シカゴの『素直になれなくて』の日本語カバーに挑戦!

 アメリカ(U.S.A)の男性グループのシカゴ(Chicago)の歌唱していたこの曲"Hard To Say I'm Sorry"は、『素直になれなくて』という日本語訳タイトルで余りにも有名な曲でした。今回は、まず、この曲のタイトルから考えてみることにしてみましょう。"Hard To Say I'm Sorry"という曲のタイトルは、"It's hard for me to say I'm sorry"(「私から謝るのは難しい」)という、この曲の歌詞の一部から来ています。
 ここで、学校の英語の授業で悪評の高かった『英文の書き換え作業』というものを、私もやってみたいと思います。つまり、それを書き換えると、"I can hardly say I'm sorry."となります。「すまないと思っている、と言うことは、僕の方からはほとんど(どうしても)できない。」くらいの意味になります。
 この曲の歌詞中に"I really want to tell you I'm sorry"(「すまないと思っていると、本当は君に告げたいんだ。」)とあるように、この曲の主人公は「本当は言いたいんだけれど、言えない。」すなわち、「思っていることが言えない。」状態であることがわかります。よって、「私からは、素直に謝れない。」→「素直になれなくて」という感じの日本語訳タイトルになるのだと思います。
 この曲の内容を追ってみても、その日本語訳タイトルの通りに感じられるかもしれません。ケンカをして別れる寸前の相手の女性に、この曲の主人公は、「今は僕を抱いてくれ」と言い、「謝るのは僕にはできない」と言い、さらに「そばにいてほしい」とか「わかってほしい」と言います。まさに、心がねじくれていて、素直になれない、と言えましょう。例えば、さだまさしさんの昔のヒット曲『関白宣言』みたいな、男性上位の背景を持った(今では古い日本人にしかワケのわからない)曲なのかな、と日本人は思いがちです。
 しかし、私はこのことに疑問を持ちました。この曲の歌詞中に"hold me now"という文句が何度か出てきます。以前、私のブログ記事を読んだ人はすぐわかると思いますが、この"hold"の英単語の意味は、「抱く」ではなくて、「支える」や「支持する」という意味なのです。従って、ここは、「今は僕を抱いてくれ」というよりも、「今は僕を支えてくれ」または「今のぼくを支持してくれ」もしくは「今の僕の気持ちを解ってくれ」というくらいに解釈すべきではないかと、私は思うのです。すなわち、""Hold me now / It's hard for me to say I'm sorry"という歌詞フレーズのところは、「僕の身になって考えてみたら、僕から謝るなんて出過ぎたマネだとわかるよ」みたいに意訳できると、私は思います。この曲の主人公は、あくまでも相手の女性に低姿勢で臨(のぞ)んでいると私には思えます。
 要するに、この曲の歌詞は、ケンカ別れ寸前の相手の女性を引き止めようとして、「僕の気持ちを察して欲しい。君なら、それができるはずさ。」と説得を続けている男性の語りを表現している、というわけなのです。この曲の主人公が相手の女性に「素直になれなくて」という感じよりも、「こんな僕を今は救ってほしい。」と、相手の女性の側を持ち上げて、切にお願いしている感じに、私はこの曲全体を解釈しました。"I'm sorry"の一言(ひとこと)で全てを片付けないところが、ミソと言えます。あれこれ相手の女性に語って、こっちの気持ちや立場を理解してほしいという内容が、この曲の一連の歌詞になって表現されています。その意味では、あれこれ語って、曲を聴く人の心をくすぐっている点で、前述のさだまさしさんの『関白宣言』の歌詞と共通しているのかもしれません。
 以上のことから、この曲は、単なるロックミュージックとは言えない面を聴く人に感じさせます。そんなわけで、私は今回この曲を日本語に訳して、日本語カバーしてみた、ということなのです。それを、以下に示してみたいと思います。



    『察してもらいたい』


お互い しばしの別れ
君の言う通り!
親しきにも礼儀
だよね お互い


君に
察してもらいたいんだ
そばにいて欲しい


仕方なかったけど
償(つぐな)うつもりさ
誓(ちか)うよ


さんざんな目にあったけども
大切に思えた君だから (ム〜ゥ〜)



離れるのはイヤだ
君のそばから
消されてしまわれそうで
君の記憶からは


今は
察してもらいたいんだ
わかってほしい


ホントは
あやまり続けたいんだ
失う代わりに


仕方なかったけど
償うつもりさ
誓うよ


さんざんな目にあったけども
大切に思えた君だから


仕方なかったけど
償うつもりさ
誓うよ


君なら できるはずさ!



 英語の歌詞自体は、それほど難解な所は無く、むしろシンプルな感じがします。ただし、"after all that's been said and done"とか"after all that we've been through"とかは、「〜だったけれども(結局は)」という意味で訳してみました。また、前者の歌詞フレーズは、「(とやかく言ったりしたりしたものの)やはり、結局のところ」という意味の決まり文句(つまり、成句)として辞書に載っています。しかし、余り簡単に日本語で表現してしまうと、具体性が無くて面白みが無いので、あえて逐語訳的に「(相手の女性から)怒鳴られたり、ぶたれたりしたけれども」→「(君から)さんざんな目にあったけども」と日本語歌詞では表現してみました。同様に、後者の歌詞フレーズは、「僕らは愛し合わなくなってしまった(愛が終わってしまった)けれども」の意味から意訳して、「(それが終わってしまったことは)仕方なかったけど」と聴き手に『(終わってしまった)それ』を推測させる表現にしてみました。
 ところで、今回私がこの曲を取り上げたことには、次のような別の理由もありました。ある時、YouTube動画サイトを私が見ていたところ、"Hard To Say I'm Sorry by Peter Cetera"というタイトルの動画が目に留(と)まりました。"HOT ICE - COOL SOUNDS 2008"というアメリカのアイススケートショーで、生(なま)のポップス・オーケストラをバックにして歌うのは、シカゴのヴォーカルをやっていた、あのピーター・セテラさんでした。しかも、そのサウンドに合わせて、氷上でフィギュアスケートの演技が行われるという、余りにアメリカ的な豪華なショーを私は視聴することができました。
 私は、冬季のオリンピックや世界選手権のフィギュアスケートの試合のテレビ中継はほとんど観ません。規定種目の点数争いばかりが気になってしまうからかもしれません。ところが、ピーター・セテラさんの生うたに乗せて演じられる、そのアイススケートのショーを見ていると、スリリングな気持ちになりました。まるで子供の頃に連れて行ってもらった、ボリショイサーカスのアクロバット演技を見ていた時のように、私は手に汗にぎるという感じでした。その氷上の演技に、観客の側が勝手にハラハラして、勝手に肉離れを起こしそうな緊迫感を味わいました。
 つまり、この"Hard To Say I'm Sorry"という曲は、そうしたスリルあふれるアイスショーにぴったりとくる曲でもあることが、その動画を鑑賞しているとわかります。『素直になれなくて』という曲のタイトル通りの、ねじれた気持ちを表現した曲というよりも、「僕との人間関係をあきらめるのは、まだ早すぎるよ。」とか「愛の主導権(もしくはリーダーシップ)は、僕よりも君にあるんだよ。」とかいう感じで、仲たがいした相手に対して前向きな姿勢を表現した曲なのだと思います。そこに、何らかの困難に対して果敢に挑む人間の姿を思い浮かべるのは、私の独善でしかないのかもしれません。でも、あの動画のアイスショーを思い起こせば、やはりそのような雰囲気の曲だったような気がします。