魅力的な将棋相手

 私が、そのコンピュータ将棋ソフトに興味を持ち始めたのは全くの偶然からでした。二十年ほど前に、会社の同僚から「AI将棋って、こっちが前と全く同じ手を指しても、途中で前とは違う手を指してくるよ。」という話を聞いたことがありました。数年前、中古パソコンを買ったおまけについてきた幾つかのソフトの中に、AI将棋V1.6R(for windows 2002年版)というプログラムがありました。あの、会社の同僚から聞いた昔の話を思い出した私は、そのAI将棋のバージョンと、人間対コンピュータの対戦モードで時々対戦するようになりました。
 確かに、そのソフトは、私(人間の側)が同じ手を指しても、以前と違う手を指してきて、以前と同じ結果で勝負がつくことがありませんでした。かといって、そんなに弱くはありませんでした。コンピュータ側を最強モードにしていたので、私が一手でも手を抜くと、たちどころに反撃してきて、私は負かされてしまいました。
 また、そのAI将棋のバージョンでは、次のような特徴がありました。コンピュータ側から、振り飛車を指してくることはない。人間の側からの攻撃がもたもたしていると、穴熊や矢倉や銀冠といった金銀三枚による固い囲いで守られてしまう。さらに、人間の側からの攻撃の駒が少ないと、指しきり模様にさせられて、人間が負けてしまう。人間がコンピュータ側の王様を詰ませることができる場面で手を抜くと、逆にこちらの王様が詰まされることが多い。(つまり、一手違いの勝負に強い。)などなど、言葉で表現すると、コンピュータ側がかなり強そうな印象を受けそうです。
 ちなみに、私の棋力はアマチュア一級と初段との間を行ったり来たりで、それほど強くはありませんでした。ゲームに対する集中力は人並みにありましたが、読みにいたっては、てんで適当で、深くも広くも読めません。早指しで、じっくり考えないため、相手の読み筋に引っかかって、負けることが多かったのです。
 そのような私の将棋の指し方と姿勢は、今でも変わっていません。ですから、コンピュータ将棋ソフトと対戦すると、思わしくない結果を招いてしまうことが多かったようです。この種のコンピュータ・プログラムは、年々より強くなっています。昔は、人間でさえ指さないような下手な手ばかりで、それに勝っても、私は少しも楽しくありませんでした。ところが、近年は、強くなりすぎて、何度対戦しても、私は負けてばかりで、ちっとも面白くありません。こんなふうに話をすると、私という人間はわがままであると思われるかもしれませんが、人間なんて所詮(しょせん)そういうものなのかもしれません。いずれの場合も、コンピュータと将棋を指すことに嫌気がさして、やめてしまうことが多かったと思います。
 ところが、ある時、ある戦法をコンピュータ相手に試していたら、どういうわけか興味がわいてきました。序盤で必ず角交換をして、飛車先の歩を切って、相腰掛け銀の局面にします。陣形にして数パターンあるのですが、どのパターンでも後のわずか二、三十手を指せば、たちまち勝負がつきます。手筋の読みの浅い私などでも、楽な気分でゲームをすることができます。そうした条件下で、一手でも悪い手を指さなければ、おおかた人間側が勝てることを私は発見しました。
 先手必勝とまでは行かないまでも、コンピュータ側に負け続けることはなくなりました。余程その時の状況が悪い場合、たとえば、疲労のために集中力が続かなかったりすると、コンピュータに悪手を必ずとがめられて勝てなくなります。けれども、そんな場合は、私の側から投了して、対戦をやめてしまいます。逆に、私の側の調子が良い場合は、何連勝でもできるようになりました。
 つまり、AI将棋V1.6Rと対戦する場合は、相腰掛け銀戦法に持ちこむと、すっきりと短時間で勝負がついて、私(人間)の側に、ストレスがたまることなく、コンピュータと気楽に対戦できることがわかったのです。コンピュータ側が弱くてガッカリすることもなく、逆に強すぎてイヤになることもなく、将棋相手としては、このうえなく魅力的に思いました。勝率も、私(人間)の側が、これまでこの戦法で七、八割くらい勝っていると思います。それくらいの勝率だと、また近いうちに対戦したくなるから不思議です。
 今回私は、コンピュータにプログラミングはしていませんが、その操作上の工夫で、私の実力に見合った将棋相手を作ることができたと思いました。多少それには、私の勝手な思い込みが含まれているかもしれませんが、私がコンピュータ上でつきあいの長い将棋相手を見つけたことは事実です。
 逆に言えば、そうした人間の側の想像力や妄想力や思い込みなくして、新しい仮想物をコンピュータ上に考え出すのは不可能なのかもしれません。コンピュータはあくまでも、形に制約のある機械に過ぎません。その性能を無限に引き出したいのであれば、人間の側がそれだけの知恵を絞らなくてはならないと思います。
 現在のコンピュータの利用の仕方を考えてみると、今の人間は楽をしすぎているようにも見えます。もちろん、新しいことをコンピュータにさせようと頑張っている人はいるかもしれません。がしかし、(今の私を含めて)ほとんどの人は、過去のコンピュータ知識の蓄積におんぶしているだけなのかもしれません。
 例えば、コンピュータ将棋ソフトの発展と成長を考えてみましょう。先にも述べたように、そのプログラムは年々より強くなってきています。将棋のプロ棋士に勝てる、いわゆる『最強の棋力のソフト』を目指して開発されています。しかしながら、私のような将棋の強くない人間にとっては、それが直接実感できません。確かに、「プロ棋士の某名人を、そのコンピュータ・ソフトは打ち負かした。」という情報をキャッチすることはできると思います。けれども、その強さにどのような面白みがあるのか、という点に関して、具体的な実感が伴いません。そのうちに、人間が機械にどうしても勝てないということになると、将棋というゲーム自体の面白みも半減してしまうことになりかねません。
 それよりも、「こいつ(コンピュータ)と将棋をすると、人を相手にするのと同じくらい面白いんだよなあ。」と思えるようなコンピュータ将棋ソフトの方が、ずっと人間にとって有益なはずです。
 人間から嫌がられる機械よりも、人間に好まれる機械の方がいろんな点で良い影響を社会に及ぼせると思います。その方が、人間もそういった機械を大切にするでしょうし、人間からの思い入れ、すなわち、感情移入もしやすくなると思います。
 例えば、アンドロイドという機械人形が、その不気味さ(グロテスクさ)を越えて、人間に感情移入されるまでなるには、そうした人間の感情に訴える何かを持っていることが必要だと思います。それをコンピュータ・プログラムで構成することは、残念ながら今の科学技術では十分できていません。しかし、それが不可能だという証明もされていないので、是非とも興味のある人は、考えてみたらいいと思います。