東京大空襲について私が知っていること

 今日の夕方、テレビのニュース報道番組を観ていたら、昭和20年3月10日の東京大空襲のことを池上彰さんの解説付きで報道されていました。

 もちろん、私は昭和36年生まれで、直接このことを経験したわけではありません。ですから、このことを戦争体験として語り継ぐことは出来ません。しかし、全く何も関係がないわけではないことを、このブログ記事を最後まで読んでいただければ、わかっていただけると思います。

 私は、子供の頃に、テレビの終戦特別番組の映像で、その東京大空襲の様子を初めて知りました。アメリカ側と日本側の両方の映像を見たので、その情報の偏りというものは無かったと思います。また、10代になって、早乙女勝元さんという人の著作で『東京大空襲』というタイトルの岩波新書を買って読んだことがあります。あの日に何が起こったのかが、生き残った証言者の言葉を交えて、詳しく書かれていました。そしてまた、NHK朝の連続テレビ小説などで、終戦直前の東京の下町にヒロインが住んでいると、必ず描かれるのが東京大空襲の場面であることは、よく知られていると思います。

 確かに、第2次大戦中に、いろんな都市が空襲にあっているわけで、東京のその空襲だけが特別だというわけではないという意見はごもっともだと思います。しかし、なぜその空襲に「大」という字が付いているのかという意味を、本当は考えて欲しいと個人的には思っています。

 当時生きていた人で、今ではおじいさんになった人で、戦災に遭(あ)った地域から少し離れた場所に住んでいた人に、私はかつて話を聞いたことがあります。「アメリカの爆撃機がずっと向こうに飛んでいる音がして、爆弾を落とされた場所に火の手がまわって…」などと、まるで戦争映画の場面を観ていたかのように、他人事のように話し出されたので、私はびっくりしました。戦争の惨禍とは、同じ空の下であっても、遠くで起きていることについては、他人(ひと)はドライに感じてしまうものなのかな、と思いました。(それはそれで恐ろしいことなのかもしれません。)

 東京の下町の、さらに下町の足立区の北側は、埼玉県と接していますが、その境目には、『お化け煙突』と俗に呼ばれていた工場の煙突がありました。私は写真で見たことがありますが、その複数の煙突が、見る方向によって本数が違って見えたために、そう呼ばれていました。けれども、それはアメリカの爆撃機にとっては、格好の目印となってしまったらしく、その『お化け煙突』の南側がじゅうたん爆撃の対象になりました。もちろん、『お化け煙突』のすぐ南側に位置する足立区も、アメリカの爆撃機からじゅうたん爆撃をされてしまいました。(戦後、私が幼い頃に、その時にアメリカの爆撃機から落とされた不発弾が近所で見つかって、大騒ぎになったことがありました。)

 昭和20年当時、私の父は小学校の高学年で、足立区の梅島小学校に通っていました。私の実家はその時すでに、その小学校から南西に徒歩で7分ほどにあって、私の父とその両親(つまり、私の祖父母)の3人でそこで暮らしていました。そして、運命の日の前日に、私の父は両親に連れられて、長野県の柏原の親戚の家に疎開しました。東京の上野駅から、汽車で長野県の黒姫駅へその3人は移動したのでした。

 その結果、私の父には、小学校の同級同学年の友人が一人もいません。実は、あの東京大空襲の日に、学校の同級生が全員アメリカの爆撃でやられて(つまり、死んで)しまったのです。私の父だけが、たまたま私の祖父母に連れられて、その前日に長野県に疎開したおかげで助かったらしいのです。あと1日、その出立(しゅったつ)が遅れていたら、私の父も祖父母も、命が無かったかもしれません。

 何たる偶然、そして、何だか不思議なSF的な話かもしれませんが、もしも私の父がその時に戦災で亡くなっていたら、私が生まれることはなかったわけです。こうして、私が皆さんにブログ記事を書いているなどということも、事実として無かったかもしれません。

 重ねて申し上げますが、私の意図は、反戦を唱えることでも、当時のアメリカ軍を非難することでもありません。戦後に生まれた私には、あの頃に犠牲になって亡くなられた人々の苦しみや悲しみの、直接の経験さえありません。けれども、もしも私の父があの日に命を落としていたならば、私自身の人生そのものもこの世に全く存在していなかったであろうことは、よく理解しております。