日本の反戦平和運動を知らない人たちへ

 私は、サラリーマン時代から今に至っても、二次会の飲み会に参加した時に、その場に中高年の人たちが多いと、必ずカラオケでその曲を歌います。ジローズが1970年に歌ってヒットした『戦争を知らない子供たち』という曲です。日本の団塊世代を中心にこの曲は受けが良いと、私は肌で感じていました。
 歌詞の内容を読むと、その作詞家の北山修さんが心に抱いた割り切れなさというものが確かに感じられます。しかしながら、それを堂々と世界に向けて主張することは、決して恥ずかしいことではないと思います。なぜならば、「戦争が終わって、僕らは生まれた。戦争を知らずに、僕らは育った。」ということは日本国における事実だからです。
 決してそれは、スローガンでも、机上の空論でも、理想でもなく、歴然とした事実だからです。日本人に歴史認識がないと言ってみたり、反日運動で軍国主義を糾弾する中国や韓国の人たちに聞きたいのですが、あなた方は本当にあなた方自身の目で旧日本軍の兵士の残虐行為を目にしたのでしょうか。もしそうでないとするならば、あなた方は他国の国民を確たる理由も無く侮辱していることになりますよ。
 さらに言えば、1945年以降の日本では、軍が国民を弾圧する事件は一度も起きていません。それとは反対に、それ以前の日本では、軍部の台頭によるクーデターや、治安維持法のもとでの憲兵や秘密警察の取締り、愚連隊による非人間的なリンチ等々が日本国内外で当たり前のごとく行われていました。それらの悪しきことは、旧日本の軍国主義および帝国主義のもとに行われてきたことでした。日本が戦争に負けて、これまでの価値観の大転換を外国から無理やり迫られた背景には、そうした簡単に根絶し難い日本の因習があったことがうかがわれます。
 そう考えてみれば、これまでの中国や韓国の反日運動が、敗戦で生まれ変わった現代日本への批判としては、ズレた認識で行われてきたことが理解できると思われます。旧日本軍やその軍部をではなく、今の天皇や日本国民や日本政府を批判すること自体が的外れなのです。
 現代の日本では、自国の軍隊が国民を政治目的で弾圧したり、治安維持のために自国民に銃を向けたりしたことはありません。しかるに、過去の韓国において布(し)かれた幾多の戒厳令や、過去の中国において都市部の市民の一部が殺傷された天安門事件を鑑(かんが)みるに、どうしても、あの軍国主義かつ帝国主義であった日本と同質のものを感ぜずにはおれません。北朝鮮などは、昔のそんな日本の軍国主義を真似しているみたいにしか、私には見えないのです。彼らに、軍国主義帝国主義であった昔の日本国やその軍隊を批判できる資格があるのか、疑わしく思われます。
 それぞれの国にはそれぞれの事情があることはわかります。内戦があって、同じ民族や同じ国民が殺しあったことは、東アジアで起きた歴史上の事実であり、仕方のないことだったかもしれません。でも、日本人の私は、丸腰の自国民に軍が銃を向けて殺傷することの意味がわかりません。そのことについて歴史認識がズレているとどんなに批判されたとしても、私はかまいません。一体、歴史の専門家は、それをどう見ているのか知りたいものです。
 『戦争を知らない子供たち』の歌詞は、東アジアの歴史認識からはかけ離れた絵空事(えそらごと)を唱えているように、表面上は見なされるかもしれません。が、以上のような視点で考えてみると、1945年以降に生まれた日本人は、やはり「戦争が終わって、僕らは生まれた。戦争を知らずに、僕らは育った。」のです。つまり、その歌詞のフレーズは、紛れもない日本の事実であり、中国や韓国の反日運動というものが、そうした日本人の本当の姿を知らなかったことによって起きてしまった、と考えることができると思います。