大人が観る仮面ライダー作品

 仮面ライダーというと、50年近く前にテレビで放映されていた初代仮面ライダー以来ずっと、子供番組としてあり続けたシリーズでもあったわけです。けれども、今回私が紹介する特撮映像作品は、そうした子供向けのテレビシリーズとは一線を画(かく)するビデオ作品です。私は、それらをレンタルビデオ屋さんで見つけました。確かテレビのいつもの時間にやっていなかったな、と気づいて、ネットで調べてみたら、そのとおりでした。以前テレビで放映していた『仮面ライダーアマゾン』のリブート作品で、その前作を引きずらない新たな内容の作品でした。『仮面ライダーアマゾンズ』と『仮面ライダーアマゾンズseason2』の計26話と劇場版『仮面ライダーアマゾンズ -最後ノ審判ー』を、私はレンタルビデオ屋さんから一巻ずつ借りて、つい最近やっと全9巻を鑑賞し終わりました。
 本来私は、格闘シーンとか、残虐なシーンとか、勧善懲悪の正義のヒーローとか道義心とかに、それほど興味があるわけではないと思います。現実の世の中は不条理だらけで、いくら我慢をしても結局報われずに、どうにもならなかったというのが、ある意味人生の真実だと、私は思っています。よって、このような特撮ドラマを見る時に、何を一番の見どころにしているのかと申しますと、非日常に置かれて不条理かつ混乱した世界で生きる『人間というもの』の言動に最も興味を惹(ひ)かれます。私が本当に興味があるのは、正義のヒーローとして活躍する仮面ライダーでもなく、悪のかぎりを尽くす怪人や怪物でもありません。彼らとは比べものにならないくらい、実はひ弱で非力な『人間』が、何を考えてどんな言動をして生きてゆくのか、ということです。すなわち、こうした特撮映像作品を私が好むのは、『人間』のそういうところに、単なる善悪を越えた複雑な面白さを感じるからなのです。
 そのような私が、このような作品を観て思うことは「少し得(とく)をしたな。」という素直な感想です。例えば『仮面ライダーアマゾンズseason2』の最終話で、若い男女(実はアマゾン)が消滅しますが、私としては、人間的な悲しみよりも、危機的状況が去った後の爽快な気分に、思わずホッとしました。そのような心理現象は、文芸理論的には、悲劇を観終わった後に訪れる『心が浄化される作用』と呼ばれています。H大学在学中に、私は『英米文芸理論』という授業で、そういう『心の浄化作用』について学んだ記憶がありました。よって、この特撮映像作品は、しっかりとした骨のある内容があって、賞賛に値すると思いました。(実際に、ネット上でも高ランクの作品評価だったみたいです。)
 劇中のセリフとしては、「人に、アマゾンは早すぎたようだ。」とか「脅(おびや)かされない命は、弱い。」とかいう人間側の発する意味深い言葉があって、私は勉強になりました。特に、「人間を守るには、人間をやめないと。」という言葉には、「人間全体をアマゾンの脅威から守るためには、自らが人間の心を捨てなければならない。」という意味があって考えさせられました。
 また、「食うか食われるか」という言葉の背景には、どんなに我慢や自粛をしても結局「人間のタンパク質を食べることを生きるために選んでしまう」アマゾンという怪人の姿が必ず浮かんできます。実は、そのようなアマゾンの姿には、人間の本当の姿が投影されています。当たり前と言っては、当たり前なのですが、私たち人間は、どんなに我慢や自粛をしても結局「他の生物の命を食べることを生きるために選んでしまう」のです。いくら考えても意識しても仕方がありませんが、そうしないと生きて行けないという、どうにもならない運命を誰もが背負って生きております。
 確かに、この特撮映像作品は、残酷なシーンも多いし、お子様に観てほしくはないシーンも少なくありません。しかし、その分を大人が観てほしいと思います。今の非日常に我慢の限界がきている皆様や、この世を憂(うれ)いて怒り心頭(しんとう)の皆様方、そして、自粛警察を正義の味方だと信じて悪に成り下がっている皆様方に、このような映像作品の鑑賞をおススメいたします。このドラマの残虐なシーンや悲劇的な幕引きを観ていただいて、この不条理な人生の、多少の慰めにしていただきたいと思っております。