意味であり、「ナン」は「僕は」の意味であり、「ナル」は「僕を」の意味であるとわかっていても、言葉の音数を同じにすることはできません。つまり、そのままではハングルで唄えるように日本語では唄えないのです。カタカナでの表記に従って、ハングルに近似している発音で原曲を唄うしかないのかもしれません。原曲から受ける音楽的なイメージを壊さないための普通の方法として、それは必要なことと言えます。
一般に、母国語でない外国語で原曲を唄うということに関して、私は半分は良いと認めていますが、半分は納得がいっていないと思います。良いと思うのは、その外国語の発音が身についてよくなる点です。言葉の意味を考えずに、発音もしくは発声や唄い方に注意が集中できるためです。
私は公立中学校で一年間、英語の非常勤講師の先生(その先生は、個人で学習塾もやっていました。)に学んだことがありましたが、こんな話を聞いたことがあります。彼の塾に通っていた中学生の女の子で、英語の発音のきれいな子がいたそうです。そこで、なぜそうなのか聞いてみたら、当時流行っていたカーペンターズの"Yesterday Once More"が好きで、よく聴いていたそうです。そして、その唄い方を真似して一人でよく唄っていたそうです。それ以外には特別なことは何もやっていなかったのですが、塾で英語のテキストを音読させると、誰よりも英語がきれいに発音できるようになっていたそうです。「好きこそものの上手なれ」と昔から言われていますが、それを地で行く話でした。
一方、納得がいっていない点は、外国語の表現している言葉の意味がわからなくても唄が唄えてしまう点です。音楽は、メロディーとリズムと発音さえ真似できれば、その真似が容易にできそうなのです。しかし、それはあくまでも曲のコピーであってカバーではありません。一つ一つの言葉の細かい意味までは押さえる必要はありませんが、その唄がどんな雰囲気の唄なのか、そのおおまかなイメージを母国語でいつも抑えておくことは大切なことです。その意味での正確な翻訳は必要だと思います。
従って、異国の唄を日本語で唄えるようにするためには、できれば本当は、まず原曲のイメージを母国語で理解していることが必要だと言えます。そして、そのおおまかなイメージに矛盾しないように、その曲の細部を考えていくことが大切なのです。当たり前のことですが、そのために例えば、ハングルの原曲の歌詞の音数と、日本語でカバーした時の歌詞の音数をほぼ一致させなければならないわけです。
さらに、もう一つ問題があります。それは、逐語訳された日本語の表現です。それを読んで、何となく意味がわかるけれども、何となくよくわからない。一歩譲って、詩的な表現であると考えてみても、何となく違和感があって何かしっくりと来ない、と私ならば思います。その日本語の訳詞が「私たちが日常生活で使っているような自然な日本語になっていない」ということが、その根本的な原因になっていると考えられます。一般に、外国語からの逐語訳は、そういうことが多いと思います。ハングルと日本語のようにほぼ語順が同じであっても、国の言葉が違う限り、日常的に使われる表現形式が違うのは当然のことなのです。例えば「小さな君の肩さえも抱きしめられなかった僕が嫌だったんだ」なんて、日本語で言うならばそれは変な日本語です。
ここで注意すべきことは、外国語の逐語訳が絶対に悪いと言っているわけではないのです。逐語訳が必要ないとか、やっちゃいけないと言っているわけではないのです。以下のように、その弊害(デメリット)を知っておくだけで十分なのです。要するに、変則的な日本語であるために、何となくわかるけど、何となくよくわからない。歌詞の言葉の意味することが、明快かつストレートに聴き手に伝わらない。まどろっこしい表現の理解に聴き手が余計な時間を費やしてしまう。等々のことが気になります。
よくフランス人が母国語の乱れが気になって、フランス語の表現を正しく教育しているという話を聞きます。なぜそんなことが必要かと言いますと、移民が増えたりグローバル化の影響を受けたりして、従来のフランス語の規則を守らないことが多くなりました。そのためにわかりにくい言語表現が増えてしまい、日常の言語伝達がスムーズに行かなくなってきたのです。そうした傾向はフランス語だけではなく、世界のどの言語でも起きていることです。が、その点については、別の機会に述べてみたいと思います。
日本の若い人たちの作る歌詞には、わざとこうした変なわかりにくい日本語にして、非日常的な世界を表現している場合があります。それはそれで自由な表現でよいのですが、今回の『祈り』のようなラブソングでそれをするならば、内容が倒錯して、わかりにくい表現になってしまいます。それに、歌詞がだらだら長いと、韓国人男性の歯切れのよいカッコよさも表現できません。そこで、私は次のような歌詞にして、その感情をもっとストレートに表現してみました。原曲の歌詞と同じように、自分自身を突き放して、自己の姿をやや客観的に外から見ている点にも注目してください。
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クッテン ナン ミチョ モラッチョ
きみ の まなざしに
ナル ポドン クデ ヌンピ
こた えら れぇずに
チャグン クデ オッケジョチャド
かた さえ 抱けなくて
アナジュルス オットン ネガ シロッチョ
ああ、 なさ けな いよ、 ぼくは!
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原曲の唄のテンポに合わせた、ありふれた表現の、自然な日本語の歌詞に表現し直したわけです。原曲の雰囲気を壊さずに、限られた音数の中で必要な言葉だけを選んで表現するやり方は、俳句や和歌や川柳などと同じだと思います。その歌詞にメロディーやリズムを加えて、唄として唄ってみると、どちらの日本語訳が、心にグッとくるかは明白だと思います。
ハングルの曲を日本語にカバーする場合(その逆も同様だと思いますが)、そうした原曲のイメージを大事にするのは、英語との場合と比べて容易にできるのかもしれません。私がネットで閲覧した歌詞訳のいくつかは、あともう少し表現の工夫をすれば、曲全体が日本語で唄えそうなものが少なくありませんでした。
しかし、訳をした人自身が、うすうすそれに気づいてはいても、自身の詩的な表現スタイルに縛られてしまい、原曲の言葉のリズムに合わせるのを訳の途中であきらめてしまった形跡があちこちで見られます。そのようにあきらめたほうが、楽であるには違いありません。翻訳の作業は、適切な言葉の意味を選んだり、原文の微妙なニュアンスを表現するために、膨大なエネルギーを消耗します。だから、言葉の調子とかリズムにまで気を使うということは、そう続けられることではないのでしょう。
私としては、それがちょっと残念に思えました。逐語訳からあともう一歩だけ日本語の表現を工夫すれば、日本語で原曲をカバーできると考えられたので、ちょっとだけ手をつけてみたのです。当然の結果として、上手くいく場合と、いかない場合があるでしょうが、そんなふうに上手くいった場合は、今後もなるべく発表してみたいと思います。
「好きこそものの上手なれ」という古い言葉を上に書きましたが、「〜こそ〜なれ(「なり」の已然形)」などは係り結びという日本の古文の法則の一つです。こんな日本語の古文の表現を高校で学んだからといって、何の生活の足しにもなっていませんし、何の役にも立っていません。けれども、その言葉を書いた人の意図、すなわち「何かものを好きになるという心」を強調したい、聴き手にそれを強く伝えたいという意図は私でも読み取れます。上手になれなくても、たとえ自己満足でも、私にとってそれがわかるということは良いことだと思います。