私が意訳にこだわる理由

 たとえば、村田英雄さんの『王将』("The king of SHOGI")の次のような冒頭の歌詞を意訳してみましょう。(ちなみに、この歌詞についたメロディーでも、口ずさめると思います。)


 「吹けば飛ぶような将棋の駒に、かけた命を笑わば笑え」

You may think of the Japanese chess "SHOGI" as an easy game to play

I don't care if you laugh at me for putting my all into my game


 ビートルズの『イエスタデイ』という曲の”Love was such an easy game to play”という歌詞から”an easy game to play”という語句を借用しました。かつて『イエスタデイ』の歌詞を翻訳した時に、この『王将』の歌詞の一部を翻訳する際に使えるのではないかと気づいたのです。すなわち、「お前さんは将棋をたやすいゲームだと思っているかもしれねえが、それに一生懸命になっている俺を笑おうと、いっこうにかまいやしねえよ。」みたいな意訳にしてみました。
 これを「吹けば飛ぶような」という語句の直訳や逐語訳にこだわると、大変なことになります。「吹けば飛ぶようなやつ」は、”a mere nobody”の日本語訳ですが、「全く取るに足らない人」という意味です。それならば、”a mere piece”とか”a mere chessman”で「吹けば飛ぶような将棋の駒」を表現したつもりになるところでしょうが、何かが足りません。
 つまり、「ちっぽけな将棋の駒なんかに命をかけて、人生の勝負をしている」主人公の意気地(いきじ)が伝わってくる翻訳文であることが必要なのです。直訳や逐語訳は、正確に言葉の意味を訳すために必要な手法です。だから、文章の部分的な解釈にはしばしば有効です。しかし、文章全体をとらえるためには、意訳のほうが、このような意味やニュアンスをうまく表現できるようです。

 ここで、改めて私は手もとの国語辞典を調べてみました。
翻訳  ... ある国語の言語・文章を他の国語に言いかえること。
直訳  ... 字句・文法に忠実に翻訳すること。(逐字訳)
逐語訳 ... 一語一語の意味に忠実に口語訳・翻訳などをすること。
意訳  ... 内容に重きをおき、一語一語を追わず、原文の意味をとって翻訳すること。
 このように見ていくと、直訳・逐語訳は、読みやすさ・わかりやすさを多少犠牲にしてでも、とにかく原文に忠実に翻訳することを目的とします。洋書の専門書の内容が正確に伝達されることを第一とします。一方、意訳は、その読み手からすると一番わかりやすい翻訳ができる反面、意味や内容のとり違えも起きやすいと言えましょう。理想的には、それぞれの翻訳方法の利点を生かして、直訳や逐語訳でつかんだ内容を整理しなおして、意訳にまとめると、間違いが少ないようです。
 大学の翻訳テキストなどにしばしば見られることですが、直訳・逐語訳は、読みやすさ・わかりやすさを犠牲にして多用されてきました。原文に忠実なのであるから、そこから外国の知識や技術が学べないのは、日本の大学生個々の頭が悪いせいだとされてきたわけです。私は、外国の小説の日本語訳でさえ、直訳・逐語訳で忠実に翻訳されているものに出会って、その読みづらさに驚くことがしばしばありました。この本の翻訳者は、本当に外国語の原文を理解しているのか、それとも日本語の表現が下手なのかと、つい疑いたくもなるものです。
 その真相は、さらに驚くべきものでした。その翻訳が読みづらくわかりづらくなった原因は、翻訳者の個人的な能力が至らないための、外国語の原文の未消化でもなければ、日本語表現の拙(まず)さでもなかったのです。外国語の原文に忠実であることという『鉄の掟(おきて)』が、翻訳者の意欲や努力をそいで、原文の理解を不十分にして、日本語の表現を下手にしていたのです。
 このことは、意外な形で検証されていました。私が20代から30代の頃は、コンピュータによる機械翻訳が将来的に人(翻訳者)にとってかわると期待されていました。その機械翻訳は、まさに直訳・逐語訳によるものでした。単語や語句や文法は、汎用的なものからルール化されて記憶されました。人間の自然言語につきものの、例外規則も次々と記憶されていきました。そうして、データベースとプログラムが肥大化して、処理速度や処理能力が落ちて、使いものにならないくらい実用性が落ちてしまいましたが、それでも、まだすべての翻訳をカバーできるレベルに達していません。すなわち、簡単な文の表現くらいは間違えずに翻訳できますが、あらゆる文章を正確かつ的確に翻訳するレベルには未だ至っておりません。人工知能が、機械翻訳の分野で人間を凌駕(りょうが)するようになるのは、まだまだ先のことなのかもしれません。そんな現在において、確かに言えることは、人間であろうと機械であろうと、直訳・逐語訳だけでは、翻訳の世界全体をまかなえきれない、つまり、カバーできないということです。

 かつて、私には、不思議な出会いがありました。二十歳になる前の出来事で、誰の翻訳なのかとかの細かなことは、私の記憶から抜け落ちています。具体的な翻訳文も憶えていません。ただ、アメリカの翻訳者さんが、『源氏物語』や『徒然草』の序文を英語に翻訳したものを目にしたことがありました。
 具体的には、「いづれのおほんときにか、女御更衣あまたさぶらひ給ひけるなかに、いとやむごとなききわにはあらぬがすぐれてときめき給ふありけり。」とか「つれづれなるままにひぐらし、すずりにむかひて、こころにうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなくかきつくれば、あやしうこそものくるおしけれ。」とかの英語バージョンを私は初めて目にしました。当然のことながら、これらの文の直訳・逐語訳では、全く変てこりんな英文表現になってしまいます。だから、それらの英文は意訳だったのですが、普通の日常的な、かつ、自然な英語で表現されていたと記憶しています。しかも、その文章には注釈が一つもありませんでした。私たち日本人は、『源氏物語』や『徒然草』の序文を初めて読む際にも、注釈を頼りにしてしまいます。そうしないと、正確に意味をつかむことができないからです。にもかかわらず、その英文は、注釈なしでもそれだけで普通に外国人が理解できるように、英文に翻訳されて書かれていたのです。
 当時の若い私は、その翻訳された英語の文章に出会って、本当にびっくりしました。このことから、他言語との一字一句を変換するのが翻訳の目的ではないことがわかりました。それは、手段の一つにすぎません。翻訳の本当の目的は、いかに他言語を理解するのか、あるいは、いかに他言語で表現して伝えるのかを工夫することにあったのです。その意味では、私たち日本人もかなり古くからそうした翻訳に対する努力と苦労をしてきたと言えます。けれども、上述の『源氏物語』や『徒然草』の序文の英語版を例としてみるかぎり、私たち日本人は、まだまだ翻訳に関して後進国的なのではないかと疑われます。だから、少しでも実用的な機械翻訳を誰かが完成させてくれるのを何もしないで待っていることよりも、自ら翻訳の可能性を追求していくほうが、よっぽど人間らしいと、私ならば思います。意訳についても、バラバラな単語をつなぎあわせたり、単に意味内容をまとめあげたりするだけでなく、もっと何かがありそうな気がします。もっと何か意味のある、創意工夫があってもいい気がします。

 そんなわけで、私は意訳にこだわります。最後に、村田英雄さんの『王将』の次の歌詞も、英語バージョンにして表現してみましょう。


 「愚痴も言わずに女房の小春。つくる笑顔が意地らしい。」  

She never complains to me, my wife Koharu

She always makes a gentle smile, deeply moving me to tears


 すなわち、「文句を一切言わない妻のその健気な笑顔に、俺は心を揺さぶられて泣けるぜ。」というような感じの意訳にしてみました。