異国の唄 演歌の調べ?テイスト?

 ”Um anjo veio me falar”の日本語カバー曲『天使のお告げ』について、以前私は書きました。今回は、その日本語カバーの副産物としてわかったことについて述べてみたいと思います。以前書きましたように、私はこの異国の唄をYouTubeの動画で知りました。日系ブラジル人の少女のメリッサ・クニヨシちゃんが歌唱していましたが、そのおおもとは、すでに解散してしまったブラジルの女性グループRougeが歌唱していたものでした。それもまた、YouTubeの動画でMV(ムービービデオ)やLV(ライブビデオ)を鑑賞することができます。
 これもまた、以前書いたことですが、私は日本語カバーの手段として原曲を聞いた際に、おおざっぱなメロディーやリズムのつかみ方をします。例えば、今回の場合だと、曲の最初のパートは「わかりずらいー、こころのーおくをー。わかろおとー、つとめてたー。」とフォークやニュー・ミュージック調(今風に言うならば、J−POP調)に音符を拾って、平板な感じで日本語の語数と合わせてゆきます。しかし、それで終わりにしない、日本語カバー曲が完成したと思わない、作業を完了させたことにしないのが、私のやり方です。もう一度、異国の唄の原曲を聴いて、その唄いの調べ(メロディーの調子やリズム)を確認していきました。
 すると、上述の例では、「わっかりぃ〜づらぁい、こころのーおくぅーを〜。わーかろぉと、つとめーてたぁ。」みたいな調子とリズムで唄っていることがわかりました。この原曲を唄っている異国の女性たちは、ポルトガル語でこのようなメロディとリズムの調子で唄っている、ということを知りました。私の日本語カバーの作業は、それを(似たような意味に翻訳した)日本語の音に当てはめただけだった、と見なすこともできるわけです。すると、不思議なことに、この唄が日本の演歌のような調子で唄えるような気がしてきました。
 特別な作為がある、と思われるかもしれませんが、そうではありません。現に、この曲の動画を見てもわかるように、過去に存在したこのブラジルの女性グループRougeは、若い白人女性と黒人女性の混声グループでした。その曲の調子が、ラテン・ミュージック調であったことは言うまでもないことです。しかし、ここで問題なのは、日系人がメンバーに含まれていないこの女性グループが、地元ブラジルでどれだけ日系人などのアジア系移民の子息から影響を受けているかということです。その答えを明確に求めることは、現時点ではできません。けれども、何らかの影響があったと推測しても、それほど間違いでは無いと思います。要するに、日系人をメンバーに含まない彼女らの唄い方に、日本の演歌と共通する何かが感じられても不思議ではないということです。
 それとも、もっとザックリ考えて、日本の演歌の唄い方というものは、南米のラテン・ミュージックでさえもその特長を吸収してしまうほどの、実はグローバルな側面を持っているとも考えられます。その一方で、日本の若者が、自国の演歌に抱くイメージは、民謡や長唄浪曲などの伝統的な古い音楽を吸収した『古い唄い方』だということです。しかし、そのイメージのとらえ方は実質的には正しくありません。実際に演奏されている時の演歌のムードやイメージだけで(例えば、中高年のオジサンやオバサンがカラオケでいつも唄っているから、など。)、日本の演歌が古い音楽様式だと決めつけてしまうことには誤りがあります。(そういう私だって、つい最近まで「日本の演歌の唄い方は古い。」というイメージを勝手に抱いて、そのように決めつけていました。もちろん、間違いです。)
 むしろ外国人のほうが、日本の演歌に関心を向けつつあります。おそらく数十年後には、日本の演歌の唄い方は、ジャズのそれと並んで、世界音楽のグローバル・スタンダードの潮流の一つになっているかもしれません。上に示した一例は、その可能性を暗示しているようにも受けとれます。
 結論を先に言ってしまいましたが、異国の唄の日本語カバーを試みたその過程で図(はか)らずも、私はそのような途方もない推測を見い出してしまいました。それが単なる妄想に過ぎないのか、それとも、将来に可能性がある推測の一つなのかを、ちょっとした実験で確かめてみようと思いました。
 かつて、こんな話があったそうです。作詞家の阿久悠さんは、八代亜紀さんの『舟歌』を作る時に、この唄を美空ひばりさんが唄われたらどんなふうかと想像して作詞したのだそうです。そこで、私も、もしもこの日本語カバー曲『天使のお告げ』を誰かプロの演歌歌手の方が唄われたら、どんなふうになるかを畏(おそ)れながらも想像してみることにしました。例えば、仮に、その曲の冒頭の「わっかりぃ〜づらぁい、こころのーおくぅーを〜。」を、五木ひろしさんや八代亜紀さんや小林幸子さんが唄ったら、どんなふうになるかなと想像してみました。または、キム・ヨンジャさんだったらどうだろう…、というふうに空想していきました。結局、日本の演歌歌手のいずれの方々が唄われたと想像しても、それほど違和感がありませんでした。
 このことが意味することとは、どういうことなのでしょうか。それは、この唄をあのメリッサちゃんが唄う以前に、すでに日本の演歌と共通するようなもの、つまり、この唄は日本の演歌と共通の調べやテイスト(taste)をもともと含んでいたのではないか。と、そう考えられることなのです。そこから言えることは、すでに結論として言ってしまいましたが、日本の演歌の唄い方が、ワールド・ミュージック(世界的に知られるであろうところの楽曲)の唄い方の一つとして、世界的に認められて普及するかもしれない、という可能性があるということなのです。そして、それはきっと今からずっと先の、数十年以上も後のことであり、私なんかが生きていない未来に起こりうるかもしれません。(最初にも述べましたように、それは、あくまでも推測です。)
 ですから、日本の若いミュージシャンの方々は今でも遅くはありませんから、日本で有名な演歌歌手の北島三郎さんとか、最低限、日本の演歌歌手の名前とその代表曲の一節だけでも覚えていてくれたらいいでしょう。そのほうが、いつか外国人から、それだけで個人的にリスペクト(尊敬)されるようなことになるかもしれません。