ECO『最後の恋』の日本語カバーに挑戦!

 前回の記事で登場したECOの『最後の恋』(ハングルの曲のタイトルを日本語訳するとこうなると思います。)という韓国ポップス(K−POP)の曲を日本語カバーしてみようと思います。この曲は、ECOという韓国の女性3人組グループが1998年に3番目に出した『Voice Of Love』というCDアルバムの中の曲の一つでした。私は、そのCDアルバムを買ったことはありませんでしたが、ケーブルテレビの『STAR PLUS/アジアTV』でやっていた韓国ポップスの番組で、『最後の恋』のMVを見たことがありました。台湾のユキ・スーさんが1999年に歌唱していた『他忘了回来』が、当時の韓国ポップスの中国語カバー曲だったことを知って、私はその原曲(オリジナル)がこの曲であることを突き止めました。
 当然のことながら、この曲は韓国語(ハングル)で歌唱されています。従って、どんな内容の曲なのか知りたいところです。ところが、今のところ、この曲の日本語訳はネット上で探しても見つかりません。そこで、私はこの曲の歌詞をフレーズごとに、ネットの無料機械翻訳サービスにかけてみました。それに合わせて、朝鮮語の辞書をこまめに引いて、語句の意味や文法的な確認をしていきました。そして、変な言い回しになった箇所や、日本語として意味がつかめない箇所を直していきました。そのために、多少、意訳気味になってしまった歌詞のフレーズもあります。しかし、曲の細部よりも大意を優先しました。曲全体の意味内容を、日本語の歌詞でつかめるようにすることのほうが、大切であると思ったからです。
 このように、今回もその翻訳の経過においてはいろいろとありました。けれども、結果として、次のような日本語カバー曲の歌詞を私なりに作ってみました。


     『最後の恋』


あなたは今どこへ
それっきりで 別れたくないのよ
月日が過ぎてゆくと
わけもなく 涙流していたわ


恋しさを告げてくれずに
もうすべて無かったことに?
「別れるべきわけがある」と言うなんて
私にはわからない!


(*)
ただ終わりじゃなくて 始まりからやり直してみたい
どちらも あなたのために 苦しみ尽くす思い
わかってるでしょう その気持ち (ウ〜)


(**)
私が変わりましょう あなたの帰りを待ってるわ
指折り…数えて…
二人の恋それが 最後だと知ってよ



幸せな日々の記憶を
捨て去ってしまうつもり?
再び愛し合えるとニコニコして
振り返ってほしい!


(* ** くりかえし)


何も要らないけど ただあなたに愛されたら
それだけでかまわない 
待つわ 許しの時に至るまでは
信じてる あなただけを…


 この曲のタイトルの意味するところは「もう新しい恋は要らない」「この恋が一番大切」ということであり、それで『最後の恋』という曲のタイトルになったと思われます。今回の日本語カバー曲でも、日本語訳そのままのタイトルにしてみました。
 この曲を聴いている過程で、ちょっと私にはわかったことがありました。この曲の歌詞全体のイメージは韓国バラードっぽいのですが、そのメロディーや伴奏などの音楽的な部分は欧米(特に米国)のR&B調なのです。そして、それを歌唱するECO自体はどうかというと、韓国バラードとR&Bの混じったような歌声です。つまり、この曲は、欧米のR&Bが韓国でも理解できるように歌われていた、と言えるのかもしれません。
 メロディーや伴奏などの音楽的な部分は、洋楽として考えれば、日本で演奏されてもそれほど違和感がないと思います。従って、その歌詞を日本語や英語にしてみれば、私たち日本人はこの曲に違和感を覚えないのかもしれません。
 ところで、言いわけっぽいかもしれませんが、今回の作業の途中で、次のようなことに私は出くわして考えたりしていました。たとえば、この曲のオリジナル歌詞の最後から3、4行のフレーズは、日本語に機械翻訳をして少し手直しすると、こんな感じになっていました。
「私は何の欲もないです。 ただ愛するあなたのふところに抱かれて生きることができるならばそれのみです。世の中が許諾する日まで待つでしょう。私に帰ってくるあなたを信じます。」
 一文ごとの意味は、この段階である程度つかめると思います。大体の意味内容はわかると思います。しかし、文同士のつながりがやや弱くて、このフレーズ全体で何を言いたいのか、わかりにくいと思います。そこで、この曲のメロディーや歌詞の言葉数に乗せて、意訳をしながら、さらに手直ししていったわけです。
 特にその中でも、「世の中が承諾する日まで待つ」という言い回しは、ちょっと日本人には引っかかると思います。日本語の文法としては間違ってはいません。ただし、日本語が表現する意味として、一体どんな状況を述べているのかがわからないのです。つまり、日本人の頭には、このような表現が具体的な何かをイメージできないのだ、と私は思います。
 そこには、日本と韓国の文化的あるいは社会的な違いがあると思うのです。改めてここでそれを指摘するまでもなく、このようなことは今までも多くあったことであり、これからも頻繁にあることでしょう。しかし、だからと言って、それを理解不能としておくことは、新たな隔たりを生むだけかもしれません。
 私の日本語カバーの試みは、それに対する挑戦の一つであるとも言えます。時にそれは正しいかもしれませんが、時にそれは間違っているかもしれません。かえって誤解を生むかもしれません。けれども、そうであっても、私としては、このような挑戦とその努力をやめるつもりはありません。何とか日本語で考えて理解しようと努めるわけです。理解したことを何とか日本語で表現しようと努めるわけです。
 そのような背景でもって考えてみるならば、「世の中が承諾する日まで待つ」という表現の意味内容は、「社会的に認められるような関係になる時まで待つ」あるいは「二人を引き離している世の中の運命から許される時まで待つ」みたいに想像できると思います。想像というよりも妄想に近いかもしれません。けれども、知的な遊びとしては、かなり高度なイメージのトレーニングと言えましょう。
 つまり、私は、そうした過程を踏まえて、「許しの時に至るまで待つ」という日本語表現にまとめてみました。日本語として伝わることが少しでも増えてくれたらいいなと願いつつ、そのように表現してみました。