キム・ヒョンジョンの『ホンジャハン・サラン』の日本語カバーに挑戦!

 今回とりあげるキム・ヒョンジョン(Kim Hyun-jung)さんは、韓国の女性歌手です。ネットの検索では、韓国の男性アイドル・グループのリーダーで歌手・俳優のキム・ヒョンジュンさん(Kim HyunJoong)とごっちゃになっていますが、全くの別人です。『ホンジャハン・サラン』というのは、キム・ヒョンジョンさんのファースト・アルバム(第一集)に収録されている曲の一つで、『一人でした愛』とそのタイトルが直訳されています。そのファースト・アルバムの『彼女との別れ』という曲も私は面白いと思っていますが、今回は『一人でした愛』の方を日本語カバーで取りあげてみたいと思います。
 1998年頃に、韓国へ旅行に行った日本人は、韓国みやげでそのキム・ヒョンジョンさんのファースト・アルバムのCDを買った人が少なくなかったそうです。ジャケットの写真を見れば、「ああ、あのCDのことか。」と気がつく日本人も多いと思います。そのCDは、ケースの後ろに”SAMSUNG MUSIC”(サムソン・ミュージック)と印刷されていたので、韓国旅行へ行ってきたということを日本に帰って自慢するには、とっておきのみやげ物であったのかもしれません。歌詞ブックレットには、キム・ヒョンジョンさんの写真とハングル文字ばかりでした。日本人に買われることは全く想定されていませんでしたから、歌詞の日本語訳は付いていませんでした。私は、2000年前後に例の上野広小路のHMVで、そのCDを見つけて買いました。
 今回とりあげる曲は、私がネットで探した時点では、日本語訳が見つかりませんでした。わずかに、YouTube動画サイトで、英語の字幕がついているものを見つけましたが、今回はそれを参考にしませんでした。私が持っているCDのハングルの歌詞を、ウィンドウスXPのパソコン上でキーボード入力して、ネットで無料の機械翻訳にかけてみました。当然のことながら、変な日本語が返ってきましたが、朝鮮語辞典を片手にしてそれを手直しして、自前(じまえ)の日本語訳を作ってみました。
 私がこのCDを買った頃は、歌詞の内容が全くわかりませんでした。けれども、その曲自体が、ダンスミュージックであって、歌詞の内容よりも音楽に力が入っているような感じがしました。『彼女との別れ』もそうですが、歌詞よりもメロディーや伴奏に興味を引かれていたのだと思います。従って、当時は、ハングルで唄われる曲をそのまま意味もわからず聴いていたのだと思います。
 今回は、その歌詞を日本語に翻訳して、なるべく言葉の意味する内容を変えないようにして、それからさらに日本語で唄えるようにしてみました。本当のところ、それがどれほど上手く行ったかどうかはわかりませんが、少なくとも、この曲の持っている楽しさを失わないように配慮したつもりです。それを以下に示してみましょう。



        『片思い』


(前奏)


初めての出会いから
気にかけて欲しかった
それなのに 無関心
失礼な仕打ちだわ


(*)
初めての気持ちが 変わらないから
あちらこちらに 目移りしても
君しか見えないわ あとは構わない 
けれど、この気持ち 知られたく ないわ


(**)
どんな悲しみも 共に乗り越え
君のために 耐えてゆけると
愛してると 告げた言葉は 
遠い君のもとへ 届かない


(間奏)


尽くしたいと 願わない
自信なくて できないわ
けれど、心は つかまれて
気づいたらば 首ったけ


(*、** くりかえし)
(** くりかえし)



 まずは、曲のタイトルですが、『一人でした愛』あるいは『一人ぼっちの恋』でも、意味するところは日本語として理解できます。しかし、日本語として自然に見聞きする言葉としては、まどろっこしいと言うか、屈折していて理屈っぽい感じがします。ハングルのオリジナル歌詞の内容を見ても、それほど特殊なことを取りあげているのではないことがわかると思います。実は、ネット上で、この曲の日本語に訳したタイトルを『片思い』としているのを私は発見しました。それを借用して、『片思い』としてみました。
 この曲の冒頭部分は、直訳すると「君の姿を初めて見た時/愛だと感じたかったんだけど/だが、君は私に特別関心を見せなくて/私は腹が立ったけど…」のような感じになりました。これで最低限の意味はわかりますが、歌詞として表現するためには、簡潔に表現するか、或いは言い回しを工夫して、字数を節約する必要がありました。難しくない内容をことさらに難解にしてしまっては、翻訳することの意義がなくなってしまいます。毎度のことながら、私はその点に注意することにしています。
 また、この曲のオリジナル歌詞では、『私』『君』『私の』『君の』『私に』『君に』などなどの代名詞または代名詞+助辞のハングルが少なからず出てきます。それを間違えないように使う手本としては、格好の教材の一つであると言えましょう。とはいう私も、『私〜』と『君〜』のハングルの言葉をキーボード入力の時点で取り違えていました。それらは、機械翻訳をしたら変な内容の日本文になって返ってきたので、その間違いに気づくことができました。
 今回の日本語カバーにおいて、注目したいところは、J−POPにありそうで無いK−POPの音楽のパターンです。メロディーや伴奏が、日本のポップスよりも少々快活で荒っぽそうですが、その辺に爽快さを私としては感じてしまうのかもしれません。日本人のくせに…、と言われてしまうかもしれません。けれども、現在、日本に紹介されているK−POPの曲には、それほど私は興味がわきません。1998年頃の韓国ポップスは、日本を含めたアジア向けに紹介されることを意識して作られてはいなかったと思います。韓国の素(す)の感じが、あちこちに出ていたような気がします。私は、そこに私なりの共感をおぼえていたのだと思います。