『まぼろし』の日本語カバー曲

 残念ながら、現時点ではその日本語カバー曲はYouTube動画サイトで検索することはできません。おそらく誰もアップロードしていないためだと思います。一方、その原曲については、"Both Sides Now"もしくは『青春の光と影』という曲のタイトルで検索すると視聴することができます。その原曲"Both Sides Now"はアメリカン・ポップスで、1960年代後半に世に出た曲です。五輪真弓さん、赤い鳥、上田正樹さんをはじめとする日本人アーティストも英語のままその原曲をカバーしていました。
 その一方で、私が十代の頃に聴いたのは、NHK総合テレビでやっていた若者向け歌番組の『ステージ101』関連のLPレコードに収録されていたものでした。その『ステージ101』という番組に出演していたメンバーの一人だった井口典子さんが歌われていました。その頃、私の実家の近くに区立の図書館ができて、私はそこのレコード・ライブラリーを利用しに行きました。そこで偶然、『ステージ101 赤い屋根の家』というタイトルのLPレコードを見つけました。このLPレコードの中にあった曲の一つが、この『青春の光と影』という日本語カバー曲でした。
 私は、その図書館のレコード・ライブラリーでそのLPを聴きました。すると、何となく沖縄の唄みたいなメロディーの曲に出会いました。しかも、その唄の歌詞は異様な感じで謎めいていました。十代の私には、それが人生に皮肉な見方をしている唄にも思えましたが、その割にはその歌詞の意味がよくわからず、私にとっては何だか「もやっ」とした曲になってしまいました。それが、"Both Sides Now"の日本語カバー曲『青春の光と影』というタイトルの曲との最初の出会いでした。(『愛と青春の旅立ち』という曲にタイトルの感じが似ているように思えたりしますが、まったく別の曲です。)
 原曲はアメリカン・ポップスなのに、片桐和子さんの訳詞によって日本語カバーしたら、「ハイサおじさん」みたいな沖縄民謡っぽいメロディーの曲になってしまったようです。曲のリズムや調子がちょっと違うので、そう思うのは私だけなのかもしれませんが、試しにBEGINさんや夏川りみさんや森山良子さんあたりがこの訳詞で日本語カバーされたらグッとくる曲になるのではないかと思いました。
 そこで私が憶えている範囲で、四十年前のLPに収録されたこの曲の歌詞を書いてみることにしました。もしかしたら私の記憶に誤りがあるかもしれませんが、お許しください。何せ若い頃の私には、詩の内容が難解でつかみにくく、間違って憶えてしまっている箇所もあったかもしれません。この片桐和子さんの訳詞は、ウェブのネット上を探しても見つかりませんでした。言わば、『まぼろし』の日本語カバー曲になってしまったのかもしれません。


     『青春の光と影』

天使の巻き毛 空に浮かぶ城
鳥の羽のような 雲の姿
太陽隠(かく)して 雪や雨降らせ
人の行く道を さえぎる雲


私は知らない 真(まこと)の姿を
まぼろしを誘い 人を迷わせる雲


青い月影 六月の夜風
おとぎ話の 愛の姿
冷たい微笑み 色あせた言葉
何も残さず 消えゆく愛


私は知らない 与えて奪い去り
まぼろしを誘い 人を迷わせる愛


涙と恐れ 愛を胸に抱き
憧れと夢に 人は生きる
古い友だちも 今は変わり果て
何かを失い 人は生きる


私は知らない 求めて失い
まぼろしに憑(つ)いて 人は生きてゆくだけ


 いろんなことを具体的に並べたてている英語の原曲の言葉を、上手くかい摘(つま)んで訳していると私は思いました。片桐和子さんのこの訳詞は、その良い例の一つであると言えます。原曲の歌詞とその日本語の翻訳(もしくは訳詞)は、ウェブのネット上で様々な人によって公開されています。そのどれを取って見てもいいと思いますが、英文の意味内容は日本語で表すと原曲の歌詞に劣らず語数が長くなっています。それを縮めて日本語で唄える歌詞にするために、言葉を選ぶということをするわけですが、そこは訳詞を作る人の言葉のセンスが問われます。その辺のところは、NHKテレビテキスト『アンジェラ・アキのSONGBOOK in English』にも記述されています。
 ただし、欲を言えば、片桐和子さんのこの訳詞は難解です。それは原曲の言葉を忠実に翻訳すればするほど起きてしまうことなのです。また、原曲の英語の言葉があちこちで韻を踏んでいて、それがキレイなため、その感じを日本語の訳詞で何とかキレイに表現しようと、苦心されています。多少原文の表現内容を曲げてでもそのような詩の表現を優先させている箇所があるところに、その苦心の跡が伺(うかが)えます。従って、その訳詞を、唄でさらっと聞き流す分にはいいのですが、一歩踏み込んで読めば読むほどその表現内容を理解することが難しい。そのことに気づかされます。
 例えば、「私は知らない」と唄いつつ、その後に続くのは、現在の『私』が両極端な過去の2つの経験を通してわかったことは、雲も恋愛も人生もその正体は幻(まぼろし)である。すなわち、それは人を迷わせて、人が抗(あらが)うことのできないものであるけれども、その正体はわからない、知ることができない。と、そのように述べています。十代の若い私にとっては、これほど難解な内容はありませんでした。
 しかしながら、この日本語カバー曲は、「雲も恋愛も人生も、良い面ばかり見ていないで悪い面も見てしまえば、ただの幻に過ぎないのだから、それらの良い面だけ見て幸せな気分でいると上手く行かなくなるよ。」という教訓を聴く人に与えてくれます。例えば、失恋や失業をした人たちがこの曲を偶然聴いたならば、慰められ癒されるかもしれません。彼らが遭遇(そうぐう)したそうした不幸な出来事が、幸せな人への妬(ねた)みを生じさせたというのならば、それは恋愛や人生について良い面しか見ていなかったからだと、この日本語カバー曲は気づかせてくれることでしょう。そして、どんな幸せも所詮(しょせん)は幻(まぼろし)に過ぎないと考えるならば、どんな不幸な人でも癒されることでしょう。
 従って、この日本語カバー曲は理解に難しい内容ではありますが、決して理解できない内容ではありません。誤解して欲しくないので言いますが、英語の原曲を日本語でカバーした曲としては名訳であり名曲であると思います。しかし、残念なことに訳詞の難解さから多くの視聴者に知られず、そのため広まらず、幻(まぼろし)の名曲になってしまった感じがします。この曲が、人に知られず忘れ去られてしまうのは、惜しい気がしました。そこで、今回私が取りあげてみたわけです。