私のプロフィール 奇しくも出会った人物は?

 実を言いますと、私はH大学の文学部英文学科で勉強していましたが、その当時から翻訳に関連した仕事については一切興味がありませんでした。こんなことを言ったら「若い人たちの夢を奪うな。」と、怒る人もいらっしゃるかもしれませんが、翻訳なんて主婦の特別な内職の一つにしかならない、と当時の世間では考えられていました。当時の私の考えも、それと同じでした。こんなことを言っちゃあ何ですが、(正直に言って)私が二十歳前後だった頃の日本社会は、女性の社会的地位と同様に、国際化意識も余り高くはありませんでした。
 私は大学四年に就職活動を始めて、OB訪問や会社訪問をしました。が、文学部英文学科のOBなどは、どんな企業を探してみても皆無でした。また、少しは名の知れている会社を訪問しても、「君は大学時代、文学部英文学科で何を勉強したのかね。英語ペラペラでもないし、英検の資格も持っていないのに、それで我が社にどうやって貢献できるのかね。」などと問われそうで、怖くて自信喪失になりそうでした。
 結局私は、当時人材不足だった、コンピューターソフトウェア開発会社に身柄を拾われて、正社員として就職することができました。いかなるコンピュータ処理言語も、英文と数式の混在する文字の羅列に見えたので、当時の私は、プログラマーと呼ばれるコンピュータ技術者として生き残ることができたというわけです。
 ところで、そんな私はH大学の四年生の頃に、文学部共通科目の一つを取得しなければなりませんでした。おそらく博物館学芸員の資格取得のためだったと思います。『科学思想史』『言語文化論』『歴史地理学』『文化人類学』の四つのうちの、どれか一つを選んで、受講しなければなりませんでした。当時の私は、たまたま古本屋で『ニッポン・カオロジィ』なる本を見つけて、文化人類学に少なからず興味がありました。ですから、『文化人類学』の授業を選択しても良かったのです。また、「現代はまさに、科学および科学技術の時代だ。」と言われていたので、『科学思想史』の授業も面白そうだな、とも思いました。
 しかし、私は、当時、チョムスキーさんの『生成文法』にも興味がありました。そこで、私のクラスの秀才君(彼は某大学の医学部の入試に落ちて、私と同じクラスに編入してきていたのです。)に、チョムスキーを扱った『英語学演習(1)』(M教授の担当)と『ラテン語』(別のM教授の担当)の、彼の参加した最初の授業の様子をうかがってみました。そのついでに『ラテン語』の授業で使うテキストを見せてもらったのですが、英語やフランス語と比べてはるかに難しいことを思い知らされました。そして、チョムスキーさんを学ぶ授業に関しては、さらに難解だということを、私は彼の話から知りました。彼から得た情報によって、当時の私の頭脳レベルでは、チョムスキーさんの『生成文法』は理解できない、無理だと判断できました。
 しかしながら、以前の私のブログ記事でも書いたように、若い頃の私は、日本語に翻訳された専門書を読むことが多くて、その内容や表現の理解に数多く悩まされていました。「正しい日本語の文章とは思えない。」とか「めちゃめちゃな日本語の表現ばかりだ。」などと、元東京都知事のI.S.さんと同じようなことを、翻訳物の著作を前にして私はしばしば思っていました。
 しかし一方、日本人の翻訳者さんたちからすれば、英語から日本語へ直訳に近い状態で訳したほうがよい、ということに、絶対的な理由および根拠を持っていました。彼らの使命は、外国からの内容を少しでも正確に伝えることにあったのです。日本語として多少読みづらくても、日本語の表現が多少おかしくても、直訳して前後の言葉の論理関係が間違っていなければ、外国からの知識が間違って伝えられることはない、と信じられていたようです。
 かくして、私は(本当は私に限らなかったと思いますが)そうした翻訳物を数多く骨を折って読まされることとなりました。最悪の場合、何度読み返しても、書かれている内容がわかりませんでした。そうした状況にしばしば置かれることが、若い学生であった私にとって、どうしても納得いきませんでした。従って、「言語が文化を造っていく」という『言語文化論』の考え方に私は強く引かれることとなったのです。「人間は、その言語の構造に従って、ものを考え、文化を造っていく。」という考え方が、どうやったら実現されていくのか、ということを私は知りたいと思いました。つまり、外国語の翻訳に対する興味よりも、言語やその言語表現に対して興味がありました。そして、『言語の構造』という言葉に特に興味がありました。このことは、私がまだ、チョムスキーさんの『生成文法』を学びたいと思っていたからなのかもしれません。そんなようなことから、『言語文化論』の授業に出てみようと、私は思ったのです。
 さて、その授業ですが、柳父章(やなぶ・あきら)さんという方が講師でいらっしゃいました。当時の岩波新書黄表紙カバー)のできたてほやほやの『翻訳語成立事情』というタイトルの、柳父章さん自前のテキストによって、定員八十人の教室の中で六十人くらいの学生を集めて毎週講義をされていました。
 当時の私は、正直言って『翻訳語』なるものにはあまり関心がありませんでした。ところが、その授業であの「天は人の上に人を造らず。人の下に人を造らず。」という文言を見て聞いてからは、事態は一変してしまいました。それは、言わずと知れた『あの人物』の文言でした。私は、あの『福沢諭吉』さんと奇しくも出会うこととなったのです。
 福沢諭吉さんというと、まず、どういう人物をイメージされるでしょうか。今のご時世では、一万円札の肖像画になっていることが有名で、金融や経済などの『実学(じつがく)』の人という印象が強いかもしれません。まるでそれは、日本経済の豊かさを象徴しているかのようにも見えます。しかし、実像は違うはずです。私も小学生の頃に、国語の教科書でその伝記を読みましたが、慶應義塾創始者であり、日本大衆の啓蒙活動を行った『教育者』としても知られています。「天は人の上に人を造らず。人の下に人を造らず。」という『学問のすすめ』の文言は、彼の『名言』の一つとして一般的に知られています。
 ところが、私は、柳父章さんの授業でその『名言』について、新たな見方を教わりました。福沢諭吉さんのあの『名言』は、『アメリカ独立宣言』の序文の一部”We hold these truths to be self-evident, that all men are created equal, that they are endowed by their Creator with certain unalienable Rights...”(以下のことは自明の真実と考えられます。全ての個人は、生まれながらにして(つまり神の前では)平等であって、創造主(つまり神)から侵されざる権利を与えられている…)を翻訳したことから来ている、という説でした。この『アメリカ独立宣言』の文言で何を言わんとしているのかと申しますと、「すべての国民は、この世で一つの神(創造主)の下に平等である。」ということです。また、それは『神との契約論』や『法の下の平等』などの考え方につながっています。そう言えば、福沢諭吉さんのあの名言も、『国民の自由・平等』を表現したものと一般的に言われています。
 実は、『天』という日本語の言葉は、欧米の唯一の神(一神教の『神』)を日本人に理解させる(もしくは正しくイメージさせる)ために福沢諭吉さんが考え出した翻訳語だったそうです。私は、柳父章さんのその説を学んで、本当に驚きました。あの福沢諭吉さんは、大衆啓蒙家や教育者のイメージがそれまでは一般的に強かったと言えます。その説を聞いてからは、私の中では『翻訳者』としてのイメージが加わりました。『翻訳者・福沢諭吉』というのは、(いまだに)世間ではあまりよく知られていないイメージかもしれません。
 福沢諭吉さんのその『名言』が表現していたとされる『自由』とか『平等』とかに関しても、興味深い説や話があります。『平等』はもともとは仏教用語ですが、西欧の文化や法制度などを取り入れる際に、新たな概念を付け加えて使われるようになった言葉でもあります。「個人の自由を保障することによって、国民の平等を実現する。」などという文脈で使われます。(実は、『個人』という日本語の言葉も翻訳語です。)また、『自由』という言葉を外国語の日本語訳に当てはめたのは、あの福沢諭吉さんだった、という説もあります。その日本語訳の別の候補は、『御免』だったそうです。逆の発想で、あの『斬り捨て御免』を『斬り捨て自由』などと近代的に表現したら、幕末までの武士のその非人道性はわかりやすくなるかも、などと私は勝手に思ったりしています。
 実は、『社会』とか『自然』とかいう日本語の言葉も翻訳語でした。今回は、そこまでにしておきましょう。いろいろ書いてしまって、読む側は頭の中がごちゃごちゃになってしまったことでしょう。要するに、福沢諭吉さんは、外国から新しい文化を取り入れるために、彼なりに日本語の言葉や文章に工夫をしていた、ということだったのです。もちろん、そうした努力や苦心をしていたのは、彼だけではありませんでした。私が言いたかったのは、かの福沢諭吉さんもその一人だった、ということなのです。
 どうしたら、その時その時代の人々に、新しい考え方やそのイメージが伝えられるのか、という工夫は、外国語の翻訳に限らず、社会的にいろんな場面で必要になると思われます。そういう意味で、私はそれについての体験談をいくつか今回は書いてみた、というわけです。