大人の特撮ドラマ?

 最近、NHK総合テレビの『ドラマ10 トクサツガガガ』という連続ドラマを観ていました。若いOLの主人公が、特撮ドラマのヒーローに心酔する隠れオタクだったという物語でした。子供の頃に、彼女の母は、娘を女の子らしく育てようとして事ある毎に邪魔立てしていました。にもかかわらず、主人公の彼女は、大人の女性として働くことになっても、特撮ヒーロー好きをやめるどころか、その熱中ぶりはエスカレートする一方なのでした。
 この連続ドラマの面白いところは、特撮ドラマ仕立ての劇中劇にもありました。『救急機エマージェイソン』とか『獅風怒闘ジュウショウワン』とかいった架空の特撮ヒーローものドラマが、ドラマの途中に挿入されていました。追加戦士とか巨大ロボ合体とかヒーローショウとか、特撮ヒーローものに特徴的な要素の登場とその説明が、劇中で語られて、私には勉強になりました。テレビ朝日系列の『スーパーヒーロータイム』を観る助けにもなります。
 もともと私には6歳下の弟がいて、小中学生の頃は『仮面ライダー』を中心として様々な特撮ドラマやアニメを、弟と一緒にテレビで観ていました。(1970年代前半あたりです。)その中でも、多感な思春期初期に観た『愛の戦士 レインボーマン』(以下、『レインボーマン』と略記します。)がなかなかの傑作だと思いました。同級生の友人と遊んでいる時も、『死ね死ね団のテーマ』とか『あいつの名前はレインボーマン』とかの歌の一節や、「アノクタラサンミャクサンボダイ(と3回唱えて)、レインボー、ダッシュ、セブン」という変身の呪文(実は「アノクタラサンミャクサンボダイ」は禅宗のお経の文句)を友人からよく聞きました。
 ちなみに、その頃は、日本テレビ系の夕方前の再放送で森田健作さん(現千葉県知事)主演の『俺は男だ!』がやっていました。高校の剣道部を舞台とした、青春もののドラマでした。スポーツ根性ものとも、恋愛ものとも言い切れず、青春ものと言うのがピッタリのドラマでした。そうしたテレビドラマを、小学生から中学生にかけて成長する過程で、私や私の友人は観ていたわけです。
 ところで、『レインボーマン』についてですが、なかなかの特撮ドラマであったにもかかわらず、現在では地上波での再放送はされていません。(私は、市販VHSビデオソフトで2本(9話分)を既に持っているので、再放送は望みません。)秀作ではあったものの、日本人についての扱いが自虐的あるいは差別的だという意見があったようです。
 オンエア―当時、多感な思春期であった私がそれを見て、日本人を侮蔑しているとか差別しているとか自虐的だとか思ったことはありませんでした。(私だけでなく、私の友人たちも同じ思いだったと思います。)日本人の戦争犯罪は事実です。しかし、日本人はそれを子孫にひた隠しにしてきた、というのは外国人の思い違いです。当時12歳前後の私でさえも、戦時中子供だった親からの話や、新聞やテレビやラジオや書籍などのマスメディアや学校教育の中で、そうした歴史を断片的に学んできました。「日本人は歴史認識が無い。」などと意見するなんて、よくよく日本人を知らない外国人だな、と私は秘かに思っていました。
 ここで、日本国憲法の第9条に記された『国際平和』(an international peace)という文言について述べましょう。『国際平和』という言葉は、『世界平和』とは違います。どちらも同じ平和と思われて、混同されていますが、それにはわけがあると思います。諸説あるとは思いますが、私はその中の一つを説明したいと思います。例えば、前出の『仮面ライダー』のオープニング主題歌では、「世界の平和を守るため」というフレーズが歌われています。これは、「悪の秘密組織ショッカーが世界征服を企んでいる」というふうに劇中で説明されていることと合致します。『世界征服』とか『世界制覇』を悪の組織が狙っているので、正義のヒーローは、『世界平和』を守るものである。という道理となるのです。
 しかしながら、この『世界平和』を実現するためには、一国独裁ということがある意味で都合がよいとも考えられると思います。世界の歴史をひも解いて見ても、どの時代でも、大きな領土を支配する帝国があって、ある程度の世界的な平和を実現してきたとも言えます。近代および現代の世界がそれでいいのかというと、本当の答えはまだ出ていないと思います。
 現代の世界では、実際に戦争が起きている場所は、紛争地域と呼ばれています。また、国と国との紛争は、国際紛争(international disputes)と表現できます。従って、日本国憲法の第9条が扱っている『国際平和』(an international peace)とは、『世界平和』という茫漠とした理想ではないと思います。むしろ、現代の私たちの日常がいつ巻き込まれても不思議ではない危機と隣り合わせの平和と言えましょう。すなわち、その意味において国際平和は、「自然災害と同じ種類の危機と隣り合わせの平和」と言えるかもしれません。
 それはともかく、なぜ『レインボーマン』が日本人への侮辱や差別、自虐的ともとれるドラマの内容だったにもかかわらず、私を含む当時の子供たちにそのように感じられなかったのか、というナゾをこれから探求してみたいと思います。実は私の場合、あれから45年近く経った今でも、このドラマの自虐性とか、日本人への侮辱や差別とかが感じられません。特に、最近、隣国のK国からの慰安婦問題や徴用工問題やレーダー照射問題や竹島問題などなどを考えてみると、『レインボーマン』が特撮フィクションとして描いているものが、それらの問題に何らかの答えを用意してくれていることに気がつきました。
 それはどういうことかと申しますと、「過去に何があったとしても、(たとえ何もなかったとしても、)今の日本人を恨んだり、憎んだり、蔑(さげす)んだりする気持ちがあるかぎり、その言動は、『死ね死ね団』と同じになってしまう。その人の言動は、『死ね死ね団』の首領のミスターK(国籍不明)のように酷(ひど)いことになってしまう。」ということだと思います。(ちなみに、ウィキペディアによると、ミスターKの”K”は、原作者の川内康範さんの”K”から取ったものです。隣国のK国のみなさんとは、全く関係はありません。)
 『死ね死ね団』や『国籍不明の外国人ミスターK』について知りたい人は、ネット上で『レインボーマン』を紹介しているホームページを検索したり、YouTubeで『死ね死ね団のテーマ』や『あいつの名前はレインボーマン』や『行け!レインボーマン』(オープニング主題歌)を視聴してみてください。その芸術性の高さには、スカッとさせられると思います。日本人に対して差別的で侮蔑的なのは、『死ね死ね団』や『ミスターK』のはずなのに、その敵側の主義主張があまりに幼稚でミジメでガッカリなのが、どう見ても明らかなのです。だから、笑えてスカッとします。不幸な人間というものは、いつまでも過去にこだわっているようで、実は、現状から逃れて、現状を認めようとしない。彼らの、憎しみや恨みの正体は、結局それでしかなく、本当は、少しも同情するに値しないことがわかります。
 つまり、国と国との紛争すなわち国際紛争(international disputes)が武力的な紛争に発展しないかぎりは、外交的に何を言い合っても『国際平和』(an international peace)は保たれると考えられます。たとえその仲が険悪でなかったとしても、ウソ偽りを装って、内心ではいつか相手の寝首をかこうと狙っている、なんてことも大人の世界にはあるものです。それならば、いっそのこと、その仲が険悪でも、本心を相手にぶつけてみることは大事なのかもしれません。
 この『レインボーマン』という特撮ドラマが、本当に意図したテーマとは、日本人が外から向けられたそうした憎しみや差別感情から目をそらさず逃げない、ということにあったのかもしれません。つまり、もう少し大人になって、この特撮ドラマから明日を生きてゆく希望を読み取って欲しいという制作側からの意図があったのかもしれません。