罪を憎んで人を憎まず

 日本国民の一人である私は、(私の親も祖先もみんなそうなのですが)日本人であるにもかかわらず、一度も靖国神社へ参拝に行ったことがありません。幸か不幸か、靖国神社への参拝の仕方を知らないのです。四年間、私が通っていた大学のキャンパスからは、靖国神社の裏手にある、相撲の土俵がよく見えましたが、靖国神社についてはよく知りませんでした。ただし、私は靖国神社の脇にある博物館(博物館法の適用外の宝物館という見方もあります。)を三十代の頃に個人で見に行ったことがあります。何を見に行ったかと申しますと、日清戦争から太平洋戦争までの展示で、それがどのようにされているか、ということに興味を持っていたからです。
 当時私は、会社の仕事で一年に一回くらい、デパートなどで開催されていた『平和祈念展』の看板や展示パネルを2Dプリンタの出力で作っていました。それで、日本の戦没者遺族から寄贈された様々な物品や遺品が、その展示場で一般に公開されていたことを知っていました。例えば、私はその時の仕事で、国からの軍隊への召集令状として使われた『赤紙』というものを初めて見ました。それは、赤い色の紙ではありませんでした。私が見た実物は、薄茶色の普通の紙でした。実際に見てみないと、わからないことがこの世の中にはあるのだなあ、とそれを見て思いました。
 最近、ある若い学者さんがその著書で「日本には、戦争博物館が無い。」ということを書かれていると、私は知りました。私は、学生の頃、博物館学の授業で、欧米には戦争博物館があるということを学びました。世界の中の日本の立場として、それにはそれなりの理由があって無いのかもしれない、と学生の頃は思っていました。
 余談ですが、その博物館学の講師の先生(もう亡くなられていると思いますが)は、旧日本海軍青年将校で大尉だった人でした。戦時中に機雷の作戦計画を立てる任務に就いていたため、東京裁判の場に引っ張って行かれそうになりましたが、軍の中での地位が一つだけ低かったため、刑罰を免れたそうです。それから一生結婚もできず、戦後の数年間は、罪の意識に苛(さいな)まれ、何らかの戦争責任をとらされるかもしれないことに怯(おび)えて、ある場所で雲隠れしていたそうです。
 平和祈念展が毎年どこかのデパートで開催されていた、私の三十代の頃の話に戻しましょう。靖国神社の脇にある博物館でも、南国で回収された零戦の朽ちた部品の一部とかが展示されていました。それを見て私は、日本では、そこが、実質上の軍事博物館もしくは戦争博物館と呼べるのではないかと思いました。
 また例えば、そこで私は、日清戦争の図解パネルに目が行きました。現在の北朝鮮の首都ピョンヤンの所に戦場のマークが付いていることに、私は注目しました。何で北朝鮮が今でも日本に敵意を抱くのか、ということが、そのマーク一つでわかりました。明治時代に清国と日本との間で戦争が起きて、ピョンヤンの街は戦争に巻き込まれてしまったのです。その被害の規模は、そのパネルを見るかぎりでは、私には少しも伝わってきませんでした。けれども、時たま北朝鮮から「お前たちの街を火の海にしてやる。」みたいなメッセージが発信されると、そのような過去を実感させられた遺恨(いこん)が彼らに思い起こされての発言かもしれない、と想像することができるようになりました。
 私はそのような意見を持ったのですが、そんなふうに博物館利用者に何らかの説明を与えてくれるということは、既に立派な博物館であると言えましょう。
 さて、今回の本題に入りましょう。安部首相の靖国神社参拝に関して、韓国・中国が反発し、そのことで米国が懸念を表明しているというニュースを知りました。東アジアの状勢が緊迫し、それによる何か悪い影響が近いうちに起こるのではないかという心配がマスコミの報道から感じ取れました。
 私の意見としては、日本に対する韓国・中国の反発や批判は、当然だと思いました。米国の側の懸念も、ごもっともだと思いました。けれども、一番大切なことは、日本人の側にあると思いました。韓国・中国や米国から言われたことに、反感を持ったり、不安や不満を感じる人は、ちょっと気をつけたほうがよいかもしれません。私は、韓国・中国や米国は正しい主張をしていると思います。もちろん、それは現在の日本に対する『誤解』(misunderstanding)を含んでいるかもしれませんが、たとえそうだとしても、それに反発したり、激怒する理由は、現在の日本国民には無いと思います。
 「罪を憎んで人を憎まず」という言葉があります。その言葉の意味は、ネットで調べてみればわかるので、あえて私は示しません。それは、中国の孔子の言葉でもあり、英語圏にも同じ意味の言葉があります。その言葉に照らしてみれば、安部首相の靖国参拝の意味を別の観点から理解することができます。さらに、韓国や中国の反発や批判を「罪を憎んで人を憎まず」の観点で見直してみるといいかもしれません。彼らが反発や批判をしているのは、現在の日本人そのものを責めているのではなく、国家としての日本が過去に犯した過ち(歴史上の事実)を責めているのだということがわかります。過去の日本人が彼らを侮辱して「ちゃんころ」とか「鬼畜」とか言っていたお返しが来るのではないかと、つい日本人は考えがちですが、彼らはそんなつもりではない、ということを知るべきです。
 中国の偉い方が言われたように、ビジネスや交流でいろいろと不都合が起こっても、日本側がその責任を負わなければならないと思います。けれども、それは、中国側に依存していたことについては、もともと日本の側にも責任があるわけで、やむをえないことなのかもしれません。くどいようですが、だからと言って、中国を軍事的に侵略しよう、とか、戦争をして中国から利権を確保しよう、と考える日本人は一人もいないことをここで強調しておきます。そういう考え方は、過去の日本がやってしまった侵略戦争のパターンであり、日本の軍国主義の正体だったと思います。
 ただ、中国や韓国の人たちに理解されてない点が一つあることが気になります。日本は、他国からの無条件降伏を受け入れて東アジアで唯一、敗戦国になった国です。一方、中国や韓国は、他国に侵略されても、国家としては一度も降伏したことがなく、敗戦国の弱い立場に立った経験もありません。そのために、強引な主張になりがちであり、それに彼らの国民一人一人も引きづられてしまう傾向があるように思われます。
 大切なことは、そんな場合でも「罪を憎んで人を憎まず」という、人間一人一人が持つモラル(morality:道徳)だと思います。近年、日本でも青少年の道徳教育の重要性が指摘されています。しかし、それは、学校教育や日本社会の中だけにしか通用しないものなのでしょうか。国際社会やグローバルな世界では、通用しない考えなのでしょうか。そこまで範囲を広げて疑問視するならば、人類共通の課題の一つとして考える価値がこの言葉にはあるのかもしれません。