私の好きな『瀬戸の花嫁』

 前回の記事と矛盾したようなことを書くかもしれませんが、決して私は日本の演歌こそ絶対的な唄い方であると言うつもりはありません。なぜなら、これさえ唄えていれば日本で食いっぱくれがないとか思って欲しくはないからです。
 YouTube動画サイトでメリッサ・クニヨシちゃんの動画を『瀬戸の花嫁』に限定してチェックしてみました。というのも、以前彼女の歌唱の『瀬戸の花嫁』を私自身が酷評したので、その罪滅ぼしをしたいと思いついたからでした。例えば、この『瀬戸の花嫁』をうまく唄えている動画とか無いのか、小柳ルミ子さんの本人歌唱に少しでも近く唄えている動画とか無いのか、ということを念頭に置いて調べてみました。
 その結果、2011年5月28日にアップロードされた"Melissa_Kuniyoshi_-_Seto_no_Hanayome 28-5-2011 programa Raul Gil"を見つけました。この彼女の歌唱が、小柳ルミ子さんの『瀬戸の花嫁』に一番近くて、そのオリジナルと同じくらいのうまさで唄えていると、私は思いました。
 以前私は、カバーはオリジナルを越えることはできない、と書きました。それはそのとおりで、この『瀬戸の花嫁』は小柳ルミ子さん以外の日本の歌手が唄っても、この唄がヒットしていた当時の小柳ルミ子さん以上にうまく唄うのが難しいのです。どうしてなのか、本当はよくわからないのです。が、試しに今から四十年前の1972年の紅白歌合戦の頃あたりの本人歌唱を動画で見ると少しだけわかるかもしれません。それを見ると、そのそばに天地真理さん(と言っても、若い人には全然わからないかもしれませんが)が映っていました。もちろん、本題とは余り関係ありませんが…。
 小柳ルミ子さんの『瀬戸の花嫁』は、日本ではポップスであって演歌ではありません。その歌声は、瀬戸内海の穏やかな波間に散りばめた太陽の光のごとく明るく華やかでした。「ちょっと気がかりなことはあるけれども、おおかた幸せ」という気分を表現するためには、ポップスの唄い方のほうが透明感があって、聴き手に好まれると思います。
 また、唄の中にその土地の情景が浮かぶようにするなどということは、外国人には理解しにくいことかもしれません。しかし、唄を聴く側の日本人にとっては、いたって自然なことなのです。たとえば、八代亜紀さんが唄われている『愛を信じて』(作詞 秋元康さん、作曲 中崎英也さん)の一部を引用して考えてみましょう。
  人生は捨てたものじゃない 今さら教えられた
  陽は沈んでも 陽はまた昇る 愛を信じたい
という歌詞があります。「陽は沈んでも 陽はまた昇る」と聴いて、夕日と朝日の赤くて丸いお日さまを心に思い描くのが日本人なのです。なぜか理由はわかりませんが、そうした情景を、つまり、言葉ではなくて絵を頭に思い描くのです。そして、ほっと安心したり、心にじーんときたりするわけです。このように、歌詞を直感的に理解します。「どんなに生きるのがつらくなっても、それから立ち直れる時がきっと来る。」といったような論理的な理屈は後からついてくるわけです。
 唄い手は、聴き手の心の中で起こるそのような作用を支援してあげることが大切です。決してそれを邪魔するようなことをしてはいけません。つまり、聴き手の心にその情景が浮かぶように唄うということなのです。この手法は、日本では民謡にも取り入れられている大切なテクニックです。是非このようなムズィカ・ジャポネーザ(musica japonesa)を体得していただきたいと思います。
 私自身は、瀬戸内海近くに住んでいたことは一度もありません。そこへ旅をしたこともありません。仕事の出張で山陽新幹線に乗って、明石あたりで初めて瀬戸内海の穏やかな水面を見たことがあります。また、大林宣彦監督の尾道三部作で、因島あたりの内海(うちうみ)を映画の映像で何度も見たことがあります。私が瀬戸内海について知っていることは、それだけなのです。にもかかわらず、小柳ルミ子さんの『瀬戸の花嫁』を聴くと、その瀬戸内海の情景(というか、そのイメージ)が日本人の私の心にハッキリと浮かびます。
 そこで、私が注目した上記のメリッサちゃんの『瀬戸の花嫁』の動画について述べてみましょう。この唄の歌唱の動画は他にいくつもあるのですが、なぜこれが一番良いかと申しますと、唄にまとまりがあって、ブレていないことだと思います。個々の言葉の感情表現よりも、唄全体でどんなことを伝えたいかがハッキリしていると感じられました。音程もハッキリしており、発声が日本人らしくて、それがとてもきれいでした。直接は関係ないかもしれませんが、バックダンサーの動きにもメリハリとキレがありました。
 彼女の歌唱の動画を他にも見て思うのですが、日本語がハッキリ発音できているので、伝えたい気持ちがハッキリしていないと、もったいないなあ、と思いました。その場合、話す日本語の意味内容がわかる、わからないは関係ありません。それは例えば、ブラジルから日本を思い慕う気持ちだけでも十分なのです。あえて言えば、それ以外何もなくても、気持ちは十分に聴き手に伝わります。あれこれ考えてしまうと、結局気持ちがブレてしまって、一瞬一瞬の唄い方はうまくて賞賛はされるでしょうが、その唄自身は聴き手の心に残らないと思います。聴き手がいつかその唄を思い出して、自ら口ずさんでしまうような、そんな印象の残り方を目指してほしいと思います。
 私は、その動画で見た『瀬戸の花嫁』のメリッサちゃんの歌唱については、100点満点を付けたいと思います。その理由は、上に述べたとおりです。この唄の場合、演歌の唄い方でなくても、十分上手に唄えていると思います。これが、『瀬戸の花嫁』の前回の私の酷評に対する罪滅ぼしになってくれればいいと願っています。