屈託なき翻訳への挑戦

 日々チャレンジ精神の少ない多数の日本庶民が世界の目にさらされてはいますが、他人は他人、私は私ということで、これまで差し控えていたことに挑戦することにしました。今から9年前の2012年7月2日に、私は自身のブログ記事『異国の唄 To Heaven』において、以下のようなことを書きました。
 韓国の男性歌手チョソンモさんが当時歌唱されていた『To Heaven』という曲のMV(ミュージックビデオ)として、6分間ほどのミニ映画がキム監督によって制作されました。当時、韓国は、通貨危機によって、大きな経済的打撃を受けていました。そのため、韓国の映画監督たちは、映画を作る資金が集められず、映画館で上映できる規模の作品を制作することができませんでした。そこで、チョソンモさんの曲のMVの制作を請け負うことになったキム監督は、『映画館へ行かなくても、自宅のテレビで観られる映画』として、一話完結ハードボイルド仕立てのミニ映画を作りました。
 そのMVは、ネット上にも残っています。以前私が紹介したとおり、そのうちの動画の一つには、日本語の訳詞が付いていました。そのことに対して、9年前の私は、いい日本語訳詞が動画に付いているので、私自身があえてそれを日本語に訳す必要はなく、日本語カバー曲を作ることに挑戦する必要もないだろう、などと述べていました。しかし、そのことには、次のような私個人の事情がありました。その日本語訳詞の最初の2、3行を字幕で読んだ私は、いきなり嫉妬してしまいました。直ちにその動画を観るのを中断して、二度とそれを観ることができませんでした。その代わりに、日本語の字幕の出てこない動画を選んで、その映像と音楽を楽しんでいました。大人げない話で申しわけありませんが、それが当時の私個人の素顔でした。これまでそれをひた隠しにしていたことを、ここで陳謝させていただきたいと思います。
 ところが、今から2年ほど前に、ネットでチョソンモさんのその『To Heaven』の楽曲を、映像なしで視聴する機会がありました。すると、私は、ハングル(韓国語)で歌われているその曲の歌詞の内容を知りたくなりました。キム監督制作のあの映像がないだけに、どんな歌詞なのか、今度は逆に知りたくなったのです。そんな私は、つくづく勝手なものだと私自身を思いつつも、ネットでハングル(韓国語)で書かれた歌詞を探してきて、手持ちの朝鮮語辞典で一つ一つの言葉の意味を調べてみました。簡単な逐語訳で意味が通る箇所は、そのまま素直に日本語で表現しました。一方、逐語訳では意味が通らない箇所は、言葉の構造を組み替え直して、できるだけ自然な日本語で表現するよう努力しました。さらに、歌われるメロディーやリズムにのせて訳語を選んでいくと、日本語カバー曲っぽくなりました。こうした翻訳による言葉の変換作業は、私の場合、仕事ではなく趣味としてやっています。誰でも少しはできる趣味としては、おすすめできることかもしれません。
 それでもって完成したのが、次のような訳詞です。

 

   『天国、あの場所へ』

 

ご機嫌よう いかが お過ごしで
恋しくて 泣いてばかりいるの?
よく夢で 話しかけてきた 君が居ないのはなぜ?


何かが君に起きたの?
僕のもとへ来れないくらい。
君なしでも平気だと 僕に意地悪してるだけ?

 

雨に打たれ 心ふさいで
泣きくれているはずの 君が気になる
身を隠しきれていても
忘れきれぬこと わかっているじゃないか

 

君の居ない その辛さ
癒せる誰かに 会えたとしても
君への思いで 空(あ)いた
うつろな心を 満たせはしない

 

構わないさ 遠くにいても 
変わらぬ その姿
胸に あふれて


もう待つことは ないのさ
僕ら 天国で
再び 会えるさ

 

それまで僕を待っててよ

 

 幾分暗めの歌詞内容ですが、これは私の技量によるものというよりも、もともと韓国文化の特徴を反映しているためと考えられます。陰陽学の影響でしょうか、どんなに明るく仲良くなれても、過去の仲たがいの歴史(日韓併合慰安婦や徴用工にまつわる問題)を突然持ち出されるのが、ある意味、この気むずかしい隣国の人たちと付き合う際に、避けて通れない宿命だと言えます。そんな時、私たち日本人はどうしたらいいのかと申しますと、あらかじめ私たち自身の意見を準備しておくとよいと思います。今回はそのように簡単にコメントして、そのことはここまでにしておきましょう。
 ただし、それにしても、私は、あの日本語訳詞の付いた動画に対しては、引け目を感じていました。そこで、私の実力では、あの動画の字幕として出てくる訳詞に、結局かないっこないと、開き直ることにしました。つまり、私の作業目的は、仕事じゃなくて趣味なのだから、と言いわけすることにしました。
 それから、それを前提として、恐る恐るではありますが、あの動画の字幕内容と、私の日本語カバー曲風の訳詞を、そのミニ映画を視聴しながら比較しました。すると、今まで私が過剰に意識していたほどに、両者の間に優劣の差がなかったことがわかりました。私は、私自身の翻訳活動や創作活動に、もっと自信を持つべきだったのです。
 そして、外国の言葉は、恥ずかしがらずに一つ一つを辞書で引いて、意味やその使い方を確認することが重要であると、改めてわかりました。ネイティブの人たちが会話するのを見て、とかく私たちは、いちいち辞書も見ていないのにペラペラしゃべれて、うらやましいと思いがちです。しかし、私たちの日常を観察してみると、国語辞典(いわゆる字引き)をこまめに見ている人のほうが、自信をもって言葉を使えているようです。だから、辞書を見て言葉をいちいちチェックすることは、決してムダでもカッコ悪いことでもありません。本当は、ネイティブだからこそ、ネイティブの国語の辞書に陰でお世話になっているのかもしれません。
 要するに、読み書き聞く話すことは、自国語・外国語の区別なく、ある程度の自信をもって、屈託なくできることが一番なのです。言葉を使い操(あやつ)る際に、何かが気になって、気持ちがくよくよしていたならば、きちんと物事を成し遂げられるでしょうか。それははだはだ疑問であると、私ならば思います。今回の私の場合で申しますと、屈託なく読み書きできれば、翻訳とその表現はおおかたスムーズに行って、それなりの結果を出せることがわかります。さらに、一般的に考えてみるならば、屈託のない言葉づかいこそが、私たちの誰もが求めているものと言えましょう。羨望(せんぼう)の的だと言っても過言ではありません。つまり、それは、そんなふうに理解したらいいと、私には思えました。