新元号『令和』をめぐって

 ここのところ、ネットにつながるノートパソコンのトラブルが多くて、ブログ記事を書くタイミングがつかめなくて困っていました。そのノートパソコンは、今から8年前に新品で買ったのですが、私の扱い方が乱暴だったせいか、まず、キーボードのいくつかのキーが押しても利かなくなってしまいました。そこで、他の中古パソコンのキーボードをUSB接続したところ、運よくつながりました。

 しかし、最近では、ACアダプターの接続の調子が悪くなって、とうとう変な音と煙のにおいがした後で、電源供給の役目を果たさなくなってしまいました。それでも無理をして使い続けたかったのですが、発火や爆発したら怖いと思ったので、やめました。

 そこで、またまた別の中古ノートパソコンのACアダプターを共有して使うことにしました。そのACアダプターは、トラブルのあった純正ACアダプターと出力仕様の電圧は同じ19ボルトで、電流の容量は0.5アンペアだけ大きめの、同じピンジャックの寸法と形状のものでした。最初は恐る恐る、緊急用に少しだけ使う予定でした。しかし、しばらく接続してみて、支障が無さそうだとわかって、このブログ記事を書くことにしました。(このようなマッチングは、たまたま上手く行ったと考えるべきです。普通だったならば、コンピュータの電子部品が破壊しても何の不思議もなかったのです。あくまでも、このやり方は、掟破りだということを明記しておきます。)

 それはさておき、先日の4月1日エイプリールフールに、新元号の発表がテレビでありました。その発表前のテレビ上では、今か今かと注目されていました。一方、私は仕事で行かなければならない場所があって、その発表の瞬間を観たいとは余り思っていませんでした。どうせ後でニュースを見ればいいや、くらいに思っていました。

 それで、後でニュースを観た時には、なぜだか少し意外性を感じました。『令』の字に心が引っかかったのかもしれません。ところが、その後のテレビの中で何度も「令和、令和」と聞いているうちに、2~3日でこの言葉に慣れてしまいました。恐るべき速さで、私は感化されてしまいました。マスコミ恐るべし、と言ったところでしょう。

 確かに、この『令和』という言葉、縦書きにすると末広がりに見えて、しかも語感も良いみたいです。おそらく引っかかるのは、『令』という漢字の意味だと思います。すべての違和感は、何でこの言葉が上からの達しで庶民が受け止めなければならないのか、という一点にあったと思われます。

 『令』は『命令』の『令』を表す、という主張は、ある意味間違いではないとは思います。しかし、ここにこそ、日本人の教養の有無が試されているとも言えます。私は、『広辞苑』のような分厚い辞書は持っていません。小学6年生の頃におこづかいをはたいて買った小学館の『新版 新選国語辞典 卓上版』をいまだに利用しています。その辞書によると、『令』は、『命令』という意味の文章語であり、「令する」とは「命令する」の文章語であると書かれています。ちなみに、『令月』という言葉は載っていませんでした。

 令書、令状、令達、政令、法令、勅令など、『命令』の意味を含んで、それを連想させる言葉は沢山あります。これらは、漢文上では、まさにこの意味用法に従っており、江戸時代の漢学者が『令徳』を「徳川幕府ニ命令スル」の意味に読み下しただろうことも尤(もっと)もなことと言えましょう。『令』という漢字1文字の単独の意味は、以上のとおりなのです。

 ところが、『令』という言葉が持っている日本語としての用法は、それがすべてではありません。私の持っている辞書によると、『令』という言葉のもう一つの意味用法は、「他人の家族などにつける尊敬の言い方。」なのだそうです。つまり、この言葉が接頭辞のように使われると、敬意を表す言い方になります。令嬢、令息、令夫人、令兄、令弟、令姉、令妹、令嗣、令室、令婿、令孫などなどがあります。(読み仮名を省略させていただきました。)また、令聞や令名は、「よい評判や名声」の意味だそうです。

 儒教では「巧言令色すくなし仁」とあります。それは「言葉巧みで愛想のいい人間に人格者はいない。」という意味です。その中の、『令色』が「へつらって、かざった顔つき」という意味だそうです。これは、『令』の言葉づかいの数少ない悪い例のようです。

  以上の用例は、いずれも文章語として使われているものです。『令月』ももちろんそうですが、 文書の上でしかお目にかかれないため、日本人でさえその意味用法をよく知らなかったり、他人に説明できにくかったりしているわけです。そこで、私としては、その補足説明をいろいろ考え、工夫してみることにしました。

 日本人誰もが知っていそうな言葉として、『令嬢』を例にあげてみましょう。『娘(むすめ)』という言葉を、少しばかり敬意を表す言い方にしてみると、語尾に『さん』を付けて、『娘さん』とします。同じようにして、『お嬢』を『お嬢さん』にしてみましょう。さらに、語尾を変化させて、『お嬢様』としてみます。すると、『令嬢』という文章語と同等の意味を、現代日本語口語にすると『お嬢様』になることがわかると思います。

 それでは『令月』という文章語の意味を、同様にして現代日本語口語に置き換えてみましょう。それは、『お月様』と表現できるのかもしれません。もちろん、この万葉集に詠まれた文面での『月』は、「太陽と月」などの月(moon)ではなくて、暦など日付の月(month)なので、「初春の令月」とは、「春の初めのよい時期」と解釈するほうがよいと思います。

 それでは、そもそも『令和』の意味はどうなのか、ということを考えてみたいと思います。私は、この日本に生まれて育って生活してこのかた、年号については、その意味すら深く考えたことがありませんでした。本音を言うと、年号としての『令和』がどんな意味であろうと、かまわないと思っていました。『昭和』ならば『昭和』、『平成』ならば『平成』で、周りの皆(みんな)が使うのならば、それはそれで、意味などはっきりしていなくても、別に困らないと思って生きてきました。これまで私の就いた職種が、年号で一儲けできるような類のものでなかったことも、そのことに影響していると思います。

 ところが、日本の国が、国際化するにつれて、世界各国からも いろんな解釈や憶測が生まれているようで、日本の外務省も大変だなと、テレビのニュースを観て私は思いました。『令和』の意味を英語に訳すと、”beautiful harmony”だそうです。この訳が間違っているわけでは、決してありません。けれども、疑い深い外国人の方には、この翻訳による説明では物足りないかもしれません。

 そこで、そんな外国人のあなたに、私が、尤(もっと)もらしい説明をしたいと思います。まず、ほとんどの日本人は、言葉の意味を論理的に理解していなくても、直観的かつ感覚的に理解します。言葉の語感とか、文字の形や雰囲気、思い浮かぶ情景などから、情緒的に感じとって日本語を理解しています。一方、外国人の方のほとんどは、言葉の意味に論理的なつながりがあって、その辻褄(つじつま)を合わせて理解ができます。

 典拠となる万葉集の「初春の令月にして、気淑(よ)く風和(やわら)ぎ」という情景の一節から、日本人は感覚的に『令和』の意味を理解できます。言葉の組み立て方は、『ガラパゴス携帯』を『ガラ携(けい)』と縮めて言い、『スマートホン』を『スマホ』と縮めて言うのと、ほぼ大差ないと私には思えます。しかし一方、外国人のあなたから観ると、そもそも自然と人間の心の調和や一体感がよくわからない。日本人の言いたいことは何となくわかるけれども、かと言って感覚的にわかるかと言えば、「風(かぜ)和(やわら)ぎ」とか「風(かぜ)和(なご)む」とかよくわからない、ということが問題なのだと思います。

 私としては、私流の和和翻訳をやってみたいと思います。それをもとにして、『令和』の意味を英語に訳してみましょう。まず、あの一節を、「気淑く風和む(と私にも感じられるような)初春の令月」と言葉を組み立て直してみましょう。

 実は、この『令月』や『令嬢』における『令』のような言葉づかいは、欧米語や英語にもあります。英語では、”Mr.”や”Ms.”などを敬称として付けるのが、それです。私の手元にある英和辞典(<コンパクト版> 小学館 プログレッシブ英和中辞典)によれば、地名や職業名などにも付いて、例えば”the Mr. America Contest”は『全米ボデービル大会』の意味にもなります。

 ところで、「心の和むような光景だった。」という文を英語に訳すと、”It was a heartwarming scene.”となります。気淑く風和む」という一節は自然の情景を描いていると同時に、この歌を詠む日本人の心情(あるいは、感じていること)をも表現しています。ゆえに、「心温まる」や「和む」を意味する”heartwarming”が『令和』の『和』の訳語として相応(ふさわ)しいのではないかと、私には思えました。

 『令和』の『令』が何かの敬称であるとするならば、その訳語は「良い状態」や「質の良さ」などを表す”goodness”が適切ではないかと、私は思いました。つまり、『令和』とは、”the heartwarming goodness”と英語に訳せるというのが、私の考えでした。逆にこれを日本語に直訳すれば、「心が和む良い状態」みたいな意味になります。当たらずとも遠からず、といったところだと思います。

 実は、英語への翻訳が必ずしも必要とは限らないという経験を、かつて私はしたことがありました。その時、私はJ-POPの曲の一つである、スピッツの『ロビンソン』という曲の英語カバーバージョンを作っていました。ふと、テレビを観ていたら某クイズ番組で、外国人観光客にJ-POPで好きな歌を答えてもらっているコーナーがありました。その若いアメリカ人男性は、スピッツの『ロビンソン』という曲が好きで、「ルーララ、宇宙の風になる。」と歌ってくれました。そして、その歌詞の意味を日本語でスラスラと語ってくれました。

 私は、このテレビ映像を観るまで、その歌詞の一節が外国人に理解できるとは思っていませんでした。なぜならば、宇宙は真空で風など吹くはずはないと考えていたからです。そうした一般的な科学知識に反するようなJ-POPの歌詞は、印象的なレトリックの表現なのではないかと、私は考えていました。そこで、

  Luh, La La... Full of the wind in a starry night

  (ルーララ、宇宙にいるように、星が沢山見えている夜空に、僕は沢山の風を受けている、といった意味)

という英語版の歌詞を作りました。

 ところが、その若いアメリカ人男性は、スピッツの日本語歌詞をそのまんま素直に受け入れて、何の矛盾も感じないように「宇宙の風と共に、自ら風になって飛んでいく」という情景を語ってくれました。私は、彼の日本語理解力に驚かされました。つまり、外国人向けの翻訳がなくても、彼の好きな日本文化であるJ-POPを通じて、日本語の感性を彼は理解できた、ということだと思います。

 ここで、私に提案があります。外国人の皆さんがよくご存じの日本文化であるJ-POPの源流に、いにしえに詠まれた万葉集があるということをお伝えしたいと思います。その万葉集まで勉強や研究をして欲しいとまでは申しませんが、せめてJ-POPと同じくらいに気軽に感じていただけたら良いと思います。けっして、上から下への秩序(order)ばかりを重んじるのが日本国民の気質や日本文化ではない、ということをわかって欲しいと思います。これが、今回の私の提案です。