視聴後に感じた爽快感

 最近、FIFAワールドカップで世の中は盛り上がっていますが、私は残念ながらそれほどサッカーに熱を上げるほどではなく、日本代表チームに過大な期待をしておりません。初戦に負けた後で日本のサポーターたちがゴミ拾いをしていた、ということに対して世界のメディアが賞賛した、というニュースを私は知っているだけでした。それよりも、私は、今回の開催国がブラジルということもあって、YouTube動画サイトで8歳のメリッサ・クニヨシちゃんの"Um Anjo Veio Me Falar"(「天使が私と話をしにやって来た」=「天使のお告げ」)を改めて視聴していました。
 最近では、その日本語訳がついている動画も、私は目にしました。とても良い傾向だと思います。私が、この曲を聞きたくて地元の(もちろん日本の)CDショップで注文したところ、ルージュというガールズグループのアルバムCDは絶版になっていました。遅まきながら、その入手経路を調べたところ、ブラジル→コロンビア→USAと手間取っていたこともわかりました。ブラジルでは、ルージュというガールズグループがこの曲を歌唱して、若い娘さんたちに人気のあった曲でしたが、(よくあることですが)この曲もまた、いつしか時間の中に埋もれてしまったようです。
 ところが、YouTube動画サイトで8歳のメリッサ・クニヨシちゃんがこの曲を歌唱したことによって、ブラジルから地球の裏側である日本でも少なからぬ人たちが、この曲に興味を持ってくれたようです。この曲は、一体どんなことを歌っているのか、日本語にしたらどんな意味の歌詞になるのか等々、興味が尽きなかったようです。
 今回私はYouTube動画サイトで日本語訳の歌詞の付いた動画の一つを拝見しました。オリジナルのポルトガル語の歌詞が、ほぼ忠実に日本語に訳されていました。ポルトガル語をかなり勉強されている人によるものと見えて、訳語もほぼ辞書に沿っていると感じられました。私が馬鹿なのかもしれませんが、こんなに優秀で素晴らしい翻訳の日本語歌詞なのに、下手な疑問を持ってしまいました。その優秀な日本語歌詞からは、歌い手にとっての『天使』とは一体何者なのか、いまだに私には見えてきていません。
 俗っぽいかもしれませんが、一応私の場合は答えが出ていました。別れることになってしまった相手は、実は人間ではなくて、(神様の命令であちこち飛び回っている)天使だったのだ。そう思うことにしよう。過去にその相手と出会ったのは、天使が私に話しかけて来ただけなのだ。それをありがたく思って立ち直ろう、というのが曲全体の、私の大まかなイメージでした。(若い娘さん向きのただの流行歌なのだから、そんなに詮索(せんさく)しなくても…と言われそうなので、それ以上ここでこの問題を突(つつ)くのはやめておきましょう。)
 私が、この曲の日本語カバーを作ろうと思い立ったのは、メリッサ・クニヨシちゃんの歌唱を聴いて、というのも理由の一つでしたが、実はもう一つの理由がありました。私は、YouTube動画サイトでルージュというガールズグループの歌唱する、妙に画質の悪いライブ動画を幾つもたどって見ていました。彼女らは、この曲で様々なスタジオ・ライブをブラジルの地元でやっていました。
 その一つは、地元の若い娘さんばかりが観客でした。しかも、プロの歌手がこの曲を歌っているのに合わせて、その観客のほとんどが最初から最後まで大声で歌っていました。日本では、ちょっと考えられないスタジオ・ライブの情景でした。その中で一人だけ、スタジオ後方の立ち見スペースにいた十二、三歳くらいの白人の少女が、申しわけなく一瞬間だけ映し出されました。彼女は、観客みんなのように大声で歌うこともなく、無言で、しかも涙を流していました。それで私は思ったのです。彼女にとっては、観客みんなと同じように声を張りあげて歌うよりも、ルージュというガールズグループを生(なま)でその曲を歌うのを観られたことが、この上もなく感動的だったのだろう。それゆえに、静かに涙を流していたのだろう。
 私は、その妙に画質の悪い動画の一つが、日本から地球の裏側にあたるブラジルで起こったことを記録したものであることに、ふと気づきました。こうした地球の裏側で起こっている、ブラジルの若い娘さんたちの熱狂を何とか日本に伝えられないだろうか、などと考えたわけです。その点では、今回ブラジルのFIFAワールドカップを日本人が楽しむ理由とそれほど変わらなかったかもしれません。
 しかし、何よりも、スタジオの片隅で、その曲を生で歌うスターに感動して涙を静かに流していた白人の少女のことが、私には忘れられませんでした。彼女が素晴らしいと思っていたものを何とか日本語で形にできないかと、私は思ったわけです。それで、そうしたからといって、誰かにホメられるわけでも、賞か何かを期待できるわけでもありません。ただ私は、人知れず、人に隠れて何か良いことをしてみようか、というような感覚でした。その白人の少女からすれば、この曲が日本語で地球の裏側に伝わるなどとは、想像さえしていなかったと思います。おそらく、今でも信じられないかもしれません。
 以上のことから、私の行いの細かな点には勘違いや間違いがあったかもしれませんが、そうしたきっかけと意図によって、私の場合は、その曲の日本語への意訳と、その歌詞の記述へとつながったと言えます。そして、改めてメリッサ・クニヨシちゃんの歌唱によるこの曲を、私自身が作った歌詞を見ながら視聴してみると、この曲の特徴の一つに気づきました。
 私自身が作った歌詞というのは、独立した作品と言うよりも、他の芸術作品を理解するための補助なのではないかと思います。あくまでも、そのオリジナルをより良く、より深く理解するための『補助』として、役割を果たせればそれで良いと、私は思うのです。
 よって、この曲の動画を視聴した後に私が感じたのは、今までにおぼえたことない爽快感でした。日本のポップスや欧米のポップスとは違った感じのスッキリ感が、この曲にはあるような気がします。当然、それは私の一人よがりなのかもしれません。もちろん、そうなのかもしれませんが、ここは一歩譲って、考えていただきたいと思います。この曲を聴くと、日本や欧米のポップスとは違った曲の感じを受けると思います。その新鮮な感じが、私には爽快に感じられたのかもしれません。