映画『二百三高地』に観る人道危機について

 私は、1980年に日本で上映されたこの映画を、ロシアの方々に観ていただいて「これは全部ウソだ。これは映画だ。ねつ造したフェイク画像だ。」と言って欲しいと思いました。まさに、観ての通り、その通りです。『世界最強ロシアvs.弱小明治日本』という劇場版予告編のテロップを見てもわかるように、この日本映画は、難攻不落と呼ばれたロシア軍の旅順要塞を、旧日本軍が多大の犠牲を払った末に攻略した、日露戦争のお話です。
 歴史の教科書などを見ても、「日露戦争は、帝政ロシア租借地・旅順を占領し、さらにバルチック艦隊日本海海戦で破って日本が勝利した。」などと書かれていました。確かに、当時の日本国民の多くは戦勝気分を味わって歓喜・熱狂したことでしょう。しかし、その裏で、取り返しのつかない極悪非道と遭遇し、その苦しみと悲しみの数々があったことなどは、教科書のどこにも書かれていません。この戦争映画は、史実をはるかに超えるその苦しみと悲しみを、日本人の観客に感じさせて、胸を痛くさせて考えさせる映画でした。
 この映画『二百三高地』の最大の見どころは、ロシア軍やロシア兵からの残忍な戦術とだまし討ちに遭(あ)って、むごい死傷を被る日本軍や日本兵の惨劇だと思います。そのような残虐非道さが戦争だとロシア国から学んでしまったことが、その後の満州事変や日中戦争における旧日本軍やその兵による残虐非道さにつながっているのではないか、という恐ろしい懸念を抱かせます。旧日本軍の残虐さを主張される反日の方々は、そのように東アジアの大問題を深く探究し検証されているのでしょうか。そのようなことを、私はあえて問いたいと思いました。
 この映画の劇中のセリフの一部を引用いたします。それは、乃木将軍を前にしての、下士官からの直訴あるいは告白という形で伝えられます。「最前線の兵には、体面も規約もありません。あるものは生きるか死ぬか…。それだけです。兵たちは、…死んでゆく兵たちには、国家も軍司令官も命令も軍規も、そんなものは、いっさい無縁です。灼熱地獄の底で、鬼となって焼かれていく苦痛があるだけがです。その苦痛を…部下たちの苦痛を、乃木指揮の軍人精神で救えるがですか。(略)…、前線に立つ者が死ぬ運命にあるのは、当然だと申し上げておるのです。それなのに、部下やご令息を死地に駆り立てながら、敵兵に対して人道を守れと命ずる軍司令官(つまり、乃木将軍)のお考えは、自分には理解できんがです。」と、その下士官は怒りと涙でぼろぼろになって訴えるのです。
 もちろん、日露戦争は、幸いにも戦闘に民間人を巻き込まなかった、兵対兵の戦いとなりました。しかし、旅順要塞をめぐるその戦いは、いわば白兵戦として、言い換えれば肉弾戦として、多くの兵たちがその犠牲となりました。彼らの一人一人に家族がいて、その悲しみもこの映画では描かれます。つまり、死んだ人は二度と生きては帰って来ないのです。そのような惨状を訴えるかのように、さだまさしさんの『防人の詩(さきもりのうた)』が流れます。尋常ならざる苦しみや悲しみが、この楽曲を通じて観客に伝えられます。
 もう、これは、国家のトップが世界的な制裁を受けるだけでは済まされない、人道の危機があるように、私には思えて仕方がないのです。人類の歴史を振り返ってみても、度重なる争乱の中から哲学や宗教が生まれてきたような国もあります。すなわち、何らかの方策や知恵が生まれ育っていかないと、核などの大量破壊兵器の問題も、さらなる戦争の悲劇も、悪化の一途をたどってしまいます。戦争が早く終わればいいというのは、願望としては立派かもしれませんが、根本的なことが解決されていないと、終わりの始まりにすぎなくなってしまうものです。おそらく、次なる惨事は、もっと酷(ひど)いことになっているかもしれません。